The Black Shield

《黒き盾》




 香狐さんと二人で浴場を占有する。

 夕食の片づけをしないでワンダーに連行されたから、その処理の分、他の人と時間がズレた。だからこうして、浴場を占有なんてしていられる。


 お湯の中でも、繋いだ手は離さない。……すぐ傍には、あの狗の像がいる。

 香狐さんの存在に溺れていないと、すぐに第三の事件のことを思い出してしまう。

 ――あんな地獄、忘れられるものなら忘れてしまいたい。


「……む?」


 不意に、声がした。

 どう考えても、香狐さんの声じゃない。

 これは……藍さんの声だ。脱衣所の方から声は響いてきた。

 たぶん、藍さんも何かの事情でお風呂に入るのが遅れたんだろう。それで、ここでこうして時間が被ってしまった。

 まあ……夢来ちゃんだったら、どう反応していいかわからなかったけれど。藍さんなら、別だ。藍さんの掲げる正義にさえ反しなければ、藍さんに何かされることはないだろう。

 ……さっき、藍さんに嘘をついてしまったことだけは引っかかるけれど。


 ガラス戸を開けて浴室に入ってきた藍さんは、なんだか新鮮さすら感じた。

 普段から、藍さんと一緒にお風呂に入ることはあまりなかったのだけれど……。

 藍さんは普段、呪術的な雰囲気を放つアクセサリーを多々ぶら下げた改造制服姿だ。禍々しくて、迫力がある。

 それを纏っていない藍さんは、なんというか、単なる美人だった。

 香狐さんの魅力が他を引き込むものだとしたら、藍さんの魅力は他を近づけさせないものだ。

 ……もちろん、私個人としては、香狐さんの方がずっと綺麗な人だと思うけれど。

 だけど藍さんは、万人が受け取るに足る冷たい美しさを持っていた。

 ……いや、単に、私の好みが香狐さんのせいで黒髪に寄っているだけだろうか。そう考えると、ただそれだけな気もする。


 藍さんは私たちに声を掛けず、無言で洗い場の方へ行く。

 そのまま髪と体を洗って、その後、私たちからやや離れた位置のお湯に浸かった。

 ……私に、警告をしてきた藍さん。


「……っ」


 瞬間、死者の剣がどうのと言っていた、狂った自分を思い出す。

 自らのエゴを、美徳のように語る怪物。藍さんの存在は、私の心に巣食っていたそれを明確に思い出させる。

 ……やっぱり、私は藍さんとも、相性が悪いかもしれない。

 ……いや。でも。ずっとこの館で暮らすつもりなら、いつかは受け入れないといけない。じゃないと……どんどん、辛くなる。

 この状態で、夢来ちゃんを――私と同じ咎を負った彼女を受け入れるのは、難しいけれど。でも、藍さんなら――。

 思い切って、声を掛けてみる。


「……あの、藍さん」

「む? どうかしたか、桃の乙女よ」

「いえ、あの……。少し、聞きたいことがあるんですけど」

「ふむ。何だ?」

「藍さんはどうして……魔法少女を続けているんですか?」


 香狐さんもそうだけれど、魔法少女の引退はだいたい、遅くとも高校在学中に行われるものだ。藍さんはたぶん、まだ高校在学中だとは思うけれど。でも、葛藤している時期ではあると思う。それでも、魔法少女を続けているのは――。

 ……しかし、予想に反して、藍さんは不思議そうな顔をした。


「続けて、とはおかしな言い方をするな。まるで我に、魔法少女を引退せねばならぬ理由でもあるように聞こえるが」

「えっ? だって、藍さん……高校生ですよね? だったらそろそろ、引退を考えてもおかしくない時期じゃ……」

「…………」


 藍さんは、黙りこくる。

 もしかして、聞かれたくないことを尋ねてしまったのだろうか。よくよく考えれば、個人の事情に深くかかわるものだし、それを無遠慮に尋ねるというのは――。


「……貴様もしや、我が歩みし時を勘違いしているか?」

「えっ?」

「我はまだ中三だが」

「――ええっ!?」


 それは――あまりにも予想外だった。

 身長……は、私が高校生にしては低い方だから比較にならないとして。口調は明らかに威圧的なもので、向こうの方が年上と感じさせるには十分な要素だ。それに藍さんの寡黙な雰囲気も、年上らしさに拍車をかけている。

