サンタクロースの憂鬱
@yumeoni
第1話
「任命します。今年のサンタさんはあなたです」
帆南にそう言われたとき、静彦はぼうっとテレビを見ながらソファの上で歯磨きをしていたところで、言われた言葉の内容というよりも突然目の前に帆南の顔が現われたことにびっくりして歯磨き粉を少し飲み込んでしまった。そのせいで咳き込む。
「今年のサンタさんはあなたですよ」
もう一度囁くように言った帆南が顔をどかした先には、小学三年生の帆南の息子、晴がいた。晴は、下を向き熱心にお絵かきをしているところだった。男の子にしては長めな前髪が垂れていて、横顔だけだと女の子のようにも見える。晴の向こう側には小さなクリスマスツリーが飾ってあって、そのてっぺんでは金色の星がキラキラと輝いていた。金色の星と晴を見つめながら、静彦はそうか、もうすぐクリスマスか、と口の中でもごもごと呟いた。
日曜日のイオンショッピングセンターは混んでいた。老若男女で溢れかえっているが、どちらかというと小さな子供と一緒の若い親子連れが多い。12月なので、館内には楽しげなクリスマスソングが鳴り響き、至る所に赤と緑が多めなクリスマスの装飾が施されていた。
静彦の隣を歩く帆南と晴の表情も心なしかいつもよりも輝いて見える。
何がクリスマスだよなぁ、と静彦は思う。静彦はクリスマスにいい思い出がなかった。一番印象に残っているのは小学4年生のときのクリスマスプレゼントだ。目を覚ますと枕元にクリスマス用の赤い包装紙に包まれた野球のボールとキャッチャーミットが置かれていた。サンタには最新のゲーム機とゲームソフトをお願いしていたというのに。赤い包装紙を破くときのワクワクするような高揚感と中身が明らかになったときの何とも言えない怒りの感情を今でも思い出すことができる。目の前では熱狂的な中日ファンの父親が歯を剥き出しにして笑っていた。サンタの正体に気付いた瞬間だった。
それ以降もクリスマスにはろくな思い出がない。両親が大げんかをして父親が家を出て行ったのもクリスマスイブの夜だった。テーブルに並んだ両親の分のローストチキンも食べようとしてお腹を壊し、以来ローストチキン恐怖症になってしまった。父親はそれきり家には戻ってこず、両親はいつのまにか離婚していた。静彦自身も学生時代クリスマスイブに約束していたデートをすっぽかされたり、数年前は買ったばかりの車に乗っていたとき突然飛び出してきた車に衝突されたり、とにかくいい思い出がないのだった。
「ねえ、これどう? 似合うかな?」
レディースウェアを扱うショップの前で帆南が赤っぽいニットを胸に押し当てて聞いてくる。
「似合う。とても似合う」
「心がこもってないなぁ」
静彦は本当に思ったことを言っただけなのに帆南は頬を膨らませた。
「いや、本当に似合ってるよ。帆南が着るために作られた服だとさえ思うよ」
「それは言い過ぎだよ」
そう言いながらも帆南は鏡に向かって服を当てたままポージングまでしてみせ、満更ではない様子だ。
「ねえ、晴はどう思う?」
そう振られた晴はというと、子供用のマネキンを熱心な眼差しで見ている。赤いニットカーディガンを羽織った女の子のマネキン。ワンポイントのリボンがついていて可愛らしい。
晴、ともう一度帆南が呼びかけて、ようやく晴はマネキンから目線を外した。
「赤じゃなくて黄色の方がいいよ」
晴は帆南を一瞥するなり、言った。帆南が色違いの黄色いニットを胸に当てると、確かに帆南の顔には黄色の方が似合う。
「晴の言う通り、黄色の方がいいな」
静彦が言うと、帆南は怒ったように頬を膨らませた。
「もう、さっきは似合ってるって言ったくせに」
晴は難しい子供だ。静彦が晴と一緒に暮らし始めて半年程が経とうとしているが、まだ本当はどういう子供なのか理解できていなかった。そもそも口数自体が少ない。そのくせ口を開くと真理をついた一言を突然言ったりして、賢い子供であることは明らかだが、子供としてのかわいさには欠けていた。口数が少ないのは突然家に居着くようになった静彦に警戒心を抱いているせいかとも思ったが、帆南の話によるとそうでもないらしい。前の父親と住んでいた頃から晴はそんな感じだったという。
