師匠の小さな背中を

青猫兄弟

第1話 喪が明ける前に

 わずか、半年前のことだ。

 師匠のイサークと、兄弟子のクレト、そして俺・フェルサの三人は、北辺の街ボレアスにいた。

 一万の大軍で街に押し寄せた青妖鬼どもを追い払うため、北方林での冒険を切り上げて救出に向かったのだ。

 街をぐるりと囲む城壁の上から見下ろすと、青妖鬼の盟主とされる群れがどこにあるのか、すぐにわかった。奴らは盟主を見出すと旗を掲げ、大挙して人間の街を襲う。

「わかりやすくていい。奴らは盟主がやられれば、あっという間に瓦解する」

 そう言い放った師匠は、高い城壁から飛び降りると、前方にいた妖鬼たちを次々に斬り殺した。

「無茶な! いくら剣魔七雄のスィマト様とはいえ、あまりに多勢に無勢」

 守備隊の将軍がそう言ったが、クレト兄も俺も、何も言わず師匠に続いた。

 魔法剣士の大国であるカルドゥス王国が誇る魔剣百傑。その中でも、選りすぐりの剣士である師匠にとって、青妖鬼など何匹いても試し斬りの棒のようなものだ。

 クレト兄も俺も、師匠の両脇について青妖鬼の本陣に向かう。

 師匠の雷のような複雑で素早い足さばきと、優雅に流れゆく剣線が青妖鬼たちの首を飛ばしていく。クレト兄も俺も、その脇でためらいなく青妖鬼たちを斬り捨てていく。

 数分の間に敵の旗印が目に入り、さらに数分ののちには、師匠が青妖鬼王の首を掲げていた。

 大地を埋め尽くさんばかりであった青妖鬼どもは、蜘蛛の子を散らすように消えていった。


 その後、数夜に渡って行われた勝利の宴のことも、師匠を仰ぎ見る若者たちの熱い視線も、昨日のことのように思い出せる。


 それなのに、それなのにこれはどういうことだろう。師匠は老人子どもがかかるようなちょっとした流行病を拗らせて命を落とし、それを見送るのは俺とイルナお嬢の二人きりだ。

 ほんの数カ月前まで無数の若者たちの声で賑わっていた道場は、しんと静まりかえっている。

 顔に白い布を乗せた師匠の枕元に、俺は酒瓶を置く。もう、健康のために酒を控えるよう言う必要がなくなってしまった。

「せめて、酒でも飲んで楽しく天国で過ごしてください。お嬢がスィマト流の後継ぎとして立派に育つまで、俺がしっかり支えて守り通します」

「では、フェルサさんのことは、立派な師範に育つまで私が支えて守り通します」

「お嬢、こんなときにまで軽口ですか」

 俺はお嬢を見て少し微笑む。まだ十三の女の子だ。師匠譲りの眼差しの強さはあれ、華奢な身体にあどけない顔立ちと、まだまだ幼さを多分に残している。

 しかし、お嬢は真剣な眼差しでこちらを見返す。

「軽口なんかじゃありません。父様はいつだってフェルサさんの将来を一番楽しみにしていたんです。父様が遺してくださった一番の宝物は、私が命を懸けても守らなくては」

 俺はイルナお嬢の頑固さに驚き、しかし、こんなときも自分らしさをなくしていない様に頼もしさも感じた。

 五つも年上の俺が、涙にくれているわけにはいかない。十五で成人して三年もたっている。大人らしく、お嬢を支えていかなくては。

「それでは、互いによろしくお願いいたします」

「はいフェルサさん、よろしくお願いいたします」

 お嬢は涙の跡を手ぬぐいで拭きつつ、ぎこちない笑顔を俺に見せてくれた。


「たのもう」

 師匠が亡くなって三日後、道場の台所で夕食の支度をしている俺は、その声を聞くなり腹を立てた。

 最低限の喪の期間である一週間も待たずに常識外れの道場破りとは。

 素振りをしていたお嬢と目を合わせた俺は、不機嫌を隠さずに道場の扉を開く。

「そこに書いてある通り、この道場は喪の最中だ。今日はお引き取り願いたい」

 そこには、どこかの魔剣道場の門下生を全員集めたかのような男たちの群れがいる。

 その先頭近くには、顔見知りの肥え太った商人がこちらを見下す視線で薄ら笑いを浮かべている。この道場の地主である。

「これは申し訳ございません、武人には武人の喪の期間があったのですか。我々商人は一分一秒を争って利を稼ぐ身ゆえ、そのように呑気な風習があるなど、考えもいたしませんでした。先代が頭を下げて支払いを待ってくれと言われた二カ月分の賃料をお返しいただきたいだけなのですよ。本来、私たち商人が持っていれば一分一秒で利を産む金を、特別にお貸ししているのです。元剣魔七雄の名で借りた金なら、本人が亡くなった以上、すぐに返していただかないと」

