Episode 6 想定外の出来事
十三時ちょうど。マーシャの住んでいたアパートの部屋の前で、俺達は元大家と待ち合わせをしていた。今日乗って来たクルマは俺のマイカーで、現在はアパートの前に路上駐車中だ。
「えっと……鳴沢さん、でしたっけ? 貴方とこの子との関係、伺ってもいいかしら?」
マスク姿の元大家が、まるで値踏みでもするようにじろじろとこちらを見てくる。今更そんなことを聞いて、一体どうするつもりなのだろうか。マーシャがおろおろと
「彼女の親父さんに、昔世話になった者です」
俺が差し出した仕事用の名刺を
「ふーん……まあ、別に良いんですけれどもね」
何が良いのかはさっぱり分からなかったが、元大家は俺達二人に背を向けて、部屋の鍵をポケットから取り出す。こちらを見つめるマーシャが、唖然とした表情で目を白黒させていたが、黙って右手の人差し指をマスクの前で立ててみせた。
「本当は退去確認もしてもらわなきゃいけなかったから、ちょうど良かったんですけれどもね」
部屋の扉を開けた元大家が、中に入るよう
「入っても大丈夫か? 俺が見てまずいものとかはないか?」
念のため、マーシャに確認する。この歳で若い娘の部屋に入るのには、多少の心構えが必要だった。マーシャが先に部屋の中に入り、少ししてから彼女の声がした。
「ダイジョウブです」
ようやく部屋の中に足を踏み入れたところ、縦に細長い形の部屋の中は、やけにこざっぱりとしていた。
まず目についたのは小さな座卓と、いくつかのプラスチック製の収納ケースだった。部屋の隅には小さな液晶テレビと、古くて大きなスーツケース、そして几帳面にたたまれた薄い布団が一組あった。きっとこまめに掃除をしていたのだろう。フローリングの床には、小さな
天井からは、小ぶりな照明器具が一つぶら下がっていた。部屋の一番奥にある唯一の窓の外はベランダになっていて、すりガラスの窓にはややくすんだ色のレースのカーテンが、窓の上には古ぼけた小さなエアコンが、それぞれ取り付けられていた。
狭い炊事場には、百円ショップで売られているようなプラスチック製の水切りラックに数枚の食器が立てかけられていて、その横には小さな包丁とまな板が見えた。炊事場の足元の収納扉の横には、ビジネスホテルで見かけるようなタイプの小さな冷蔵庫があった。
玄関を入ったすぐ脇には洗濯機があって、その隣の扉の中は、狭いトイレ付きのユニットバスになっていた。マーシャに尋ねる。
「この部屋の中にあるもののうち、どれがお前のものなんだ?」
「ちょっと、嫌ですよ鳴沢さん。部屋の中の家電の
すぐ隣にいた元大家が、不満げに小さく鼻を鳴らした。マーシャの方を見ると、彼女はこくこくと頷いていた。
最初にこの部屋を見た時、マーシャから聞いた家賃の滞納額から考えると、学生向けにしては月々の家賃が少し高くないかとも思ったのだが、生活家電の類がほぼ一式揃えられているのであれば、致し方が無い金額なのかも知れない。
「それじゃまあ、ぱぱっと退去確認をしちゃいましょうかね」
元大家が部屋の中を、目を皿のようにしてあちこち見始めた。俺はマーシャに言った。
「マーシャ、賃貸契約書の写しを見せてくれ。お前がこの部屋を借りた時にサインした書類だ」
俺の言葉に、元大家がマスクの奥で小さく舌打ちしたのが聞こえた。マーシャは少しの間、俺の言葉の意味を理解しかねていたようだったが、やがて収納ケースの上に置かれた小さなプラスチックの引出し棚の中から、一枚の書類を取り出してきた。
書類にざっと目を通し、月額の家賃や敷金・礼金の扱い、契約解除時の条件などを確認した。敷金・礼金はどちらも無しで、家賃が税込みで月額三万円。退去確認の際には、日常生活上致し方の無い程度を超えた破損個所についてのみ、借主の負担で補修することとされていた。その内容について、特に不審な点は見られなかった。
「一応の確認は必要だと思いますが、この部屋の様子を見せていただいた限り、彼女が滞納していた家賃以外にお支払いしなければならない費用は、おそらく無いように見受けられますよね?」
狭い部屋の中を見渡してから言った俺の言葉に、元大家はむすっとした表情でぶっきらぼうに言った。
「この子が滞納していた家賃は、全部で十二万円ですから」
懐から金融機関の封筒を取り出し、一万円札を十二枚数えて元大家に渡した。元大家はその金を受け取ると、手早く領収書を書いて俺に差し出した。その領収書には収入印紙が貼られていなかったが、そのことを指摘するのはやめておいた。
「それじゃあ部屋の鍵は一旦置いていきますから、ぱぱっと荷物を運び出してくださいな。うちはすぐそこだから、作業が終わったら鍵を返しに来てください」
そう言い残すと元大家はさっさと靴を履いて、足早にその場を立ち去っていった。
当初聞いていた話から想像していたよりも、運び出さなければならない荷物は遥かに少ないようだった。
「これぐらいの荷物の量なら、俺のクルマでも十分に載せることが出来るだろう。さっさと片付けてしまおう」
俺のクルマは、BMWのX1。社用車として購入した十年落ちの中古車で、値段は諸経費全部込みで七十万円ぐらいだっただろうか。なかなか便利なクルマで、後部座席をフルフラットにすれば、そこそこ荷物を載せることが出来た。上手くやれば一回で、多くても二回に分けて荷物を運べば、何とかなりそうだった。
「あのね、コースケ……実はまだ、他にも荷物があるです」
