Episode 3 アッシュブロンドと朝食を

 目が覚めたのは、朝の七時過ぎだった。いつもより随分と寝坊をしてしまった。実質三時間ほどの睡眠でしかなかったが、思っていたよりは疲れが取れた。


 リビングの空調は、あらかじめタイマーで決められた時間にスイッチが入るようにしてあったので、比較的薄着であっても、それほど寒さは感じない。


 まだうっすらとがかかった頭をすっきりさせるため、キッチンで湯を沸かし、ドリップタイプのインスタントコーヒーを黒いマグカップに注いだ。ドリップする分だけ淹れるのに少し時間がかかるが、やはり粉末タイプのものよりも美味く感じられる。昔はコーヒーミルで挽いた豆から淹れたコーヒーを飲むこともあったが、今となってはそこまで手間のかかることはしていない。


 リビング兼事務所の一室で、立ったままスマートフォンを片手にぼんやりとコーヒーを飲んでいると、奥の個室の扉がゆっくりと開き、ジャージ姿のマーシャが姿を現した。


「思っていたよりも早く起きてきたな。眠れたか?」


 こちらの問いかけに、マーシャは軽く背伸びをしてから小さく被りを振った。


「あんまり眠れませんでした。少しキンチョーしてたのかも」


「そりゃそうだろう、いきなり寝床が変わればな。コーヒー、飲むか?」


 小さなあくびの後、マーシャはすんすんと鼻を鳴らし、辺りに漂うコーヒーの香りににっこりと笑って頷いた。ノーメイクだが、十分に可愛らしい笑顔だった。


「コースケ、スマホ片手に何していたですか?」


「ニュースのチェックだよ」


「シンブンやテレビじゃなくて?」


「新聞は溜まるとかさばるし、折り込み広告は俺には必要がない。テレビのニュースは、内容があまりにつまらなさすぎる」


 マーシャが、俺の手の内にあったスマートフォンの画面を覗き込んできた。


「わ、ニューヨークタイムズですか。それも英語」


「日本語版でも別に良いんだが、原文を読む方が、よりニュアンスを掴みやすい」


 キッチンへと戻り、マーシャの分のコーヒーを淹れた。白いマグカップを差し出すと、彼女は礼を言ってそれを受け取り、中身を一口飲んだ。


「このコーヒー、とてもおいしいです」


「気に入ってもらえて何よりだ。それを飲んでからでいいから、洗濯乾燥機の中身を取り出しておいてくれないか。アイロンがけが必要なら、後で道具を持ってくる」


 若い娘の衣類に勝手に触れることは、流石にはばかられた。頷いたマーシャはソファに腰かけ、ちびちびとコーヒーを飲み始めた。


「砂糖とミルクはいらなかったか?」


「ダイジョウブです。私、子供違いますから」


 マーシャはそう言ったが、彼女がコーヒーを飲むペースは、ココアを飲んでいた時に比べて明らかに遅い。キッチンから小皿に載せたシュガースティック数本とコーヒーフレッシュを一つ、ティースプーン一本を持ってきて、彼女が座るソファの前のテーブルに置いた。


 マーシャは少しだけ不機嫌そうな顔をしたが、シュガースティックを二本手に取ると封を切って中身をマグカップに入れ、ティースプーンで静かにかき混ぜてから再びコーヒーを口に含んだ。彼女の表情が、みるみるうちに柔らかいものになった。


「……何ですカ?」


「いや、別に。それよりも、一段落したら食事に行こう」


「えっと、あの、その」


 マーシャが狼狽ろうばいした理由は、容易に想像がついた。


「別にそんな大層なものを食いに行く訳じゃない。ごちそうするよ」


「それはとてもうれしい。でも」


「今更遠慮するな、毒喰らわば皿までだ」


 俺の言葉を聞いて、マーシャが眉間にしわを寄せて唸った。


「毒、食べたら大変。それに、お皿食べちゃダメ」


 あまりにも大真面目なマーシャの表情に、ついつられて笑ってしまった。昨夜に引き続き、こんな笑い方をしたのはこれで二度目だ。


「もう、何で笑うですか!」


「今言ったのは、日本の『ことわざ』ってやつだよ。本気にするな」


 その後、随分と時間が過ぎてから、ようやく出かける準備が整った。レディの身支度に時間がかかるのは、どうしても仕方が無いことだ。


 マーシャの服は洗濯も終わり、すっかり乾いていたようだったが、彼女が着ていた防寒着はまだ濡れていたため、昨晩彼女にあてがった部屋のクローゼットにあった古びたグレーのダウンジャケットを羽織らせた。


