After the First Case ②

《第一の事件の後で②》




◇◆◇【法条 律】◇◆◇


 人が死んだ光景を前に、私は必死で自分の動揺を押さえつける。

 落ち着け、何を狼狽えている? それは前の場所の法だ。

 この場所では、殺人はルールによって規定されたただの行為だ。

 ルール、つまり法だ。玉手 子犬が殺されたのも、亜麻音 琴絵が殺されたのも、全て法に則って行われた。


 法が保証しているのだから、私たちの常識がどうであろうと、これはこの場所において正当な行いだ。

 異常があるとするならば、それは異なる法に未だ適応できていない私たちの方だ。


 そう。異常なのは私の方だ。

 異常者は早急に正されなければならない。寄り添い合って社会というものを形成し、その中で与えられた権利を享受するのが人間という社会的動物のあるべき姿。

 その社会を守るために存在するのが『法』だ。

 異常者は、その法を簡単に破る。簡単に踏みつけにする。そうして社会を脅かし、ひいてはそこに生きる善良――否、正常な者の権利を破壊する。

 そのようなことはあってはならない。


 法だ。法こそが私たちを導き、守り、そして必要なものを与えてくれる。

 ――ではなぜ玉手 子犬は死んだ。


 私たちは法の定めた下から外れてはならない。法こそ、人が発明した最も偉大な概念であり、神にも等しい存在なのだから。

 ――ではなぜ亜麻音 琴絵は死んだ。


 ――そう選んだからだ。法の下でそう扱われることを望み、あるいは望まないにしてもその法の下に置かれていることを知っていながら、その道を選んだ。だから彼女たちは、法の定めた通りの運命を辿ることとなった。

 何も間違っていない。正常だ。これは極めて正常なことだ。

 なのになぜ、私はこんなにも悩んでいる?


 私の名は何だ? 法条 律だ。

 法を愛し、法の条文に従い、法の定めた規律を守る者。

 法によって定められた、愛すべき我が両親に貰った名だ。それを穢すことがどうしてできるだろうか。

 私自身の信念もまた、法に従うべきだと強く訴えている。


 ならばなぜ、この蟠りが消えない?

 私は――私は、何を恐れているんだ?


 わからない。しかし知らなければならない。

 私たちは、法の庇護の下でなければ、どこまでも無力な存在でしかないのだから。

 私は、あの神との接続を取り戻さなければならない。

 それが私たちの義務であり、願望であり、本能なのだから。


「ぅぅ……っぅ……」


 ふと、意識を現実に浮上させると、誰かが声を押し殺して泣いているのが聞こえる。

 ……道徳。それもまた、私たちが守るべき自然法の一つだ。

 泣いている者がいるなら、手を差し伸べなければならない。

 私は立ち上がり、彼女に声を掛けた。






◇◆◇【小古井 奉子】◇◆◇


 あまりにも惨い光景に、パニックになってただ涙を流す。

 何も考えられない。考えたくない。

 ただ、目を覆いたくなるような異常事態に、既に心が折れかけてしまっていた。


「ぅぅ……っぅ……」


 つまらない羞恥心が、声を上げて泣き叫ぶことを拒む。それでも、涙そのものは止められない。

 せめてこの涙が、この辛い現実を押し流してくれたなら。

 そんな祈りも、きっと通じることはない。現実は時として手ひどい裏切りを働く。そんなこと、言われるまでもなく知っている。


「小古井 奉子だったか。大丈夫か?」

「……ぇ?」


 ふと、優しい声と共に背中をさすられる。

 涙でひどくぼやけた視界の中で、綺麗な薄紫の髪がすぐ傍にあることを辛うじて認識する。


「ぁ、法条さん……。すみません、トモちゃんは、だ、大丈夫……なのです……」


 強引に涙を押し込めて笑顔を作ろうとするも、声は勝手に震えてしまうし、涙も勝手に溢れてくる。


「無理をするな。今は泣いておけ」

「……っ、ぅぅ」


 結局堪えきれなくなってしまって、トモちゃんはしばらく法条さんに縋って泣いてしまった。

 法条さんは嫌そうにする素振りも見せず、トモちゃんが泣き止むまでずっと傍にいて、温め続けてくれた。

 それが本当に心地よくて、トモちゃんはここに閉じ込められてから初めて、心からの安心感を覚えた。

 この人がいてくれるなら、トモちゃんは――


『あー、奉子? あの子マジきもいよね。いい子ぶっちゃってさ。なのにヒロくん、あんなのに目ぇ奪われてるんだよ? ほんっとありえない。死ねばいいのに』


「……っ!」


 今も消えないトラウマが蘇る。

 何度も自分を戒めたはずなのに。そうやって依存すれば、きっと手ひどい裏切りを受けると。


 裏切り。裏切り者。今回の事件で、魔物と共に亜麻音さんが殺そうとした相手。

 亜麻音さんもまた、依存にも似た信頼を向けた結果、その想いは最悪の形で裏切られることになった。

 裏切られるのは辛い。嫌だ。怖い。耐えられない。


 今回も、みんな仲間だと思っていたのに、こうやって殺人は起きてしまった。

 そのショックのせいで、トモちゃんは捜査にも参加できなかった。

 だって、だって――


 汚れた人格は取り除かれなければいけないからなのにこの場所のルールのせいでトモちゃんはができなかった人間の人格には汚れも穢れも赦されてはいけない穢れた魂はいずれ最悪の形で誰かを裏切るからその前にトモちゃんはそんな人格をお掃除しなくちゃいけないのにきっと捜査の途中でそれが見つかったらトモちゃんはどうしようもなくお掃除したくなってしまうからそうすればトモちゃんは殺されてしまうからだからトモちゃんはお掃除ができなかった本当はずっとお掃除したくてたまらなかったのにトモちゃんは魔物の穢れには興味がないだから別に隠れた魔物をお掃除しようとは思わないだって魔物はそういうものだから穢れているのは当たり前のことだからでも人間はどこまでも優しくなることができるのに人間はもっと素晴らしくなることができるのに汚い感情で穢れた想いで魂を人格を穢す者は例外なく醜い存在でしかないからだから善くあれない魂は穢れに染まった魂は悍ましき人間の屑はトモちゃんがお掃除しなくちゃいけないのに――


 亜麻音さんがそうじゃなくてよかった。亜麻音さんもまた、そういう汚れが許せない人間だった。だから私は、彼女の死に涙を流せた。

 それに亜麻音さんのおかげで、そういう穢れた人間が今のところ存在しないのも知ることができた。だからトモちゃんは、亜麻音さんに感謝して涙を流す。彼女の死が、せめて報われることを祈って。


 そうやって冥福を祈ると、また涙が滲んでくる。でももう、流石に縋って泣くほどではなくなっていた。


「法条さん、ありがとうございます」

「気にするな。当然のことをしたまでだ」

「それでも、です」


 どうやってお返しをしようか考える中で、ふと自分の格好を思い出した。

 他人に尽くす――他人に依存する愚かなトモちゃんのことを表したメイド服。

 メイドというからには、本来なら仕える相手が必要だ。

 もちろんこんな場所でのことだから、何かあったら即座にお掃除できるよう、深入りはしちゃいけないけれど。

 ちょっとだけなら、傍に立ってみてもいいかもしれない。


 トモちゃんは秘密の企みめいた感じで、そんな未来を夢想してみた。

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