そう言ったマーシャは、そっと部屋の一角を指さした。そこは押し入れで、通常であれば布団や収納ケースなどを入れておくのに十分なスペースがありそうに見える。
マーシャから聞いた話では、元大家はこの部屋の中のものについて「捨てるか、売るかする」と言っていたはずだった。今、ぱっと目に映る範囲内のマーシャの私物で、金になりそうなものはまず見当たらない。布団や収納ケースが、この押入れの中に入っていないことも気になった。
「開けて見せてくれ」
何となく、嫌な予感がした。マーシャが何とも気まずそうに、そっと押入れを開けた。
「……おいおい。一体何だ、これ」
中に入っていたものを目にして、思わず
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
その日の夜は外で食事を終えてから自宅に戻り、浮気調査の依頼人への調査報告書の作成を行っていた。
報告書の作成そのものは、そう難しいものではない。あらかじめ定めておいた
報告書作成の中で若干気になってきたのは、今回の調査にかかる費用の精算書作成の部分だった。この点については、調査依頼の相談を受けた時にきちんと料金体系を説明したし、依頼人である男は今回出来るだけ詳細な調査を希望したため、一日当たりの調査時間の設定も長めにして見積もりを出していたのだが、調査対象者である女が浮気をした時の行動時間が長かったことなどもあって、今回の依頼にかかる最終的な報酬金額は七十五万円ほどになっていた。この金額を見て、神経質そうな依頼人がどのような反応を示してくるのか――気がかりなのはその部分だった。
着手金として既に二十万円を受け取っていたので、報酬の残額は五十五万円ほどになる。これらのデータに、調査報告書の完成品の写真と合計ページ数、調査報告書の一部抜粋データを添えて、依頼人のメールアドレス宛にメールを送信した。あとは依頼人からの報酬残額の振り込みを待ち、確認が取れたら報告書一式を郵送するだけだ。
仕事用デスクの上のノートパソコンから手を離し、チェアの背もたれに身体を預けていたところへ、風呂上がりのマーシャが姿を現した。昨日の無粋な男物のジャージ姿では無く、年頃の娘らしい水色のパジャマを身に着けていた。
「コースケ、仕事終わりまシたか?」
「とりあえずは、ね」
疲れた目を両手の指の腹でもみほぐしながら、マーシャに言った。
「それにしてもマーシャ、お前、あの荷物の量は流石になかっただろう」
「えへへ……でも、運んでくれてありがとう」
マーシャが住んでいた部屋の押し入れの中にあったのは、大量のコミックやアニメ雑誌、キャラクターもののフィギュアなどだった。元大家の話からすれば、確かにあれらの品物は換金が可能だ。
結局、マーシャの部屋の荷物を引き上げてくるために都合三回、自宅との間を往復した。特に押入れの中身については、運ぶのにかなり難儀した――運ぶためにコミックや雑誌の類を紐でまとめる作業も面倒だったが、それらをクルマから自宅に運び込む際の何とも言えない気恥ずかしさで、精神的にとても疲れた。
「お前ひょっとして、家賃が払えなくなった理由の一つは、あの押入れの中身だったりしないか?」
俺がじろりと
「百パーセント違うか言われたら、ちょっと自信ないです……でも、コミックやフィギュアは全部チューコで買いまシた。ちゃんとセツヤクした」
俺自身は良く知らないが、コミックはともかく、フィギュアと呼ばれる人形の類は中古品でもそれなりに値段がするのではないだろうか。
「何であんなものが大量にあったんだ?」
俺の言葉に、軽く眉をしかめるマーシャ。
「あんなもの言うの、やめてクダさい……私、日本のアニメとかコミック、とても大好きです。その勉強するため、日本に来まシた」
「……ちょっと待て。お前、確か日本文学を専攻しているって言ってなかったか?」
こちらが軽く身を乗り出すと、マーシャは笑顔で頷いた。
「はい、日本文学も勉強してます。でも、あららぎ国立大学の日本文学部、ジャパニメーションの研究しているゼミあります。アニメやコミックについての講義もある、世界でも珍しい大学です」
大きなため息を吐き出してから、仕事の後のコーヒーを
「コースケ、昨日のココア、またクダさい」
背後でにこにことマーシャが笑っていたので、黒いマグカップ以外にももう一つ、白いマグカップを用意した。それはここ一年ほど使う機会がなかったマグカップだったが、昨日の夜から大活躍している。
少し気になったことがあって、ケトルポットで湯を沸かしている間、まじまじとマーシャを見た。ノーメイクのマーシャが、みるみる頬を赤く染めた。
「何ですか、そんなじろじろ見ない。恥ずかしいです」
「いや、今気が付いたんだが……お前のその髪型、何か少し変じゃないか?」
思いがけなかったであろう俺の言葉に、マーシャが小さく頬を膨らませた。
「もう、髪形変言うの、女の子にシツレイね」
「でも、右側と左側で少し髪形が違うぞ?」
そう指摘すると、マーシャは恥ずかしそうな笑みを浮かべた。
「えっと、それはですね……お金なかったから、髪の毛自分で切ってまシた。私、自分の髪の毛切るの上手じゃないかも」
「なるほど、ね」
コンロの上のケトルポットの注ぎ口から、少しずつ湯気が漏れ始めた。明日は色々とやらなければならないことが多そうだ――缶に入ったココアの粉末を白いマグカップに入れながら、俺は再び軽いため息をついた。
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