 少なくとも、絶対に年下には見えなかった。

 ……いや、中三と高一で、私は高校に入ってからまだ誕生日を迎えていないから、年が同じである可能性はあるけれど。それは、どうでもいい。


「……はぁ。やはり勘違いしていたか。おかしいとは、思っていたのだ。魔を統べる狂犬は、貴様と痴女を高校生と言った。しかし貴様の態度は、年上のそれには見えぬ」

「それは、まあ……」


 実際、自分の方が年下だと思っていた。


「我を【無限回帰の黒き盾】と知って、媚びへつらうものは多くいる。しかし貴様はどうも、その手合いには見えぬ。そもそも貴様は、数日前まで我の正体すら見抜いていなかったであろう?」

「そう、ですけど……」

「いい。鬱陶しい。誤解が解消されたのであれば、速やかにその口調はやめろ」

「……うん」


 ……試してみたけれど、途轍もない違和感があった。

 自分より圧倒的に強くて貫禄のある魔法少女が、年下。

 その感覚のギャップは、どうにも埋めづらい。


 というか藍さん……。藍ちゃん? の方からは私が年上ってわかってたわけで……いや、敬語を強制したいわけじゃないけれど、せめてそれとわかるようなことはしてほしかった。

 ……いや、それこそ、舐められないためかもしれない。正義を掲げる【無限回帰の黒き盾】が年下なんて知れたら――下に見られたら終わりだ。だとしたら今度は、私の口調が正された理由がよくわからないけれど……。

 ……まあ、いいや。


「それで……我は、我が魔法少女として此処に存在する所以を語ればよいのか?」

「……いいの?」


 それはかなり……踏み込んだ話になってしまうと思うけれど。


「どうせ、見当はつくだろう。正義を掲げる魔法少女が、殊更に正義を標榜するならば――それは、到底許しがたい悪に出逢ったからだ」

「……うん」

「ただし――この話は、今の貴様にとっては毒となる話かもしれん。それでも、聞くか?」

「…………」


 到底許しがたい悪。それに関する、今の私にとって嫌な話。

 そんなのは、一つしかないだろう。

 ――殺人事件。


 だけど――聞かなきゃいけないと思った。

 私が本当に聞きたいことを、教えてもらうために。


「……うん」

「そうか。なら、話すとしよう」


 私は、香狐さんの手を少し強く握った。

 香狐さんは何も言わずに、見守ってくれている。隣にいてくれている。だから……大丈夫だ。

 藍ちゃんの顔を見る。……その目には、黒い炎が燈っていた。


「我は【無限回帰の黒き盾】として、多くの咎人をその罪に向き合わせてきた。我が与える粛清は、罪から逃避せんとする愚か者に対する罰だ。……スウィーツに禁止されている故、あまり手荒な真似はできんがな」

「…………」


【無限回帰の黒き盾】は魔法を用いて、人の世界の法による悪人を捕らえる。

 ただし、捕らえるところまで。粛清なんて強い言葉を使いつつも、私刑にかけることは許されていない。

 ……それでも粛清と言い張るのは、藍ちゃんなりに何か理由があるのだろうか。


「しかし、我が生を決定づけたのは……力を得る前のことだ。盟友が悪意の手にかけられ……命を散らした。その悪意は、化け物によるものではない。ただの、人間によるものだ。その後に、我は魔法少女となったが……当時の我は、醜い復讐鬼だった。スウィーツには、見抜かれていなかったがな」