前の父親というのが問題の人物だった。帆南が働いていた会社の上司だった男で、帆南と結婚する前までは仕事ができて頼りがいのある男だったのに、結婚した途端束縛の激しいDV男に変貌した。気に入らない事があると帆南や晴に手を上げることもあったという。晴が顔に平手打ちを受けたとき、帆南は反撃してフィットネスジムで習った渾身の回し蹴りを食らわせ、そのまま逃げるように家を出た。離婚するまでもすったもんだがあったようだが、もう済んだことと帆南は多くを語ろうとしない。男の方は再婚したらしく、今ではその影がちらつくこともなかった。
静彦と帆南の出会いは、静彦が店長を務めるドラッグストアの店内だ。帆南がビューティーパートナーという化粧品担当の職種に応募してきて、その面接を静彦が担当した。帆南は化粧品関係の仕事は未経験で他に経験者からの応募もあったのだが、静彦は自分の一存で帆南を採用した。小学生の子供を持つ一児の母といっても、二十歳で結婚し子供を産んだ帆南はまだ若く、三十代後半で独身の静彦にはとても魅力的に感じられた。店長の好みなんでしょ、とパートからは勘ぐりを入れられたが、事実なので何も言い返しようがなかった。
静彦は帆南に懇切丁寧に仕事を教えた。2人の仲は急接近し、静彦がアパートの壁が薄くて隣のカップルの喧嘩がうるさいと文句を言うと、「それなら一緒に住む?」と帆南に言われ、同居生活が始まった。半年前のことだ。
イオンの館内を歩くのにも疲れ、スターバックスで休憩することにする。休日昼間のスターバックスはレジ前に入口外まで続く行列ができていて、注文するだけで一苦労だ。だがテイクアウト利用が多いのか席は割と空いていて、4人がけの席の一つに陣取る。静彦はドリップコーヒーを、帆南と晴はクリスマスシーズン限定のフラペチーノを頼んだ。帆南が甘すぎると言って静彦のコーヒーに口をつけ、静彦は代わりにフラペチーノを少し飲む。フラペチーノはコーヒーと一緒だとより美味しく飲める。そんな発見ができたのも帆南と付き合うようになってからだった。
「晴は、サンタさんに何頼むか決めたのか?」
静彦はなるべくわざとらしくないよう発声したつもりだったが、その声は少し震えた。帆南は小さく鼻歌を歌いながら黒板にチョークで描かれたクリスマスアートを見ている。
「決めたよ」
晴はフラペチーノを早々と飲み干してしまってからそう言う。
「へえ、何?」
「静彦には言わない。言ったら叶わなくなるから」
「……ああ、そう」
願い事は言った方が叶いやすくなることもあるんだぞ、と思うが言わない。静彦は小学4年生のとき母親にそう聞かれて欲しかったゲーム機の名前を答えたはずだった。その願いは叶わなかった。
サンタクロースの仕事は簡単じゃない。静彦は世界中の子供たちにプレゼントを届ける白髭のサンタに、今更ながら尊敬の念を抱いた。
帆南は結局先ほどの黄色のニットを含めた冬服を幾つか購入し、消費欲を満足させたようで、そこからは晴が欲しいものを探るために時間が充てられた。
おもちゃ屋、家電売場、子供服売場、雑貨屋。晴は普通の子供のように分かりやすい反応を示さない。これが欲しいと駄々をこねることもない。前の父親はちょっとでも意に沿わないことがあると怒ったというから、そのせいでそんな風になったのかもしれないし、元からそういう性格なのかもしれない。よく分からないが、分かりやすい反応がないからこそ、静彦は晴の横顔を観察するしかなかった。
男の子にしては白い肌、長い睫毛、初めて会ったとき性別を聞かされていなかったせいで女の子かと思ってしまい、晴ちゃんと呼んで帆南に怒られた。
「ちゃんじゃなくてくん。男の子なのよ」
だから子供は嫌いだった。男か女かの区別だってろくにつかない。うるさくて、すぐに走り回る。店で天井まで届くような長脚立を使ってポスターを設置する作業をしていたとき、店内を走り回っていた子供に衝突されたことがあった。不安定な姿勢のまま落下し、世界が回転した。運良く足から落下し、奇跡的に怪我はしなかったのだが、あの時の恐怖は未だに覚えている。元々子供は嫌いだったが、さらに嫌いになった瞬間だった。
