Episode 4 交渉成立
「それにしてもお前、よく食べたなぁ」
ティーバッグで淹れた紅茶の入ったカップに口を付けてから、しげしげとマーシャを見た。
マーシャの希望で入ったファミリーレストランで朝食バイキングを二人分注文し、今ようやく食事を済ませたところだったが、俺が一回料理を取りに行く間に、マーシャは三回ほど料理を取りに行っていた。フライドポテトに唐揚げ、ボイルドウインナー、スクランブルエッグ、卵焼き、白身魚のフライ、サラダ各種、数々のパン、ご飯、味噌汁、ヨーグルト、添え物によくありがちなカットされたオレンジ――俺が覚えている限り、彼女はこれらのメニューを何度もおかわりしていた。
「食べられる時に、しっかり食べておくです」
恥ずかしそうに笑ったマーシャが、ちらりと舌を出した。彼女の細い身体の一体どこに、あれだけの量の食事が収まったのだろうか。
「こんなにお腹いっぱいお肉食べられたの、久しぶりです」
彼女が言った肉とは、唐揚げとボイルドウインナーのことだろうか。
「ちょっと待て……お前、いつもは一体どんなものを食っているんだ?」
「この一週間ぐらいは、モヤシとトーフ、キャベツでした。あと、いつも行くパン屋さんがくれる、パンのミミ?」
マーシャがあっけらかんとした調子で笑った。これから切り出そうとしていた話のことを思うと、頭が痛くなる。
「まあ、いい。とりあえず食事も終わったことだから、お前の今後について少し話そう」
そう言うと、マーシャは飲みかけていたココアの入ったカップをテーブルに置き、ぴんと背筋を伸ばした。
「お前は昨日、家賃未払いでアパートを追い出された。昨日はうちに泊めてやったが、他に行き先は?」
「……ナイです」
「次の質問だ。お前はいくつかのアルバイトをして生活費を稼いでいたと言ったが、その働き口はみんな潰れてしまったんだよな。お前、今いくら金を持っている?」
「えっと……サンマンエンとちょっと、です」
「……分かった。じゃあ最後の質問だ。お前、次の住む家と仕事を見つけるまで、どれぐらいかかりそうなんだ?」
この質問をし終えたところで、大きなため息が出てしまった。マーシャはみるみるうちに目に涙を浮かべ、うつむいたからだ。
「私みたいな外国人、住まセてくれるオーヤさんも、働かセてくれる場所も、とても少ないです」
大粒の涙が
「仕事ないから、お金ない。お金ないから、住むところない……コースケ、それ分かってて聞いてるですか?」
震える声で、涙ながらにマーシャがそう言った。少しの間考えてから、再び大きく息を吐き出す。
「とりあえず、二ヶ月だけだ。その間に、身の振り方を何とか考えろ」
「……えっ?」
零れる涙を拭いながら、マーシャが顔を上げた。
「うちは留学生の下宿先じゃないからな。長居は困る」
「えっと、あの」
「あの部屋がたまたま空いていたのは、神様の思し召しって奴だろう。あとでしっかりと神様に感謝しておけ」
そこまで言ったあと、思わず両手で自分の顔を覆った。マーシャが大きな
「コースケ、ありがとう。私、とてもうれしい」
「分かった、分かったからもう泣くな」
「だって、だって」
「……勘弁してくれ」
それからマーシャが泣き止むまで、数分かかった。周りの席の客からの視線も、ようやくなくなった。彼女が泣き止んだところで、もう一つ思い出した疑問を彼女にぶつけた。
「ちなみにマーシャ、お前の荷物って、あのダッフルバッグの中身だけなのか?」
何度も鼻をすすりながら、青い目を真っ赤にしたマーシャが被りを振った。
「
「お前が払えなかった家賃、全部でいくらだ?」
「えっと……ジューニマンエンです、たぶん」
「大家の連絡先、分かるか? 電話番号だ」
マーシャはいそいそと自分のスマートフォンを取り出し、電話帳のアプリを起動させて俺に見せた。そこに表示されていた電話番号に、自分のスマートフォンで電話をかける。
かなり長い間コール音が続いた後、ようやく相手が電話に出た。おそらくは例の中年女性だったのだろう。耳に聞こえてきたのは、やや警戒した雰囲気の低い女の声だった。
マーシャの元大家に、マーシャが滞納していた家賃の肩代わりをすること、その代わりに部屋に残っている荷物を取りに行かせてほしいことを簡潔に伝えたところ、元大家の声のトーンが途端に明るくなり、電気や水道、ガスなどの手続きも全部してくれるのかと言ってきた。
必要な手続きをすべてこちらで行うと伝えて、電話を終える。
「コースケ、何でそんなことしてくれるですか?」
不安そうな表情のマーシャが、おずおずと尋ねてきたので、軽く肩をすくめてみせる。
