Episode 7 陳漢方薬局

 翌日はマーシャを引き連れて、あららぎ市内のあちこちを転々とすることになった。


 朝一番に訪れたのは、区役所だった。同じあららぎ市内だが、俺とマーシャとでは住んでいる区が違った。あららぎ市内での転居であれば、新しい住所を管轄する区へ転入届を出すだけで良かったので、まずは俺の住所を管轄する区役所に向かった。今日は土曜日だったが、第四土曜日ということで区役所の窓口は一部開庁されていた。


 住民課の窓口で転居届を済ませ、マーシャの国民健康保険証にかかる住所変更の手続きを終えた頃には、十時三十分を回っていた。区役所に出向いたのが八時三十分ちょうどだったので、都合二時間ほど区役所の中にいたことになる。


 それから、マーシャが住んでいたアパートの部屋の電気やガス、水道の利用停止のため、カスタマーセンターに出向いたり、インターネットを通じて申し込みをしたりした。これらの手続きをしているうちに、いつの間にか時刻は正午を回っていた。


「マーシャ、昼飯は何がいい? よほど高いものでなければ、何でも食わせてやるぞ」


 昨日聞いたマーシャの食生活があまりに不憫ふびんだったことと、仕事の方は依頼主からの返事待ち状態で手持無沙汰だったことから、少し鷹揚おうように構えた。マーシャは少しの間悩んだ後、遠慮がちに言った。


「じゃあ、チューカガイに連れて行ってクダさい。あそこのヤタイで買って食べたご飯、とてもおいしかったです」


「中華街、か」


 少しの間、考え込んでしまった。


「ダメ、ですか?」


 マーシャが上目遣いにこちらを見てきた。俺が考え込んだ理由は、おそらくマーシャが想像しているものとは違うはずだ――それは俺にとって極めて個人的な、ここしばらくの間触れずに放置し続けていた事柄によるものだった。


「まあ、いいさ。あとは店が営業しているかどうかだな……それじゃあ、とりあえず行こうか」


 それから俺達は、あららぎ市内の中華街へと足を運んだ。


 横浜や神戸、長崎などと共に、あららぎ市の中華街はなかなかの規模を誇る。昔から海運業が盛んだったいくつかの地域が、いわゆる「平成の大合併」の一環でまとまって新たに出来たのが、この「あららぎ市」だ。市内の中華街は、この平成の大合併よりもずっと以前から存在している、歴史のある街並みの一つだった。


 コインパーキングにクルマを放り込み、中華街の門をくぐって少し歩いたところで、ポケットの中のスマートフォンがブルブルと短く振動した。取り出してみるとショートメッセージの着信があって、そこには「小娘とデートをする暇があるなら、たまには店に顔を出せ」と書かれていた。


 発信者は、昔馴染みの知り合いだった。予想通りの展開に思わず天を仰いだ俺は、手早く「後で少しだけ顔を出す」と返信しておいた。


 今どきLineでも電子メールでもなく、ショートメッセージを使っているのは、Lineのようなセキュリティ面での脆弱ぜいじゃく性の心配がなく、電子メールのように送受信に関するメールヘッダ情報が添付されないからだ。俺達が記録に残るような形でやり取りをするのは、あくまでも必要最小限の範囲内だけで、その文面を見ただけではこれといって意味のない内容に限られていた。


