怨念桜

しうしう

桜の根元で

 桜の花は人の血を吸い赤く染まる。ここに何百年もそびえる桜の木が一つ。ああ、今宵また一人の女性が、桜の根本に埋められる。


◇◇◇


 愛していた。本当に。だから彼の言葉を疑ったことはなかった。彼は自分の両親に結婚を反対された、駆け落ちしようと言った。だから貯金も何もお金になりそうな物をすべて持って、彼の用意した車で逃げた。

 けれどしばらく走って、知らない町の人通りの少ない岡の上に差し掛かった頃だった。彼は車を止めて外の空気を吸おうと誘い出した。車から出たその瞬間、何者かに後頭部を打たれ、自分の頭蓋が砕ける音を聞いた。そして振り返った彼の笑顔を、最期の記憶に焼き付けて事切れた。

 ただその笑顔は自分ではなく、自分を殴った人物に向けられていたことを魂に刻み付けて。


◇◇◇


  二人の男が土を抉る音が、闇夜に響く。桜の根本に深く深く、何かを埋めれば二度と掘り出せないような穴をほる。

 二人は闇が渦巻く穴の底に、女性を一人投げ込んだ。女性は抵抗をしない。もう鼓動することを止めた心臓と、熱を失った体は抵抗することも許されない。二人の男は女性の骸を穴の底の闇と共に葬った。男達は、女性の物だった金品を手に振り返らずに歩き去る。

 女性の体が朽ちて崩れて消え失せるまで、永遠に女性を抱いていろと背後に怪しく揺れる桜の花に願って。

 一人、その一部始終を見ていた者がいた。不敵な薄笑いを浮かべて、誰の目にも映ることのない者が。


◇◇◇


 気づいたら桜の巨木の下に立っていた。

 薄桃色の花弁が降り注ぐ。目の前は花吹雪が包み、足元には花弁の絨毯が広がる。頭上では満開の桜が濃紺の空を包み隠す。ほんの小さな、木の下の空間。そこは桜に隔離された、幻のように美しい場所。

 派手すぎず控えめな桜の花の色。だが確かな存在感と艶やかさを兼ね備えて、凛と咲き誇る。

 その姿を虚ろに見つめて考える。頭の中には乳白色の霞みがかかり、記憶の全てを覆い隠す。ずっとここにいたような気もする。たったさっき来たばかりの気もする。何もわからない、それでもなお、記憶を辿る。

 ふと胸の中に、どす黒い憎しみと、底無しの怒りが洪水のように押し寄せた。ひたひたと、沁みるように心が侵食される。その思いの意味するところはわからない。

 だけど、そのどうしようもない怒りを払拭したくて、消し去りたくて。方法は不思議とわかっていた。脳裏に消えることなく染み付いた、笑顔の男を無残な姿に変えること。親ですら見分けがつかなくなるまで、ずたずたに引き裂こう。きっと私にはできるだろう。強い思いに身を任せ一歩踏み出す。

「待ちな」

 頭上から響いた澄んだ声に、引き留められる。顔をあげると桜の枝に座った人。中性的な美しい顔、細身な体躯、黒地に桜柄の着流し。真っ直ぐな黒い短髪、胡散臭い笑顔。

 無視して行こうかとも思ったけれど、その声は抗うことを許さない。無愛想に返すと、また唄うように返される。

「何ですか」

「どこ行くの」

「わかりません」

「わからないのにどこかに行くの?」

 詩のような、短い言葉で紡いだ会話。

 とっとと行きたいと思うのに、その声をもっと聞いていたいとも思ってしまう。

まるで麻薬のような中毒性。

その人は手を伸ばして誘う。

「おいで」

「そんな高いところに、どうやって登れって言うんですか」

「いいから。おいで」

 もう一度言い換えそうと口を開いた。

 すると、いきなり桜吹雪が顔に吹き付ける。慌てて目を閉じる。吹き付ける風が、穏やかに変わったのを感じて、ゆっくり目を開くと、目の前に美しく胡散臭い笑顔があった。いつの間にか、桜の枝にその人と並んで座っていた。

