伽藍堂
夜にかけて一段と激しさを増した雪が、急き立てるノックの音に似た響きで要塞の堅牢な防壁を叩いた。
ゼンは腕で耳を塞ぎながら寝台に寝そべっていた。
今日は夕食の最中に魔物の襲撃が起こり、討伐に駆り出された。戻ったときには食堂の明かりは既に消えていた。
「私と一緒に、か……」
ゼンは立ち上がって、冷え切った部屋を後にした。
夜を衛る兵士たちのいない道を選んで要塞の中をふらついていると、かすかな脂の匂いが流れてくる場所がある。
細い湯気を辿った先に、魔物の血と骨を煮続ける釜にされた蓋の間から熱気が漏れていた。
上から釜を見下ろすために突き出した鉄骨の中二階にひと影がある。
カルミアが鋼鉄の柵の影に隠れるようにうずくまっていた。
ゼンが近づいたのを察知して彼女が顔を上げる。
「また出かけるの?」
「あぁ、今日はいいや……」
ゼンはカルミアの隣に座り、鉄柵にもたれかかった。
彼女はゼンを見つめていたが、しばらくして無言で紙に包まれた直方体を差し出した。
「あげる、口止め料だからね」
ゼンが何かを問う前に、カルミアは同じ包みから固形の保存食を取り出して齧り始めた。
「また盗んだのかよ」
「だって、夕飯くれない方が悪いでしょ」
彼女は水もなしに乾燥した穀物を頬張りながら言う。
「食糧庫に鍵かかってねえのか?」
「あんなの簡単に開くって」
ゼンは呆れつつ包みをむしった。
「これで共犯だね」
「嫌な女」
保存食を齧る音だけが響く中に、硬い足音が聞こえた。
「そんなとこにいやがったのか」
汚れた布袋を抱えたスルクがランタンでふたりを照らす。
カルミアは慌てて食料を口に詰め込んでむせ返る。
ゼンは何も言わず目を逸らしたた。
「クソガキども……」
彼はランタンを地に置いて溜息をつくと、空いた方の手を挙げた。カルミアが身を竦める。
スルクはその手で布袋の口を開けて放り投げた。
ふたりの足元で銀の水筒と塩漬けの肉を挟んだ黒いパンがふたつずつ跳ねる。
「お前らのそれも俺が持ってきたことにしとけ」
ゼンとカルミアは同時に彼を見上げた。
「今回は飯の世話をしてやらなかった俺に非がある」
食糧に伸びた二本の手をスルクが素早く払う。
「ありがとうございます……」
ふたりが言い終わるのを待って彼は手を退けた。
「犬か、俺たちは」
「食べられるなら何でもいいよ」
「お前らは思ってたより骨がある」
パンに食らいつくふたりを眺めながら、スルクは煙草に火をつけて言った。
「ここに来たばかりの奴は大抵泣いて逃げようとするが、お前らはそうじゃねえ」
食べカスをこぼしながらゼンとカルミアが答えた。
「ここは頑張れば三食食べられるし」
「貧民街じゃ何したって二、三日食えねえのもザラだからな」
スルクは煙とともに吐き出す。
「泣かねえのはいいことだ。涙でも凍傷になるからな」
「あんたのそれもそうなの?」
カルミアが言ってからしまったという表情をする。
「そんな訳ねえだろ……」
彼は怒るでもなく小さく鼻で笑った。
スルクは鼻から頰に広がる青痣をなぞるように顔に触れた。
「ガキの頃から親父に言われてた。凍傷になるから泣くな、鼻も垂らすなってな。魔物に殺されたときの遺言もそれだった。馬鹿くせえ」
ひび割れた黒い指先から灰が零れ落ちた。
「なぁ、こんな寒いとこ出て行きてえって思わねえのか」
ゼンは呟いた。
「もし、どっか別のとこ行けるならって……」
「何で? もしも? ガキかお前は」
「そうかよ、大人の手前ならどうすんだよ」
スルクの煙草の先端の火が呼吸に合わせて赤く輝く。
「現状を変えようとしたら寿命のが先に来る。自分を変える方が楽だ」
ゼンは黙って目を伏せた。
彼は煙草を落として靴先で揉み消した。
「食ったらとっとと寝ろ」
踵を返したスルクの背にゼンが声をかける。
「なぁ、この辺にいるゴールディって女知らねえか。デカい金の耳飾りつけてる」
「耳飾り……?」
スルクは眉をひそめた。
「知らねえな」
彼が去った後、消えかけた煙草の火だけが燻っていた。
***
図書室の仄かな明かりを侵食するように窓から闇が入ってきた。
オレアンがペンを置くと、隣で本を読んでいたホーネットが「終わったの」と問う。
「あぁ……それは?」
「恋愛小説、かしら。悲恋だけどね」
「どんな話なんだ」
ホーネットは背表紙を見せるように本を机に置いた。