子供なんて一生持つつもりもなかった。ただ、愛した人に子供がいただけ。その子供をじっと見ていると、子供は不愉快そうに静彦を見返してきた。
「何、ずっと見てるの。気味悪いよ」
晴は、連れてきたゲーム機売場でつまらなそうにゲームの群れを見ているところだった。
「何でもないよ。疲れたな。もう帰るか」
静彦の言葉に、晴は大人しく頷いた。
晴がもっと分かりやすい子供だったら良かったのに。晴が欲しいものはこれだと声高に叫ぶ子供だったら良かったのに。
綺麗に眠る晴の寝顔を見つめながら晴彦はそう思うが、もし晴がそんな子供だったら静彦は今頃耐えられなくてこの部屋を抜け出していたかもしれない。
晴は晴でいてくれて良かった。ただ晴が本当に欲しいものが何なのか分からないだけだ。最新のゲーム機売場に連れて行っても晴はつまらなそうだった。だがそれは元より分かっていたことではあった。休日、静彦が1人ゲームに興じていても晴はほとんど興味を示さなかった。遠慮しているのかと強制的にやらせてみたこともあったが、明らかに目が死んでいて、いたたまれなくなってすぐに晴を解放した。
「なぁに浮かない顔してるのよ」
ダイニングテーブルの向かい側に座る帆南がジャスミンティを飲みながら言う。
「サンタクロースって大変な仕事だなぁって思ってさ。誰かが本当に欲しいものをプレゼントするって、そんな難しい仕事はないよ」
静彦がぼやくと、帆南は笑う。
「そんなに大げさに考えなくていいんだよぉ。前の旦那なんて本当いい加減だったんだから。晴が2年生のときのクリスマスプレゼント、サッカーボールだよ。あの晴がね、そんなので喜ぶ訳ないのに」
「サッカーボールか……」
静彦が小学4年生の時にもらった野球セットのプレゼントと似たようなものだった。あの頃の親と同じような年齢になった今、しかし静彦にはその時の親の気持ちも少しは分かってしまうのだった。
確かにあの時の静彦が欲しいのは最新のゲーム機だった。それが手に入れば心の底から大喜びしたことだろう。ただ、あの頃静彦には友達が少なく、いても同じように室内でゲームをする友達ばかりで、外遊びというものをほとんどすることがなかった。親としてはそんな静彦が心配だっただろう。やはり子供は外で元気に遊んだ方が健康に育つ。あの野球のボールとミットには、父親のそんな願いが込められていたとも、今なら分かる。
「晴の友達は女の子ばっかだし、女の子がするような遊びが好きだし、まあ前の旦那はそれが気に入らなくて晴に手をあげたんだけど」
帆南から聞いたことがあった。晴の前の父親は、男は男らしくという少し古い考え方のある男で、晴が女の子のような遊びをするのを嫌がったという。晴が平手打ちをされたとき、晴は帆南の化粧品を自分自身に使って遊んでいたそうだ。それを見た父親が気持ち悪いことをするな、と平手打ちをしたのだった。
「帆南はどうなんだ? 晴にもっと男の子らしくなって欲しいと思う?」
「私は……、晴があの子らしく幸せに育ってくれれば、それでいいよ」
帆南は、母親の顔で晴の寝顔を見つめてそう言った。
「そうだな」
それが1番だな、と静彦は心の中で呟いて、同じように晴の寝顔を見つめた。サンタクロースの苦悩も知らずに、晴は穏やかな寝息をたてながらすやすやと眠っていた。
12月21日。この日は静彦にとってクリスマスイブ前の最後の休日だった。帆南は仕事で店にいて、晴は学校に行っている。晴が学校から帰ってくるまでが勝負だ。それまでに晴の誕生日プレゼントを買わないといけない。
静彦はイオンショッピングセンターを1人ウロウロとしていた。あまりにもウロウロとしているせいで、おもちゃ売場の女性スタッフが怪しんで静彦をチラチラと見るほどだった。