「コースケ、そのスマホ、昨日見たのと違うですね」


 立ち並ぶ屋台の食べ物を物色していたはずのマーシャが、ざとく俺のスマートフォンを見て言った。


「ああ……こいつはプライベート用だよ」


「じゃあ、そのスマホの電話番号、私にも教えてクダさい」


「駄目だ」


 即答すると、マーシャの表情はみるみるうちに暗くなった。


「私、コースケのこと友達思ってます。どうしてそのスマホの電話番号、教えてくれないですか?」


「俺達は知り合ってまだ三日目だ、お互いに友人を名乗るには早すぎる。それに」


「それに、何ですか?」


「いや、何でもない。昨日教えた電話番号二つで、事は足りるだろう?」


 このスマートフォンの電話番号を知っているのは、だった――それだけに、このスマートフォンの電話番号を、そうおいそれとマーシャに教える訳にはいかなかった。


「コースケ、ガード固い。何だかロシア人みたい。日本の男の子、すぐ友達なってくれるのに」


 マーシャはしばらくの間、恨めしそうな目で俺を見ていたが、敢えてそれを黙殺した。俺達はしばらく無言のまま、人影がまばらな中華街の通りを並んで歩いた。


「何か食いたいものは決まったか? 何だったら屋台じゃなくて、どこかの店に入ってもいいぞ?」


 俺の問いかけに、マーシャはふるふると被りを振った。明らかに見て分かるほどに、ふて腐れている。


「食べる気、無くなりまシた」


「そうか。じゃあ、また食べる気になったら言え。あと、今食事をしないんだったら、先に少しだけ寄り道をするぞ」


 呆気に取られるマーシャを尻目に、八角の匂いが漂う中華街の通りの中をどんどん進んでいった。途中で裏路地に入り、少し歩いたところに俺の目的の店はあった。


 そこはかなり古びた造りの薬局で、ところどころ塗装が剥げた木製の店の看板には「陳漢方薬局」と書かれていた。店の窓はすべて白いになっていて、外から店の中の様子はうかがえない。


 年季の入った店の扉を開けると、からんころんと派手な鐘の音が響いた。店の中に入ると、様々な漢方薬の匂いが入り混じった空気の中、薄暗い店の奥にあるカウンターの向こうから不愛想な声が聞こえてきた。


「やあ、いらっしゃい。久しぶりだね」


 カウンターの向こうに立っていたのは、小柄な細身の老婆だった。簡素ながら上品なデザインの漢服に身を包んでいて、長い白髪を品よく頭の上でまとめている。皆と同じように口元にはマスクを着用していて、額や目尻には年相応の深いしわが刻まれていたが、よく見れば元はなかなか整った顔立ちであっただろうことが見てとれた。細い銀縁の眼鏡をかけていて、レンズの向こうに見える眼光は相変わらず鋭い。


「耳が早いというか、目敏いというか……アンタは相変わらずだな、陳さん」


 俺がそう言うと、その老婆は小さく鼻を鳴らしてカウンターの奥からこちらへとやってきた――彼女が先程俺にショートメッセージを送ってきた、この店の女主人であるチェン美華メイファだった。


「そう言うお前さんの方は、随分と変わったみたいじゃないか……誰だい、そっちのお嬢ちゃんは?」


 陳さんがじろりとマーシャを見た。マーシャはやや硬い笑顔で、小さく頭を下げた。


「こんにちは。私、マリーヤ・ゼレンコフ言います」


 そんなマーシャを見て、陳さんが目尻を少しだけ下げて笑った。


「きちんと挨拶が出来るってのは大事なことだよ、礼儀正しい子は大好きさ。あたしゃ陳美華って言うんだ……鳴沢、この子はお前さんの新しい彼女かい? それとも、まさかとは思うがかね?」


 久しぶりに耳にした名前に少し動揺しながらも、俺は被りを振った。


「どっちでもない、冗談は止してくれ」


「じゃあ、一体何だって言うんだい?」


「ちょっとした事情があってね……少しの間、うちで預かることになった」


 俺の言葉に、陳さんは一瞬目を丸くし、それからくくっと喉を鳴らして笑った。


「やれやれ、お前さんも随分とが回ったもんだねぇ。それにしたって、どうせ娘っ子を家に連れ込むっていうんなら、うちの玲芳リンファンを引き取ってくれればいいのに」


 玲芳というのは陳さんの孫娘で、同じ中華街の中にある中華料理店の看板娘だ。もう一年近くも会っていなかったが、落ち着いた雰囲気の美人だったことは覚えている。確か玲芳は独身で、おそらくは今もまだそうなのだろう。陳さんとはここ数年来の付き合いだったが、時々この手の話を持ち掛けてくるのには閉口していた。