 俺は、喪が明けたら相談に行こうと思っていた相手が居丈高にこちらを見下していることに、さらに腹を立てた。しかし、それをぐっと抑えて商人の顔を見る。

「そんな金は今はない。しかし、利子もつけて必ず返す」

「で、それはいつのお話なのでしょう。今この一刻一秒、その金さえあれば私が稼げるはずの金もお返しいただけるのですか。時は金なり、なのですよ、フェルサ様。元魔剣百傑のフェルサ=ヴィース様。残念ながら、あなたのお名前にお貸しできる金は当方持ち合わせていないのです。ご実家が王の旗本とはいえ、あなた五男ではありませんか。いわゆる、商い上の信用が、あなたにはこれっぽっちもないんですよ」

「よく調べたな、悪徳商人。こちらは法に定められた利子もしかとつけて返すと約束しているんだ」

「私の話を聞いてないのですか? 本来、一門から人殺しを出したこの道場に貸す金なんざないのですよ。それを、元剣魔七雄だからと特別に貸してやったものを。お師匠が亡くなった今、あなた方に貸すお金など一銭もございません」

「私が」

 話を聞きつけたお嬢が俺の隣に並ぶ。

「いざともなれば、私がこの身体を売ってでもお返しいたします。それでよろしいでしょう」

 とんでもないことを言い出したお嬢を、商人は嫌らしい目で足元から顔までなめ回した。

「ふふ。まだ幼いようですが、なかなか将来性がありそうな。なるほど……」

「待て!」

 剣士たちの中から、それなりの身分とわかる稽古着を着た男が前に出てきた。ちょっとした刺繍や小さな宝石があしらわれている、高そうだが品のない稽古着だ。

「そんなことだろうと思っていたよ。商人。先ほど言った通り、私が借金を肩代わりしよう。イルナ殿、フェルサ君、安心したまえ。イルナ殿の許嫁、このレオポルド=アルマンサがこの件を解決しよう」

 自信満々で話す男を見つつ、俺とお嬢は呆気にとられてしまった。

「へ!? どなた?」

「いや、お嬢。御名は聞いたことが……アルマンサ流の師範代か! お初にお目にかかる」

 俺とお嬢の反応を見たレオポルドは、顔を真っ赤にして冷や汗を流し始める。

「そんな、私、私ですよレオポルド! イルナ殿と私は将来を誓った身ではないですか?」

「そんなこと、ございましたっけ?」

 レオポルドの冷や汗はもはや滝のようになり、助けを求めるように俺を見ている。そのいじめられぬいた犬を思わせる目つきで、俺は懐かしい顔を思い出す。

「あっ、レオポン! 一時期、お嬢に付きまとってたストーカーのレオポンか!?」

「ス、ストーカー!? ななな、何を言うんだよフェルサ君。他流稽古でお世話になって以来、私とイルナ殿は許嫁と約束を交わしていたじゃないですか? てか、レオポンて呼ぶな」

「お嬢、こいつ、うちに泊まり込みの他流稽古にきてお漏らしした坊ちゃんですよ。俺より一歳年下の」

「あ、お漏らしのレオポンさん!? うふふ、お久しぶ……ブフッ。うふふふふふふ」

「お、思い出していただけましたか、イルナ殿。あれはお漏らしではなく、寝汗なのです、滝のような寝汗だったのです! てか、レオポンて呼ぶのやめて」

「レオポン、お嬢はあのとき五歳だったんだぞ。お前のプロポーズに戸惑って黙っていたのを、了承されたとお前が決めつけたのは思い出した」

「ななななななな、何をいう!? そんなことない、イルナ殿は確かにうんと……」

「ないな」

「あり得ませんね」

 レオポンは元々白かった顔をさらに蒼白にして、絶望したように地面に膝をつく。

「そ、そんな……」

 それを見た商人は、諦めたようにため息をつくと、また嫌らしい目つきでお嬢を舐めるように見る。

「では、新たな契約といきますか」

「待てっ、待て商人」

 レオポンが凄い勢いで立ち上がり、腰の袋から金貨を数枚出す。

「いくらだ。俺が建て替える。お前は金が戻ればいいんだろ? まさか、私の許嫁に手を出すつもりじゃないだろうな」

 レオポンの語気に驚きつつ、商人は馬鹿にしたような目でレオポンに視線を返す。

「おや、相手は許嫁でもなんでもないとおっしゃっていますよ。あなたにお金を出す理由なんてないじゃありませんか。なんだ、こんなことなら護衛を頼まなければよかった。もういいです、お帰りください」