「昨日も言ったはずだ。お前がたまたま手にした幸運は、クリスマスセールの売れ残りだって」
「コースケ、私と昨日会ったばかり。こんなことする理由、コースケにない。どうして?」
「そんなに気になるのか?」
こちらの問いに、マーシャがうつむきながらぼそりと言った。
「いイ話、ウラがあること多い聞きまシた。コースケが私によくしてくれる理由、一体何ですか?」
「それは」
「今まで親切にしてくれた日本の男の人、ホントにいイ人は少なかった。顔笑ってるけど、シタゴコロある人とても多かった」
マーシャの言葉に、つい笑ってしまった。マーシャが怒った。
「またそうやって笑う、何でですか」
「いやなに、マーシャはなかなか難しい日本語を知っていると思ってな」
紅茶の入ったカップを手に取り、口を付けた。カップの中身はすっかり冷めてしまっていて、お世辞にも美味いとは言えなかった。
「お前、日本に来てからどれぐらいたつ?」
こちらの問いに、マーシャが指折り数えて答えた。
「えっと……もうすぐジュッカゲツ、です」
「大学生として留学しに来たってことは、少なくともあと三年ほどは日本にいるのだろう?」
「たぶん……出来れば、そうしたいです」
「となると、マーシャは少なくとも四年、日本にいることになるのだろう。国に帰らず、家族からも離れて。それでなくても、今はこんなご時世だ。新型コロナのせいで、国に帰りたくてもなかなか帰れない」
マーシャはうつむいたままだった。俺は言葉を続けた。
「俺も昔、仕事で八年日本を離れたことがある。仕事の都合上、その間は日本に帰ることもなかなか出来なかった」
「ハチネン……すごく長いです」
「そうだな。その間、俺も辛いことは度々あった。でも、現地の人が色々と俺を助けてくれた。おかげで俺は、今も無事に日本にいる。その時助けてもらった人へのお返しは、まだ出来ていないが」
「えっと、それって」
マーシャが顔を上げたので、軽く笑ってみせた。
「お前も俺と同じだ。簡単に国には帰れない、親にも頼れない。そんなお前が泣いて困っているのを、たまたま見てしまった。手を差し伸べてしまった。今更背中は向けられない、それが理由かな」
俺の言葉を聞いたマーシャは、ようやく少しだけ笑った。
「私が男でもコースケ、私を助けてくれまシたか?」
予想もしていなかった質問に、思わず苦笑した。
「嫌な質問をしてくるな」
「ほらやっぱり。コースケ、シタゴコロナイですか? さっきもいきなりひどいこと言った」
見かけによらず、マーシャは根に持つタイプなのだろうか。
「下手すりゃ自分の子供みたいな女の子相手に、そんな真似が出来るか」
マーシャは眉間にしわを寄せ、両手の人差し指を自分の両のこめかみに当てて唸った。
「えっと、ひとつ教えてクダさい。コースケ、今何歳?」
「三十九」
そう答えると、マーシャは小さく息を飲んだ。
「嘘! 私てっきり、サンジュウなってない思ってまシた」
「そいつはどうも。アジア系は若く見られがちだからな」
マーシャが被りを振って言った。
「コースケ、見た目すごく若い。身体細いけれど、筋肉すごい。英語もフランス語も上手。全然日本人に見えない」
「ちょっと待て……他のことはともかくとして、身体が細いけれども筋肉が凄いっていうのは一体何だ?」
こちらの問いに、マーシャは何やら気恥ずかしそうに身をよじらせながら答えた。
「朝起きた時、コースケ、Tシャツとジーンズ着ていた。コースケの筋肉、すごいなって思ってた。日本でいう、ホソマッチョ?」
俺がマーシャにそうしていたように、どうやらマーシャも俺のことを値踏みしていたようだ。この件については、何と言って良いのか分からない。
「じゃあマーシャ、もう一度確認だ。二ヶ月だけ、うちの部屋を貸してやる。家賃はいらない。食事のことも、とりあえず心配するな。お前の荷物の残りも、このあと家に一度帰ってから取りに行くから大丈夫だ。その代わり、絶対にうちに友達を連れてくるな。生活用品以外で、うちにあるものに勝手に触れるな。大学にはちゃんと通え。次のアルバイト先と住む場所を探せ。その他の細かいことは、その都度相談だ。何か質問は?」
マーシャがそっと右手を挙げた。
「とてもうれしいし、ありがたいけれど、それだとコースケ、私のためにいっぱいお金使うことになる。ダイジョウブ?」
俺はニヤリと笑って見せた。
「その辺りのことは、全部貸しにしておいてやる。いつか払えるようになった時に、払える分だけ払ってくれればいい」
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