「姫と村の男の身分違いの恋よ。ふたりの関係を知って、王は男を処刑しようとするの。でも、より残酷な方法を思いついた」
オレアンは先を促すように白い横顔を見た。
「処刑場にふたつの扉を置いて男に選ばせるの。片方には獰猛なドラゴンがいる。開けたら殺されるわ。もう片方には姫よりも美しい女がいる。そちらを選べば男は命を救われ、その娘と結婚することになるの」
明かりが机に落ちるふたりの影を濃くした。
「どちらが女かドラゴンか知っている姫は、決断の前日、男の牢に忍び込むの。どちらを選ぶべきか教えるために」
そこで言葉が途切れた。
「それで、どうなるんだ?」
オレアンが問うと、ホーネットは首を振った。
「未完なの。作者が死んだらしいわ」
オレアンは苦笑して疲れた目を擦った。
静まり返った図書室を見回してから、オレアンが口を開く。
「お前がその姫だったら、どうする?」
「私が?」
ホーネットは顎に手をやってゆっくりと言葉を紡いだ。
「……ドラゴンを教えるつもりで牢に行くでしょうね。そして、男の顔を見たら、きっと、女のいる方を教えてしまうわ」
オレアンは何も答えずインクで濡れた羊皮紙をそっとなぞった。
「貴方はどうなの?」
と、ホーネットが視線を上げる。
「俺は……」
彼は逡巡して祈るように言った。
「ドラゴンのいる方を教えてほしい」
「頑迷なひとね」
***
雪は昨夜と変わらない激しさで行軍する兵士たちを阻んでいた。
亡者のように足に縋りつく雪を掻き分けながら、スルクは白い息を吐いた。
「気色悪ぃな。襲撃の跡は新しいってのに魔物自体の影が何も見えねえ」
「消耗する一方ですよ、これじゃ」
嘆くピトフィーを横目に、ベラドンナが防寒着の襟に口を押し当てて言う。
「誘導されてる感じしますね」
「
隊列の最後尾を歩きながら、ゼンは雪煙の先を眺めた。
険しい山肌に黒い糸を玉状に結んだような小さな影が揺れている。
徐々に大きくなるそれに目を凝らすうち、無意識に足を止めていた。
見慣れた白い外套が吹雪に煽られて幽鬼のように広がり、その足元に付き従う狼の低い唸り声が風に絡む。
「ゴールディ……?」
白い霞の中から現れた女は厳しい天候に不釣り合いなほど華やかな微笑みを浮かべた。
「何してんだ、こんなとこで……」
「昨日は会いに来てくれなかったわね」
ゴールディが歩み寄り、戸惑うゼンの鼻先に触れそうな距離で囁いた。
「迎えに来たのよ」
ゼンは目を見開いた。
「兵士たちが行軍に気を取られてる。今なら逃げられるでしょう?」
ゼンを見上げるゴールディの瞳に鋭い光が灯る。
「今決めて。あっちに残るのか、私と来るか」
彼女の体温が冷え切ったゼンの身体を這うように染み出した。
「俺は……」
降りしきる雪が肩と背にのしかかる。
ゼンは乾いた唇を開いた。
「悪いけど、あいつらにいろいろ義理があるんだ……別んとこにも残してる奴がいるし……」
ゴールディの白い顔がわずかにこわばった。
「だからさ、やっぱり、お前も要塞に来ねえか?」
彼女の視線が鋭さを帯びる。
「私か彼らか。子どもじゃないのよ、ふたつは選べないわ」
言葉を失ったゼンとゴールディの間を激しい風が吹き抜け、お互いの姿を霞ませた。
「そう……」
ゴールディが一歩踏み出した瞬間、銃声とともに炸裂した弾丸が彼女の行く手を阻んだ。
ゼンが咄嗟に音の方を見ると、スルクが肩に銃床を押し当てた猟銃の先から煙が噴き出している。
「その男から離れろ、両手を上げて膝をつけ!」
鋭い声に兵士たちが続けて銃を構えた。
「スルク、こいつは敵じゃねえ。俺の知り合いで……」
ゼンは声を上げたが、喉に流れ込んだ冷気に言葉の続きを塞がれた。
ゴールディは無数の銃口を向けられながら指ひとつ動かさない。
彼女の耳朶で金の耳飾りだけが大きく揺れた。
「敵じゃねえ?」
張り詰めたスルクの声が響く。
「馬鹿言うな。デカい金属ぶら下げて、長時間雪の中にいて凍傷にならねえ。そんな奴が人間のはずあるか!」
ゼンは弾かれたようにゴールディの方を見た。
女は青白い筋の浮いた頬に冷たい笑みを浮かべ、そっと両手を挙げた。
兵士たちが引き金に指をかけ、その動きを追う。
細い指先が外套のフードを払い退けた。
大輪の花を模した金の耳飾りが跳ね、溢れるように現れた女の髪は雪原と同じ、魔王に巣食われた男と同じ白だった。
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