「この服、少しタバコの匂いします。コースケのですか?」


 不思議そうな顔でこちらを見るマーシャの頭に、ダウンジャケットのフードを被せながら答えた。


「マーシャが寝ていた部屋の、前のあるじが残していったものだ。俺は仕事柄、煙草は吸わない」


「その人、今どうしてますか?」


 少し持ち上げられたフードの奥から、青い瞳がちらりとこちらを覗いた。彼女に使い捨てのマスクを一枚手渡しながら、視線を外しつつ答える。


「今はもういない。それだけが事実だ」


 マーシャを追い立てるようにして外に連れ出し、自宅の玄関のドアに鍵をかけ、ドアの敷居にミニチュアのチェスの駒を一つ置いた。


「それ、何していますか?」


「気休め程度だが、いつも歩哨ほしょうを立てている。昔見た映画の真似事さ」


「コースケの言うこと、よく分からないこと多すぎです」


「食事の前に、少しだけ寄り道をする。帰りは歩きだ」


 マーシャを連れてマンションの地下駐車場へと向かい、彼女をレンタカーのバンの助手席に押し込み、クルマを走らせた。十分ほど走ったところでレンタカー屋に到着したので、借りていたクルマを返却し、代金を支払った。


 ここ一週間ほどの間クルマを借りていたので、レンタカー代は五万円を超えていた。この支出は必要経費の一部として依頼人に請求しなければならないため、きちんと領収書を貰う。


 腕時計に目をやった。九時二十七分。レンタカー屋を出て、マーシャを連れてぶらぶらと幹線道路沿いを歩く。昨夜降っていた雪は積もることも無かったが、おそらくは溶けた雪のせいなのだろう――足元の路面は、まだ濡れていた。


「コースケ、今日は会社お休みですか?」


 フードを目深に被ったマーシャが、俺の右隣を歩きながら尋ねてきた。クルマの中にいた時にはそれほど気にならなかったが、こうやって歩いていると、寒さが少し身に染みた。防寒着のジッパーを襟元いっぱいまで引き上げ、彼女にならってフードを頭に被る。吐いた息がマスクの中でくぐもり、そのせいでまつ毛が少し濡れた。


「俺は会社には行っていないよ」


「えっ? でも、昨日はスーツ着てまシた」


「ああ……あれは確かに仕事着だが、別に会社勤めをしているって訳じゃない」


 マーシャが不思議そうな目で、こちらを見上げてきた。大人びた容貌をしている割には、どうにも仕草が子供っぽい。彼女の吐く息に合わせて、微かな白いもやがフードから漏れた。


「俺の仕事は探偵だよ」


「タンテイ? えっと、それって……Private Detective?」


「何でそこだけ英語なんだ?」


「じゃあ、Детективデテクチフ?」


「……俺が悪かった、英語でいい」


 ため息とともにそう言うと、マーシャはダウンジャケットでやや着ぶくれした胸を、さも得意げに反らしてみせた。


「私、ロシア語の他に英語とフランス語話せます。日本語と中国語、だいたいダイジョウブ」


「……本当か? 嘘は言っていない?」


 試しに英語で尋ねてみた。


「本当ですよ。こんなことで嘘なんか言いません、信じて下さい」


 流暢な英語で返事が返ってきた。今度はフランス語で言ってみた。


「嘘だったらそのけしからん胸と尻を、嫌っていうほど揉みしだいてやるぞ?」


 するとマーシャは、フードの奥からこちらをきっ、と睨んできた。ちらりと覗いた彼女の顔は、真っ赤だった。


「ちょ……いきなり何言イますか!」


「フランス語が分かるっていうのも、本当なんだな」


 いわゆる俗語スラングも交えて言ってみた言葉を、マーシャはきちんと理解していた。この分だと、中国語が分かるというのも嘘ではないのだろう。


「コースケ、今すごくひどいこと言った。ちゃんと謝ってクダさい」


「ああ、悪かったよ」


 半ば涙目になったマーシャが、ぼそりと言った。


「さっきのこと、ホンキで言ってないですよネ?」


「当たり前だろう」


「まったく、もう……похотливыйナッホトリヴィ!」


「……おい、今何て言ったんだ?」


 こちらの問いかけを無視して、マーシャはそっぽを向いた。先程まではすぐ隣を歩いていた彼女が、少し離れたところを歩き出す。


 それからしばらく無言のまま歩いているうちに、ファミリーレストランの看板が見えてきた。


「コースケ、私、朝ご飯あそこがいイ!」


 こちらを振り返ったマーシャが、半ば叫ぶように言った。彼女が指差す店の駐車場の壁には、「朝食食べ放題」の文字が書かれた大きな横断幕が掛けられていた。歩き続けながら、マーシャに言った。


「ああ、それは別に構わないが……もっとこう、普通の店でも良いんだぞ?」


 クリスマスの朝の食事がファミリーレストランのバイキングというのは、何とも締まらない。


「あそこ、全然普通のお店です。コースケ、変なこと言ってます」


 先程までの不機嫌は、もうどこかへ行ってしまったようだ。再び俺のすぐ側まで近寄ってきたマーシャの目が、フードの奥で笑っている。確かに彼女の言う通り、ファミリーレストランは普通の店だ。自分の言葉が何ともあやふやだったことに、今更ながら気付かされた。


「だいぶ前、大学の友達と一緒に行ったことあります。お腹いっぱい食べられる、うれしいです」


「……分かった。そろそろ腹に何か入れておかないと、少し寒さが身に染みてきたしな」


 俺が頷くと、マーシャは嬉しそうに小さく走り出した。店の入口の前まで行って被っていたフードを脱いだ彼女が、こちらを振り返って右手を振ってみせる。


 その光景を目にして、誰かと一緒に食事をするのが随分と久しぶりだったことをぼんやりと思い出した。

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