「ワタシの名前は木の葉さん」

「木の葉……」

「木の葉さん。さん付けして」

「あの、私いつの間に……」

「気にしないで。ずっと話し相手が欲しかったんだ」

 木の葉さんはぱたぱたと足を振る。木の葉さんの下駄が桜の枝に打ち付けられる。嬉しそうなのが一目でわかる。

 こんから、こんから、こんこんこん。

 下駄の乾いた木が、桜の生きた樹に生傷を刻む。とても大人らしくて美しい人なのに、その仕草はずいぶん子供っぽい。木の葉さんはにぃっと笑って喋り出す。

「話してよ。相手になって?」

 やっぱり容易に信用ならない笑顔。もしも素でそうなら、結構損をしてるんだろう。

「相手になってって言われても……」

「まずは名前。名前聞かせてよ」

「名前……」

 問われて初めて気付いた。

 名前、覚えてない。名前だけじゃない。自分の半生、性格、出身地、歳も誕生日も何も覚えてない。何もかも忽然と、自分の中から消え失せている。

 真っ白な乳白色の靄。この木の下で感じた感覚が舞い戻ってくる。同時に名前もわからない、男の笑顔が記憶の海に浮上する。怒りが再び理性を染める。その男の名前も知らない。ただ、純粋に望むのは、彼の無残な死……。

 ぱんっと乾いた音が思考を止める。振り替えると、木の葉さんが手を合わせてにーっと笑っていた。どうやらあの音は、木の葉さんの打った柏手のようだった。

「怖い顔してどうしたの。名前は?」

「知りません」

 唯一の記憶のよりしろ、怒りを絶たれた苛立ちを声に混ぜる。でも不思議とどす黒い感情が、吹き飛ばされた気分は悪くなかった。

「知らない? ワタシは……、涼とか静とか、クールな感じだと思う」

「クール……」

「ちょっと冷たいイメージがあるから」

「そんなこと無い」

「あれ、外れ? じゃあ……花とか心とか?」

「ぴんとこないです」

「えー、じゃあもういいよ。なんて呼ばれたい?」

 木の葉さんは、こてんと首を傾げる。黒髪がさらりと揺れる。子供っぽいのになんだか艶やかな仕草。

「なんて呼ばれたいって……」

「だって、話をするなら名前が無いと、不便でしょ?」

「じゃあ……」

 ふと、目の前を覆う花吹雪に目を止めた。

「吹雪」

「ふぶき?」

「私冷たいイメージ、なんですよね」

 ちょっと意地悪く言うと、木の葉さんはにやっと笑った。皮肉られて笑うなんて、結構いい性格をしている。

「ねえねえ、吹雪。聞きたいことがあるんだけど、いっぱい」

「なんですか」

「吹雪は今までどこにいたの?」

「どこ?」

「ワタシずっとここにいるから」

 知りたいの、他のとこ。と木の葉さんは言う。そんな無邪気な調子で言われると胸が痛む。何も覚えてないなんて言ったら、この人はどんなに落胆するだろう。

「ねえねえ。もしかして山のなかとか? 海の側とか?」

「海か……。なんとなく、海の近くにいたような気もします」

「へぇー、海の側に住んでたの?」

「……住んでたって言われれば、住んでたような気もするけれど……。住んでなかったって言われれば、住んでなかったような気もします」

「なにそれ。ちょっとは思い当たるなら、吹雪はきっと海の側に住んでたんだよ」

 かなり無茶な言い草だけど、別に私が今までどこにいたかなんてどうでもいい。だからあえて訂正はしない。

 木の葉さんの興味はすっかり海に向いたようで、一人で想像の海を語っている。

「やっぱり、真っ青な海で、いっぱい魚がいるんだよね。浅瀬では、底の砂がはっきり見えるくらい透き通ってて……。砂浜には綺麗な色の貝殻がおちてて。夏なら水温は高いのかな。泳いだら気持ちいいんだよね、きっと」

 木の葉さんがうっとりと、歌うように紡ぐ海の描写。でもそれを聴いて脳裏に浮かぶのは、全く違う海。

「……ううん。濃紺色の海で、魚は大きいから岸にはほぼ寄り付かないの。プランクトンが多くて、海の透明度は低いわ。砂浜には岩があちこちに突き出してて、落ちてるのは漁船が捨てた、真っ白いホタテの貝殻だけ。夏でも水温は低くて、足を浸けるとひやっとするの」