 レオポンは商人の目つきに負けず、怒りの表情を浮かべる。

「貴様、私の許嫁に何をするつもりだ。金は私が出すと言ってるんだ。金だけ持って大人しく帰らないなら、身の安全は保証せんぞ」

 レオポンの言葉に反応し、門下生と思われる男たちが剣の鞘に左手をかけている。

「ひっ、わわわ、わかりましたよ。はい、確かにいただきました、いただけばいいんでしょ? これで失礼いたします」

 金を受け取った商人は逃げるように去っていった。

「さて、だ。これで借金元は私になりました。イルナ殿、大人しく私の許嫁であることを認めてください。手荒い真似はしたくないのです」

 迫ってきたレオポンから、俺はお嬢をかばう。

「言い出すことがさっきの商人と同じじゃないか。そんなゲスな野郎にお嬢を任せるわけないだろ。師匠なら絶対許さない」

「ほお、面白い。ならば、奪うまでだ。おい、お前ら、やるぞ」

「応!」

 先ほどから鼻息を荒くしていた男たちが、レオポンと代わってこちらに近づいてくる。

「よし、中に入れ」

 俺は相手に背中を見せて、道場に誘う。お嬢は黙ってその様子を見守っている。

 案の定、俺の背中とお嬢に手を出そうという奴らが走り出す。これで、こいつらもゲス決定だ。手加減してやる義理はない。

 俺は上段に構えて木剣を振り上げている男の鳩尾に掌波――掌に魔力を込める格闘魔法――を喰らわすと、その木剣を奪い、前蹴りで吹き飛ばす。

 それとほぼ同時のタイミングで、お嬢が一人目の男の腕を折り、木剣を奪っている。

 俺は間合いの内にいる連中を横薙ぎに一閃して肋を叩き、距離をとると、魔法剣の構えを作る。

「風の魔剣、レベル3、霞払いネブルドゥム、打突」

 剣先から発した無数の風の塊が男たちに殴りかかる。通常のネブルドゥムは風の刃を発生させて、当たり所によって首や手足を切り落としてしまう殺傷能力の高い魔法のため、喧嘩作法に則った変則的なオリジナル魔法に変えている。

 一度に数十人の男たちが倒れ、膝をついて、痛みに呻いている。頭や手を切り落とさない代わりに、骨折してる奴は何人もいるだろう。

 お嬢を見ると、苦手な長剣タイプの木剣でいつもより面倒そうだが、上手に身体強化魔法をコントロールして、次々に男共のどこかしらの骨を砕き戦闘不能にしている。

「おい、レオポン。この通り、お前のところの門下生では俺たちにかなわない。金は法定の利子をつけて必ず返す。お嬢への変な執着は終わりにするんだ」

 レオポンが顔を真っ赤にする。

「ふざけるな。世界でたったひとつの恋を、こんなことで諦めるわけがないだろ。てか、レオポンいうな」

 そう言うなり、レオポンは自分の傍らにいた魔術師風の男に何か指示をした様子だ。

 嫌な予感がした俺は、お嬢との距離を詰めておくことにした。

「風の魔剣、レベル2、風の跳躍イーレントゥス

 足元に発生させた風に乗ると、たくさんの男たちを飛び越えて、お嬢の近くまで移動し、風から降りる。

「残念だったな。一歩遅かった」

 魔術師風の男がそう言うと、お嬢の身体が無数の光の輪に捉えられ、床から五メートルほど浮き上がった。

「光魔法、レベル4、光の呪縛ルメカテーナ

「魔術師の力を借りるとは、魔法剣士として情けなくないのか」

「うるさい! 彼もうちの門下生で、ほら、剣も一応持ってるぞ」

 自分から「一応」と言ってるし、説得力がない。

「ずるいというなら、お前が元魔剣百傑であることも充分にずるいぞ」

「は?」

「お前だけ強いのはずるいと言ってるんだ」

 もはや理屈が完璧に破綻している。レオポンを理屈で説得できないとすると、お嬢が捕まった今、俺は動くことができない。

 俺はクレト兄が殺人の疑いで姿を消す前まで、魔剣百傑の上士三十傑に選ばれていた。それは、番付委員会に正式に認められてのことで、ずるいことなどひとつもない。

「ぐっ」

 お嬢の苦しそうな息遣いが聞こえてくる。まだ十三の娘を不意打ちにして苦しめるなど、まともな人間がすることではない。

 他の門下生たちが、ニヤニヤと俺に近づいてくる。

「おい、その木剣を捨てろ」

 俺は言われるままに、木剣を捨てる。嬉しそうな門下生たちが、束になって俺に木剣を向ける。気づかれないようレベル3の防御魔法を自分にかけ、後はじっと耐える。

 俺は無数の木剣に打たれ、崩れ落ち、今度は足蹴にされる。こいつらの気が済んで、お嬢が解放されるのを待つ。

「やめてください。この卑怯者! 束になってもフェルサさんに勝てないくせに」

「だから、頭を使うんですよ、お嬢さん」

 門下生の誰かがそう言う。レオポンといい、門下生たちといい、とことん性根が腐っている。

「やめてくださ……やめろ」

 門下生たちの手足が止まる。お嬢の声に明確な変化があったからだ。

「魔法剣士の風上にも置けない糞野郎ども」

 レオポンも門下生たちも、唖然としてお嬢を見上げている。

「光魔法、レベル5、解放リベルタス

 お嬢を捕らえていた光の拘束具が光の粒になって消えていく。

「お前らがまともに勝負する気がねぇなら、こっちだって考えはあんだよ。元剣魔七雄、イサーク=スィマトが相手してやらぁ」

「し、師匠!?」

 俺を含め、その場にいた全員があんぐり口を開けてお嬢を眺めていた。

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