あけてこそ良さを知りなむ玉くしげ黄金にそめし茅渟の海とは
ご来光を拝むという行為は長らく太陽を信仰してきた日本人にとって、現代でも比較的受け入れやすい習慣ではないかと思う。
それが一年の初め——初日の出ともなれば、なおさらだ。
そのために、わざわざ暗いうちから山や高台へ登り、あるいは見通しの良い海辺の岸壁などにうち集うのは、もはや古来から続くDNAに染み付いた習性なのかもしれない——と、ふと思うことがある。
日本全国津々浦々、ご来光スポットとして注目を集める場所は数々ある。
例えば富士山、たとえば
大阪湾を臨む六甲山も京阪神間では馴染みのご来光スポットの一つである。
諸説あるだろうが、縄文の頃から豊かな漁場であった大阪湾——万葉の頃には既に「
特に冬場はクロダイの恰好の漁場だったりする。
(特に阪神沿線の学校では伝統的に「
茅渟の海の由来も諸説ある。
有力とされている一つは、神武天皇の皇兄が戦で負傷し、その傷を大阪湾で洗ったことから「血の沼」が転じて「チヌ」と呼ばれるようになったとする説。
もう一つは、チヌヒコと呼ばれた瀬戸内から大阪湾一帯を広く支配下に置いていた人物の名前から「チヌの海」と呼ばれるようになったとする説。
このチヌヒコ、別名がいくつかあり、
そして、まさに大阪湾の一番奥まったところに位置する兵庫県神戸市の東端、背後の六甲山系からそこだけチョンっと海側に突出した非常に見晴らしの良い小高い山——
何でもウミガメに乗って海の向こうからやってきて、保久良の山に登ったそうだ。
今でこそ東神戸の浜は洋上の人工島である六甲アイランドの一部として沿岸の埋め立てが進み、山は削られ徐々に陸地が幅をとるようになっているが、神戸の街はだいたいどこも下山すると直ぐに海という狭小地だ。
縄文の頃など、ほとんど海から山が突き上がっていたであろう地形である。
保久良山から真っ直ぐ降りたあたりの浜辺は現在では「青木」と書いて「おうぎ」と読むが、その昔は「
昭和初期頃までは、実際にウミガメが産卵に訪れていたような浜辺が続いており当時のモノクロ写真も残っていたりする。
今でこそ何だか小洒落た政令指定都市というイメージのある神戸市だが、それは明治以降に発展したゆえであり、それ以前は海と山しかないド田舎と表現して概ね差し支えない。
しかし面白いのが、縄文時代(あるいはそれ以前?)のものと思われる集落跡が多く残っており、それらは主に六甲山系の尾根づたいに展開されている点である。
保久良山の奥に広がる
その分、保久良山からの眺めは絶景だ。
眼前に大阪湾が広がるのはもちろんのこと、大阪の繁華街梅田(キタ)から難波界隈(ミナミ)、あべのハルカスや岸和田、泉南、関空のある泉佐野まで大阪の曲線地形を一望できるという立地だ。
手前の陸続きでは同じ兵庫県下の芦屋、西宮から少々奥まった伊丹の方まで見通せる。
そして対岸に広がるのは大阪と奈良、和歌山の県境にまたがる山脈群である。
和泉葛城山、岩湧山から生駒山まで東にドーンと視野が広がり、西に目を向けると紀伊水道からの友ヶ島、淡路島、明石海峡大橋から須磨の
一発
チヌヒコの影響力の大きさを実感できるスケールと言えば、そのとおりだ。
おそらく実際に交通の要所だったのだろう。
保久良山には「
話が長くなったが、そんな見晴らしからご来光を拝むと、日が徐々に高くなる午前中、天気が良ければ大阪湾は黄金に染まる。
冬場は九時半から十一時くらいが最も黄金色と言える色合いで、沖の方までずーっと続いていくのは圧巻の一言だ。
月並み表現になるが、「黄金の国ジパングと言われれば、なるほど確かにそう見える」と素直に思える程度には黄金である。
気象条件に左右されるだろうし、見下ろす角度によって人の感じ方は様々であることは申し添えておく。あくまでも筆者の主観である。
年の初めの
(参道の途中で何度も休憩しながら登り、神社に辿り着くまで心臓
というのは数年前の話だ。
コロナ以前は気兼ねなく訪れることができたものだが、また足繁く通えるようになる日が来ることを、ひっそりと願う次第である。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます