Episode 14 束の間のひととき

 自宅に戻った俺は、ボストンバッグの中身を元あった場所にそれぞれ戻し、部屋のベッドの上で天井を見上げていた。マーシャは外出したまま、まだ帰っていなかった。


 陳さんの最後の言葉が、ずっと気になっていた。確かに陳さんの言う通り、感覚が鈍っているのかも知れない――には運命の悪戯はともかく、神の思し召しなんてものは存在しない。胸の内に、なんとも言えないもやのようなものが、まるで小さなしこりのように残っている。


 家に戻ってから、どれぐらいの時間がたっただろうか――不意に玄関の呼び鈴が鳴った。マーシャであれば、合鍵を持っているので呼び鈴を押す必要などはない。かといって、配達などで荷物が届くなどという予定も無い。


 やや気だるげな身体を無理矢理起こして、テレビドアホンの画面を見ると、そこに写っていたのは意外な人物だった。


「こんにちは、公佑」


 玄関先に立っていたのは、玲芳リンファンだった。淡いベージュのトレンチコートに、クリーム色のトップスと淡いピンクのパンツ姿。いつも店で着ている漢服姿ではなかったので、一瞬誰だか分からなかった。


「玲芳、お前、どうしてここが」


 分かったんだ、と言いかけて、俺はすぐに陳さんのことを思い出した。陳さんは、の住所を知っていた。


「おばあちゃんが、公佑の具合が少し良くないらしいから、お見舞いに行ってやれって」


 小さな紙製の箱を手にした玲芳が、少し気恥ずかしそうに笑った。


 陳さんが一体どんな思惑で玲芳にそう言ったのかは分からないが、ひとまず俺は玄関のドアを開けて、玲芳を家の中へと招き入れた。


 玲芳が俺の家に来たのは、今回が初めてだった。アイツがまだ生きていた頃でも、玲芳を家に招くようなことはなかった。俺とアイツの間では「互いの友人や知人を自宅に招かない」という暗黙の了解があったからだ。


 事務所兼リビングを一瞥いちべつした玲芳が、少し感心したように言った。


「男の人の一人暮らしでも、随分と綺麗に片付いているのね」


「まあ、今は一匹、居候の大きな猫を飼っちゃいるけれども」


「またそんな、ひねくれたものの言い方をするんだから……はいこれ、お見舞いの品」


 玲芳から受け取った小さな紙の箱は、見た目よりもずっしりと重かった。


月餅ユエビンか?」


 俺の問いに、玲芳が小さく笑って頷いた。月餅は、中国ではごく一般的な贈答品の一つだ。簡単に言えば、見舞いの品にケーキを持ってきたようなイメージだろうか。


「そこのソファに掛けて、少し待っていてくれ。飲み物を入れてくる」


 俺はそう言って、月餅の入った紙箱を手にキッチンへと向かった。紙箱を開けると、中にはやや小ぶりな月餅が六つ入っていた。ケトルポットで湯を沸かしながら、頂き物の月餅を二つ、それぞれフォークを添えた小皿の上に乗せ、急須きゅうすと湯飲み茶碗二つを食器棚から出す。幸いなことに、烏龍ウーロン茶の茶葉の買い置きはまだ残っていた。


 それから程なくして、俺は烏龍茶と月餅のセットを玲芳の目の前に置き、自分も向かい側のソファに腰を下ろした。


「おばあちゃんから突然電話があった時には、少し驚いたけれども……風邪を引いたとか、そういったことじゃなかったのね?」


 上品に烏龍茶を口にしながら、玲芳が微笑した。口元のマスクを外した彼女の容貌は、アイツが惚れ込んでいた時と変わらず美しかった。


「今日は陳さんからの相談事を聞きに行っていただけさ。その時に少し、咳でもしていたかも知れない。陳さん、いつも大げさなんだよ」


「あら、おばあちゃんからの相談事って何?」


 玲芳が、興味深そうに首を傾げてみせる。俺は玲芳から貰った月餅にフォークを入れ、小さく切り分けた一切れを口に放り込んだ。クルミの入ったあんは独特の香ばしい香りがして、とても美味かった。


「実のところは、陳さんの知り合いからの相談事さ。内容は、仕事上の守秘義務があるから言えない」


 俺は曖昧あいまいに笑ってみせた。少なくとも、嘘は一言も言っていない。


「もう……真悟もいつもそうだったけれども、二人とも、おばあちゃんとの内緒話が多すぎよ」


 そう言って無邪気そうに笑った玲芳の笑顔が、俺の胸の奥に小さなとげを刺した。


「陳さんは顔が広いからな、色々な人から頼られる」


「そう? 私にしてみれば、どこにでもいる普通のおばあちゃんなんだけれども」


「あの人もあの人で、きっと色々と大変なんだろう」


 まるで他人事のようにそう口にした自分に対して、少し嫌気が差した。


「まあ、公佑が元気そうだったから何よりだけれども……ところで、マーシャさんは?」


「ああ……陳さんのところに、ちょっとした仕事絡みで邪魔することになったから、どこかで適当に遊んできてくれって、な。今頃はあいつ、友達と飯でも食ってるんじゃないか?」


 俺の言葉を聞いた玲芳は、少し困ったように形の良い眉根を寄せた。


「どんな事情があって彼女を預かることになったのかは知らないけれども、預かるからにはちゃんと面倒を見てあげてね? あんなに綺麗で素敵な女の子、どこで誰に連れていかれるか分からないわよ?」


「玲芳……本当に、そう思うか?」


 烏龍茶の入った湯飲み茶碗を口に運びながら、俺はついぼんやりと尋ねた。玲芳が、何とも意外だと言いたそうな顔で答えた。


「えっ? そりゃ、まあ……だって、あれだけの美人さんなんだもの」


「……」


「どうしたの、公佑? 貴方、やっぱり少し様子が変よ?」


「いや、悪い。少し考え事をしていた」


 玲芳は少しの間、気まずそうに黙っていたが、ややあって話題を変えるように言った。


「ところで公佑、さっきの話だけれども……どうしてマーシャさんを預かることになったの?」


 玲芳にそう尋ねられ、他にこれといって話題もなかった俺は、マーシャを預かるまでの経緯を簡潔に述べた。


「ふうん……公佑、そういうところって全然変わらないわね」


 何やら嬉しそうに、玲芳がそう呟いた。その反応が、俺には少しこそばゆかった。


「何だよ、突然」


「真悟はスマートに優しい人だったけれども、公佑はぶっきらぼうに優しい人だってこと」


「何だ、それ」


「だって公佑、口では何のかんの言いながらも、結局はマーシャさんのことを放っておけずに助けてあげたってことでしょう? 普通は見ず知らずの赤の他人を、いきなり家に連れ帰って助けようだなんて思わないわよ」


 そう言って優しく笑った玲芳の笑顔が、今の俺にはとてもまぶしく見えた。


「さぁて、ね……マーシャに言われたよ。もしも自分が男だったとしても、同じように助けてくれたのかって」


「それ、何て答えたの?」


「嫌な質問をしてくるなあ、って」


 俺の言葉を聞いて、玲芳は小さく噴き出して笑った。


「ちょっと公佑、貴方、本当に大丈夫?」


「男だろうが女だろうが、あいつがもう少し歳を喰っていれば、おそらく関わり合いを持たなかったと思う。だがあいつは見ての通り、まだまだ子供だ。自分の子供みたいな歳の娘が路頭に迷っているのを見てしまったのが、俺の運の尽きだったのかも知れない」


「こーら、そういう言い方をしないの。マーシャさんが悲しむわよ」


 玲芳はそう言って、少しだけ怒ったふりをして見せた。彼女はそれから、ふと思い出したかのように俺に尋ねた。


「ところで公佑、貴方、今何歳だったかしら?」


「三十九」


「マーシャさんは?」


「十九」


「なるほど……それは確かに、親子ほども年齢差があるわね」


 玲芳が、さも納得したかのように頷いた。俺は尋ねた。


「玲芳、そう言うお前は一体何歳なんだ?」


「ちょっと公佑……それ、わざと聞いてる?」


 玲芳が少しだけ、柳眉りゅうびを逆立てながら答えた。


「二十五よ」


「……アイツ、随分なロリコン趣味だったんだなぁ」


「公佑……どっち側でもいいわ、ほっぺたを差し出しなさい。さあ早く」


 玲芳が両の掌をゆっくりと擦り合わせながら、満面の笑みを浮かべた。俺は残っていた月餅を口に放り込み、それを烏龍茶で胃に流し込みながらそっぽを向いた。


「はぁ……全く、公佑のことを心配して損しちゃった」


「余計なことを言ったのは悪かったよ。でも、わざわざ来てくれてありがとうな」


 俺がそう言うと、マーシャはうっすらと頬を染めてうつむいた。


 壁掛け時計に目を向けると、十七時三十分を過ぎようとしていた。玲芳が家に来てくれた時刻は覚えていなかったが、随分と長話をしていたのかも知れない。


「玲芳、外もだいぶ暗くなってきたぞ」


「そうね。それじゃあそろそろ、おいとまさせていただこうかしら」


「中華街まで送ろうか?」


 俺はそう言ったが、玲芳は小さく被りを振った。


「もうすぐマーシャさんが帰ってくるかも知れないんでしょう? だったら家にいて、彼女を出迎えてあげて」


「いやしかし、夜道の一人歩きは危険だぞ?」


「それだったらなおさらよ。一度彼女に連絡を取ってみたら? 必要だったら、迎えに行ってあげるといいわ」


 玲芳はこういった気遣いが自然に出来る女で、しかもこういう時には、なかなか自説を曲げようとしない頑固なところがあった。


「貴方から聞いた限りの話だと、マーシャさん、随分と寂しがりなところがあるみたいだし。それに、私のことだったら大丈夫。マーシャさんよりは大人だし、おばあちゃん仕込みの中国拳法だってあるんだから」


「そいつは初耳だな……お前もそうだが、陳さん、そんなことまで得意なのか」


「おばあちゃんいわく、若かった頃にはね。今はもう身体が思うように動かないけれども、それでも人に教えることぐらいは出来るって言っていたわ」


 それだけ言うと、玲芳はソファから席を立って、玄関へと向かった。玄関で靴を履きながら、玲芳が俺に振り返って言った。


「そうだ公佑、年末の中華街でのカウントダウンイベント、一緒に見に行かない?」


「そうだな……何も用事が無ければ、別に構わないよ。たぶん大丈夫だと思う、また連絡する。ただしその時には、おそらくがもう一人ついてくるぞ」


「あら、イベントは大勢で楽しむ方が良いと思うわ。マーシャさんさえ良かったら、ぜひ一緒に連れてきてあげて」


 最後にそう言い残すと、玲芳は我が家を後にしていった。ほがらかで優しい性格の玲芳と接していると、陳さんの店でのやり取りのことも幾分忘れることが出来た。陳さんもあの人なりに、俺のことを気にかけてくれていたのだろう。とりあえず、そう思うことにした。

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