 言い切ってから、思った。自分はいったいどこの海の話をしているのだろう。口から飛び足した言葉は、自分の物のようで自分の物でないような。でもその海の景色ははっきりと思い浮かんだ。そして今度は、自分はその海の側に居た。とはっきり思えた。居たかもしれない、居なかったかもしれない、と言うあやふやな感覚ではなく、はっきりと。

 はっと、木の葉さんを見ると、きょとんとした顔をしていた。そんな顔も絵になる美形だ。それから木の葉さんはくすくす笑った。

「じゃあ、北の海かな。吹雪は北の海の近くに居たのかな」

「北……。そうですね、そうかもしれない」

「でもホタテか……。ホタテはお刺身がいいよね。醤油にちょんって浸けてぱくっと。ああ、想像しただけで美味しそう……」

 木の葉さんはその真っ白な手で、ホタテの刺身を食べる仕草をしてから、うっとりと目を細めた。

「私はホタテのヒモが苦手で……。だから乾物のホタテが好きだったの。口に入れて噛んでると、少しずつしょっぱい味がして……。ああ美味しかったなぁ……」

 やっとふんわりと白い霞に溶けていた記憶が、形を成して、その端を手繰り寄せた気がした。

「やっぱり海の側の育ちなら、海水浴とかして遊んだの?」

「海水浴……。ダメ。泳ぐにはあの海は、冷たすぎる。私……何して遊んでたんだっけ」

「砂遊びとか……、ホタテの貝殻で遊んでたとか?」

「岩が多くて砂遊びはできなかったな。ホタテの貝殻も、触るとすぐ砕けちゃって……」

「巣潜り……は無いか。海冷たいんだもんね。後は、船に乗るとか?」

「船……、そう! 私のお父さんは漁師だったの! だから私はお父さんと船にのって、商品にならない海藻とか、小魚とかをもらって遊んでた」

 小魚を水槽に放して遊んだこと、海藻を振り回して身体中海水でべたべたになったこと。潮の匂い、船の揺れ、漁師達の声、父の頼もしい背中……。ありありとそれらが思い浮かぶ。

 でも父の顔も、父が呼ぶ私の名前も思い出せそうで思い出せない。思い出の中で振り返った、父の顔が暗く影って見えない。父の言葉で私の名前だけが、雑音に掻き消される。もどかしく、怖くなるくらい胸の底が痛い。

「どうしたの?」

 ぽんっと肩に何かが触れる。顔を上げると木の葉さんが首を傾げていた。絹糸のような髪が風になびく。此方の胸の内を何一つ察していないような、不思議そうな顔をしていた。木の葉さんの手が触れている肩は、じんわりと暖かかった。

「ねえねえ、話の続き。じゃあ……吹雪はどんな家で育ったの?」

「家?」

「弟とかいそうだよね、お母さんは優しかった? 家は……洋館かな。荒れる北の海、絶壁に建つ白亜の洋館! 素敵だなー」

「まさか。木造の、広いけど古い家。絶壁になんて建ってないわ。海が見える町に住んでたの。そうね……。確かに弟はいたわ」

 また自分の言葉にはっとする。木の葉さんがまったく的外れなことを言う度に、さりげなく修正するように言葉が溢れる。蘇った記憶がずっとそこにいたような顔をして、脳みそに鎮座している。

 不思議に思って木の葉さんを見る。木の葉さんは、自分の言葉が私の記憶を呼び戻している、なんて微塵も気づいてないようで、無邪気に話の続きを急かす。

「どんな弟だったの? 兄弟仲、良かった?」

 木の葉さんに望まれるままに、記憶の糸を手繰りながら思い出す。

 馬鹿で間抜けで生意気で、トロくてちびの癖に「姉貴」なんて強がった言い方をする弟。

 古くて軋むけど日差しの暖かい縁側、土間のある台所。

 畳に蚊帳にふすまにちゃぶ台。

 確か私は、都会の街とフローリングの床と立派なベッドに憧れる、よくいる田舎の女の子だった。

 そよ風が桜の花びらを浚う。思い出が鮮明になるにつれてそよ風は突風に変わり、桜吹雪が視界を覆う。木の葉さんに、桜の樹の上に誘われた時の感覚に酷似している。そっと目を閉じると、桜の花びらが肌の上を滑って行くのを感じた。やがて肌に触れる花びらを感じなくなり目を開く。