「…………」


 今の藍ちゃんが軽蔑する、醜い復讐鬼としての過去。それは……今の私と重なるものなのではないだろうか。

 死を死とも思わない、狂った魔法少女の姿が脳裏をよぎる。仇討ちという理屈を振りかざし、自慢げに罪を暴き立て、無邪気に死を引き寄せた自分。


「我はスウィーツの目をかいくぐり、復讐を果たした。……殺しはしなかったがな。気が済むまで痛めつけ……そして、気づいた。命を奪われた盟友が、復讐鬼に堕ちた我を見て……如何なる感情を抱くか」


 それは……。

 きっと藍ちゃんは、その『盟友』であった人は自分を軽蔑すると思ったのだろう。

 死者の想いを、自分に都合の悪いように解釈する。それは、あの時の私とは真逆のスタンスだ。


「……今の我は、過去の己が如く、心根が歪んだ者こそを正したいのだ。法に照らした正義ではなく、人が人であるための正義で。だが……それは容易に私刑に変じ得る。我はまた、いつ復讐鬼に堕ちるとも知れない。故に、公平性に身を委ねた。公平性――法を境界線として、法の外に居座る者を連れ帰る。それを、【無限回帰の黒き盾】と定義した」


 ……つまり。

 藍ちゃんを動かすものは、結局のところ後悔だ。それと、義勇。

 悪を許せなかったから。過去の自分を後悔したから。だから、【無限回帰の黒き盾】となった。正義に準じて、悪を光の下へための盾となった。


「……それを、スウィーツは何て?」


 止められたはずだ。スウィーツは、人同士の争いを好まない。

 それに【無限回帰の黒き盾】は、魔法の力を人相手に使う。容認するのは、困難だったはずだ。

 それなのに、許されている。そこには、どんな理由が――。


「……ふっ。いつか身を崩すことになると、心配されてしまった」

「えっ?」

「我が特権を与えられているのは、我が強大な力を持っているから。周囲にはそう広まっていると聞く。貴様も、そう聞いたのではないか?」

「う、うん」


 確かに、そう聞いた。

 日本にいる魔法少女の中でも最上級の魔法少女であるからこそ、そういう特権が与えられていると。


「その側面は否めない。我の力は、取り上げるにはあまりに惜しい力だったらしい。事実、二年前の魔王戦――我が経験した最初で最後の魔王軍との戦いでも、我は最前線で戦った。スウィーツにも、我の実力が認められていることは事実だ」


 ……それは、まあ。

 都市伝説級の魔物を討伐できるだけでも相当の戦力だ。まして空想級の魔物を討伐するなんて、通常のレベルを遥かに逸脱している。

 それくらい、【無限回帰の黒き盾】は強力な魔法少女であると広まっている。

 それに、今の話を聞くと、魔王の軍勢と戦ったこともあるらしい。魔王本人と戦ったのかどうかは、今の話からはわからないけれど。


 ……[刹那回帰]が、あるいは他の人の回復魔法があるとはいえ、その身体には何の傷跡も残っていない。魔法少女の活動で消えない傷を負うというのも、珍しい話ではないのに。

 最前線で身を張り続ける魔法少女は、通常の魔法少女より遥かに傷が絶えない存在であるはずなのに。

【無限回帰の黒き盾】はそのレベルの実力者だ。

 それを理由に特権を与えられるには十分。にもかかわらず――特権を付与される理由は別のところにあるらしい。


「しかし、スウィーツが我に特権を与えたのは、我の精神状態を危ぶんでのことだったらしい。……何も行動できないというストレスは、人を容易に破滅へと導くからな。しかし、巨大な権利はまた異なるベクトルでの破滅を招く。故に定められた境界線が、『法に依る正義』だ。……他の代償として、我には通常よりも多くの監視が付く、などの条件もあったがな」


 藍ちゃんが、懐かしい思い出のように語る。

 ……強大な力は、人を狂わせる。他人の命を容易に握ることができる環境は、人を変異させる。

 私はそれを、実感として知っている。

 故にこその、縛り過ぎず与え過ぎずの特権。それをスウィーツは定めた。

 それは間違いなく、スウィーツの優しさ……なのだろう。


「スウィーツは、むやみに力を振るうことを嫌う。しかし……魔物だけを敵視しているわけではないのだ。悪意を振りまく人間もまた、憂慮の対象となっている。……我が認められた特権は、そういう意味もあるのだろうな」