は玲芳のことを気に入っていたみたいだがな」


「いなくなった人間のことを言っても、仕方が無いさね。それに、玲芳はどっちかって言うとお前さんの方が好みのタイプらしい。煙草を吸う男は嫌だとさ」


「で、わざわざ俺を呼びつけた理由は一体何なんだ?」


 俺がそう言うと、陳さんは呆れたように被りを振った。


「お前さんが最後にこの店を訪れてから、もうそろそろ一年近くが経つ……以前はでお互い上手くやっていたっていうのに、随分と薄情な話じゃないか」


「……」


「そこへもって、久しぶりにお前さんがこの近くまで来ているって話が聞こえてきたんだ。うちに挨拶の一つぐらいしていってくれたって、は当たらないだろう?」


 陳さんはとても顔が広い。特にこの中華街では、大半の者達と面識がある。そんな彼らの目や耳を通じて、様々な情報が陳さんの元へと流れ込んでくる――最初に俺が中華街に足を踏み入れるのを躊躇ためらったのは、それが理由の一つだった。


「近いうちに一件、お前さんに頼みたい仕事が出来るかも知れない」


 店内に並ぶ漢方薬に目を向けながら、陳さんがぼそりと言った。


「お前さんにとっても、そこそこいい金にはなるはずさ。その時が来たら、また連絡するよ」


「マーシャの前だ、仕事の話はよしてくれ」


 俺は首を横に振った。


「それに俺はもう、アンタからの仕事は受けられそうにない……第一、


「情けないこと言うんじゃないよ、武村がいなくなったぐらいで」


 俺は思わず、陳さんをにらみ付けていた。陳さんの目は、ただ静かにじっと俺を見つめていた。少しの間、無言の時間が続いた。


「帰るぞ、マーシャ」


 マーシャにそう言うと、きびすを返して店の扉へと向かいかけた。そんな俺の背中に、陳さんがぼそりと呟いた。


原来ユァンライ胆小鬼ダンシャオグィ


 それは中国語だったので、何を言っているのかさっぱり分からなかった。


 だが、それまでただ黙って俺達のやり取りを見ていたマーシャがきっ、と陳さんを睨んで言った。


「コースケとチェンサンの話、私よく分からないけれど……コースケ、臆病者なんかじゃない。チェンサン、そんなこと言うのよくないです。謝ってクダさい」


「……こいつは驚いたね。お嬢ちゃん、中国語が分かるのかい?」


 陳さんが心底驚いた表情で、目を丸くしていた。これまでに見たことが無い、珍しい光景だった。


「でもねぇ、お嬢ちゃん。この男は一年近くも前の出来事を、未だに未練たらしく引きずっているんだよ」


「止めてくれ」


 俺の言葉を無視して、陳さんは言った。


「人間生きてりゃ誰にだって、辛いことの一つや二つはあるもんさ。でもね、どんなに辛い出来事があったからといって、いつまでもそれにしがみついているようじゃあ駄目だ……自分が今出来ることを、過去の辛い出来事のせいにして出来ないって言う。それを臆病者と言って、一体何が悪いんだい?」


「それは」


 言葉に詰まったマーシャに、陳さんが小さく笑ってみせた。


「人間ってのはね、一度誰かと繋がりを持ってしまった時点で、相手の命と繋がってしまうものなのさ。それを今更、自分さえ良ければいいなんて甘いことは言っちゃいけない」


「……もういいんだ、マーシャ。帰るぞ」


 もう一度そう言って、マーシャをうながした。不服そうな顔をしながらも、マーシャが俺の後に続く。


「ああそうだ、お嬢ちゃんに一つ忠告だよ」


 俺が店の扉を開けた時、陳さんが何事かを思い出したかのように言った。


「身の回りには、せいぜい気を付けておきな。最近、外国人が行方不明になっているって話をちょくちょく聞くからね」


 マーシャが先に店を出たところで、俺も店を出てそっと扉を閉めた。最後に鐘の音がからんころん、とむなしく鳴った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る