「えっ……」

 そこは薄桃色の花弁に包まれた樹の上ではなかった。障子が開け放たれた、和室。縁側の向こうは夕日に染め上げられている。遠くから仄かに香る潮風と、炊事の香りが混ざりあい、なんだかとても懐かしく感じた。その風景は私の記憶をそのまま現実に写したような、思い出したばかりの私の家。

 あまりのことに呆然と突っ立っていると、足元を小さな影が横切った。それは縁側を弾むように駆けていく、幼い二人。かつての弟と、自分。幼い私を追いかける幼い弟が叫ぶ。

「待ってよ、信乃姉ちゃん」

 その声を境に再び世界が暗転する。そして暗い世界に点滅するように、記憶がよみがえっては瞬いていく。記憶の空白に、思い出の洪水が流れ込む。頭の中にかかっていた靄が、吹き飛ばされていく。

 はっと、鋭い痛みが胸を突く。そして思い出したのは、自分がとうに死んでいたという事実。自分を死へと誘った出来事と、深く深く数えきれない後悔の数々。

 もう二度と、懐かしむこともできない思い出、それに今となっては、この身が引き裂けようとも晴らされぬ、哀しい想いの全て。

「姉貴、あいつはやめとけよ。良い噂聞かねえし……。俺あいつに金、騙し盗られたってやつ、見つけたんだよ。結婚詐欺師なんだよ、あいつは」

 珍しく真剣な顔で、心配してくれた弟との会話を思い出す。そして自分の言葉も。

「あの人を悪く言うのはやめて! あんた、あの人があんなに立派だから、ひがんでるんでしょ。自分のバカさを棚にあげて、恥ずかしいとは思わないの?」

 弟の優しさを、本気の心配を鼻で笑い、あまつさえ罵倒すらした自分を殺したい。珍しく言い返しもせず、しゅんとしょげていた弟に何も違和感を感じなかったのは、恋に酔っていたいたからか。恋に潰された自分の目玉を抉り取ってしまいたい。

 でもそんな後悔も、もう取り返しの付かないものになってしまった。切ない想いに奥歯を食い縛っていると、鈴の音のような美しい声が囁きかけてきた。

「信乃……か。信じる、なんて確かに冷たい感じじゃない。良い名前だね」

 いつの間にか思い出の世界はまぶたの裏に溶けて消え、目を開いた先にあるのは桜の薄紅色に包まれた木の葉さんの微笑。その笑顔には貼り付けたような胡散臭さはもうない。自然なその笑顔は可愛らしくもあり、息を飲むほど美しかった。

「きれいな家だった。信乃の家。木の優しい香りと、畳の香ばしい香りがして。古いけどよく手入れされてた。桐箪笥の上の神棚にお稲荷さんの御札があったよね、花が生けてあって」

 なぜ私の家の事を知っているの? まさか私の思い出の世界を覗いたの? あなたは私が幽霊だって知ってたの? 様々な疑問は口を出る前に弾けて消えた。聴く必要もないと思った。私は幽霊。私にも、私の周りにも、生前の常識は通用しない。ただ木の葉さんの言葉に導かれるように自然に舌は回る。

「……私のひいひいおじいさんの頃から、ずっとあの家に住んでるの。大掃除を欠かしたことは一度もなかった。あの桐箪笥も年代物なの。お母さんが信心深かったから、神棚の手入れも丁寧にしててさ。おばあちゃんは花が好きで春は庭がきれいだった……。懐かしいなぁ」

「良いなぁ。素敵な思い出、きれいな故郷。私にはそういうの無いから、羨ましい」

「そうなの……。私の大切な思い出……。自慢の……故郷……。……でも……私忘れてたんだ……」

 言葉は涙に滲んでしまう。こんなに大切なことを忘れていた。死後、亡霊になって残ったのは、怨みだけ。あんなつまらない男への憎しみが、私の大切な思い出に勝るなんて、私の生きてきた時間は、そんなに薄っぺらなものだったろうか。そんなに無意味なものだったろうか。そう思うと心の中が虚しさで埋まる。

 木の葉さんがそっと私を抱き寄せる。それは家族からの愛を捨て、恋人の愛に捨てられた私に木の葉さんがくれた最後の愛。でもその優しさが痛かった。

 そっとその手を振り払う。木の葉さんが困ったような顔をしていたことには、気づいていたけれど、謝る余裕はなかった。ただ辛い。思い出すことがこんなにも辛いことなら、後悔も悔しさも全部思い出すなら、いっそ。