 藍ちゃんの視線は、どこか中空で固定されている。

 ……私の方を見る気配は、ない。


「……あの」

「うん? どうした」

「私は……。スウィーツからして、私は、処罰の対象になると思う? それと……藍ちゃんは、私のことをまだ……歪んでると思う?」


 思い切って、それを尋ねた。

 ……私は、赦されたいのだろうか。一生ここにいる決意をして、それでなお、誰かの赦しが欲しいのだろうか。

 ――たぶん、私は赦しを欲しがっているのだと思う。

 香狐さんがくれたのは受容であって、許容ではなかった。糾弾はしないけれど、赦しを与えてくれたわけではない。

 だから、『正義』に尋ねた。私は、赦されてもいい人間かどうか。


 ――これで、否定的な答えが返ってきたら。私は藍ちゃんとも敵対しなくてはならなくなるというのに。

 堪えきれずに、訊いてしまった。


「……まあ、そうだな。スウィーツは、貴様の魔法少女としての在り方を取り上げるような真似はしないだろう。あれは有情機関だ。スウィーツはあくまでも規則に従う存在であるが故、貴様が直接的に手を下したのならば別だが――そうではあるまい。貴様が望むならば、魔法少女を続けることもできるだろう」

「……うん」

「そして――我が貴様に問うていたのは、死の重さを失ったことに関してのみだ。死の重みを忘却すれば、この場の狂気は容易く、殺人を手段へと変じさせる。……貴様がただの復讐鬼に堕ちたのであれば、殺人を手段として魔王に一矢報いようとする可能性もあった。我が行ったのは、その予防だ」


 藍ちゃんは、そこで少し顔を歪ませる。


「【犯人】を処刑したのは、彼の魔を統べる狂犬だ。貴様ではない。この館の規則を定めたのも同じく、魔を統べる狂犬だ。貴様ではない。この場の殺人は全て、魔王が司っている。責は、魔王が負うべきだ」

「…………」

「――いや、これは理由の半分だな。もしかしたら我は、嘗ての我の姿を貴様に重ねていたのかもしれん。それでただ、止めたかったのかもしれんな。……人が、状況に翻弄されて道を踏み外すことを」


 深いため息と共に、藍ちゃんはそう言った。

 そうして、頭を振って立ち上がる。


「そういうことだ。貴様が責を感じることは重要だが、貴様が罪に潰される必要はない。……それだけは、覚えておけ」


 それだけ言い残すと、藍さんはすぐに浴室から出て行った。

 私たちより後に入ってきたのに、随分と早い退場だった。……あまり長く入らないタイプなのかもしれない。

 それとも、気を遣って、考える時間をくれたのかもしれない。

 私が私として在るために、どうするべきなのか――。


 だけど、私は藍ちゃんの期待には応えられないと思う。

 私は、血塗られた道を選んでしまった。ただ、香狐さんと共にいたいがために。


 ――そうだ。私には香狐さんがいる。どうなろうと、香狐さんが肯定してくれる。

 だったら……あまり深く考えなくても、いいのかもしれない。

 私は、私が怖い。誰かを死に追いやった私が怖い。

 明言はしなかったけれど、藍ちゃんは半ば赦しのようなものをくれた。それでも……恐怖は、依然としてある。

 死は、取り返しがつかないから。狗の像に見つめられて、それを痛切に感じる。


 藍ちゃんがくれた赦しは結局、私の過去の罪に対するものだ。これからの罪――以後発生した【犯人】を無慈悲に追い込む決意なんて、藍ちゃんは到底、肯定してはくれないだろう。


 だから――香狐さんにまだ、溺れていたい。

 香狐さんが、隣にいる。一生を誓った、香狐さんが。


 それだけで、なにもかも、どうでもいい。

 そう考えても――許されるだろうか。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る