「……思い出さなければ……。……思い出さなければよかった」

 三途の川を渡ることも、賽の河原で立ち止まることもできない哀しい亡霊。それが私。

 愛に走り、家族も財産も時間も想いも全て恋に捧げたその先にあったのが、こんなにもやるせない結末ならば。

「……こんなことなら。……何も思い出さないまま………復讐を果たせば良かった」

 そして、怒りも何も全部なくなった空っぽなモノになれれば、きっと私の心は救われた。記憶を取り戻したばっかりに、辛くなった。悲しくなった。

「こんなこと思い出して、いったい何になるって言うの! 私はとっくに死んだのよ。私には思い出なんて必要ないの!」

 私は叫んだ。不思議と自分の絶叫は遠くから聞こえてくるように聞こえた。頬を伝う涙が熱かった。へぇ、幽霊になっても熱は感じるんだ。って、訳のわからないことを頭の隅で考えた。

「無くしたことを後悔するなら、いっそはじめから無くしたことに気づかなければ幸せなのよ! そうでしょ。どうして思い出させたの。思い出すことはこんなに苦しいのに!」

 私の嘆きはいつの間にか怒りに変わっていた。そしてその矛先は木の葉さんに向く。

 違う。本当はそうじゃない。思い出せて良かった。私の大切な家族や、故郷を忘れたままなんて絶対に嫌だった。

 だけど、思い出と一緒に私のもとに戻って来たものは、あまりにも重かった。私には重すぎた。だから他の誰かにぶつけたかった。ごめんなさい、ごめんなさい木の葉さん。

 心の底で私の本音が喚くけど、私の口は意思とは関係なく動く。怒りが大きくなっていくことに、歯止めが効かない。体も感情も私の手を離れてしまった。

 桜の揺れる音も、涙の熱さも、木の葉さんの顔も、全部遠ざかる。だんだん私の感覚が私のものではなくなっていく気がする。

 ああ……、なんだかとても眠たくなってきた。どうしてだろう。でもこのまま眠ってしまえば辛いことも、木の葉さんへの罪悪感も忘れられるんじゃないかな……。

「信乃、目を覚まして」

 澄んだ声が私を私の体に引き戻す。木の葉さんがとても真剣な顔で私を見ていた。

「眠いんでしょ。でも眠ったらだめ」

 木の葉さんは私を抱き締めて言う。

「信乃は今、感情の塊なの。それを信乃にしているのは信乃自身の理性。信乃の理性が眠ってしまったら、感情だけの信乃が悪霊になる」

 木の葉さんの身体からは心音も、脈拍も、感じられなかった。そうか。この人も私と同じなんだ。

「落ち着いて、信乃。そして考えるの。たくさんのことを。考えないで知らんぷりしてたら、自我も理性も無いも同じだから」

 考えなくてはならない。その意味はわかった。感情の暴走を止めるのは、いつだって思考だ。人を殺したいと思っても、それは犯罪だとか、逮捕されるとかと考えるから歯止めが効く。きっとそう言うようなことだ。

 でも何を考えればいい? 考えて、理性を保って。それからどうすればいいの? それは木の葉さんが教えてくれた。

「あのね、幸せだったことを考えればいいの。嬉しかったこと、楽しかったこと、恵まれていたこと。それをいっぱい考えて、幸せに満ち足りるの。悲しいことはここに置いてくの。そうすればここを離れられるから」

 木の葉さんの言葉がまた胸に突き刺さる。また暴れ始める怒りをなんとか押し殺して、絞り出すように私は言う。

「幸せって何? 私は全部全部失ったのに。失ってしまった物のどれが幸せなのかなんて……今更わかんないよ…」

 家族との思い出、美味しいご飯、暖かい故郷。幸せだと思っていたことも、自分がそれを捨ててしまったのだと思うと、悲しい思い出に変わってしまう。唐突に木の葉さんは言った。

「昔話」

「え?」

「ちょっと悲しい昔話をしてあげる」

「えっ? 木の葉さん?」

「これは昔々のお話です……」

 困惑する私をおいて木の葉さんは、優しく話始める。

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