静彦は女の子用のメイク道具セットを何度か手に取り、また戻すということを繰り返していた。晴は確かに帆南の影響なのかメイクに興味を持っているようではあるが、だからといってこんないかにも女の子用のクリスマスプレゼントを贈っていいものだろうか。これをもらって晴は素直に喜べるだろうか。静彦はそこのところがどうしても確信が持てず、一度おもちゃ売場を離れた。
晴と一緒にイオンショッピングセンターに来たときのことを思い出す。あのときの、晴の横顔。
静彦は、レディースウェアを扱うショップの前を通り過ぎようとしたところで、ふと足を止めた。赤いニットカーディガンを身につけている女の子のマネキン。あのとき、確か晴はこのマネキンを熱心に見ていた。
これを晴が着たら似合いそうだな、とふと思った。リボンがついているのだから女の子用であるには違いないが、晴にはきっと似合うだろう。
スターバックスでの会話も思い出す。あの時、晴はサンタに頼むものはもう決めたと言っていた。ということは、それ以前に見たものの中に答えはあるはずだ。この店に最初に入ったのはスターバックスに入る前だった。
晴が欲しいのはこの赤いニットカーディガンである可能性が高い。静彦は考えるのに疲れたせいもあり、そう結論づけて店員を呼び止めた。
「ねえ、静彦」
12月23日の夜。静彦が風呂上がりソファの上でくつろいでスマホをいじっていると、晴に声をかけられた。
「クリスマスプレゼント、もう決めた?」
その言葉に、静彦は飲んでいたハイボールを吹き出しそうになる。
「ク、クリスマスプレゼントって何だよ。クリスマスプレゼントはサンタさんが届けてくれるものだろ」
「僕のじゃなくてお母さんのだよ。……もしかして、何も用意してないの?」
晴にじっと見つめられ、静彦は固まる。晴のプレゼントにばかり気をとられて帆南のクリスマスプレゼントに関しては完全に失念していた。
「ったく、駄目だなぁ。そんなんじゃ、お母さんに逃げられるよ」
「やっぱり、クリスマスプレゼントあげた方がいいかな」
「当たり前だよ。前のお父さんはあんな人だったけど、お母さんへのクリスマスプレゼントを欠かしたことはなかったよ」
「そうなのか……」
静彦は途端にソワソワとしてくる。晴へのクリスマスプレゼントはしっかりクリスマス用の赤い包み紙で包装して押し入れの奥の方に入れてあるが、帆南のプレゼントになりそうなものは家中探してもどこにもない。明日仕事終わりに買う時間はあるだろうか?
「それなら、僕にいい考えがあるよ」
「いい考え?」
晴は静彦の耳元に口を近づけ、ごにょごにょと囁いた。
12月25日。クリスマスの朝。静彦はその日、休みだった。普段なら休みの日は疲れをとるため遅くまで寝ているものだが、この日は特別な朝なので早くに目覚める。というか昨夜は初サンタとしての任務に気が張りすぎて満足に眠ることができなかった。お陰で寝不足である。顔だけ洗って、ベッドに入り直し、あとは晴が目覚めるのをそわそわと待つ。帆南はいつも朝が早いのでもうすでに起きていて、小さく鼻歌を歌いながら朝食の準備をしていた。
午前7時過ぎ、晴の掛け布団が動き出し、晴はむくっと起き上がった。晴もクリスマスの朝ということで多少気が張っているのか、いつもよりも目覚める時間が早い。晴は、起き上がるなり枕元を見て、そこに赤いクリスマスの包み紙があることを発見した。
静彦は晴のその動きによって自分も目覚めた風を装って目を擦りながら身体を起こす。
「お、サンタさん来たみたいだな」
下手くそな芝居で晴に声をかけるが、晴は赤い包装紙を剥がすのに夢中で気付かない。やがて包装紙の中から静彦がイオンショッピングセンターで買った可愛いリボンのついた赤いニットカーディガンが姿を現した。
その瞬間の晴の顔を見る。晴は一瞬びっくりした表情をしたが、すぐに目を輝かせてそのニットカーディガンを広げた。
そして静彦は帆南に視線を移す。帆南はプレゼントというよりも、晴の顔を穏やかな輝いた表情で見つめ、笑っていた。
笑顔の子供と、それを見つめる母親。それは、美しい光景だった。その光景をずっと見ていたいし、その光景の中で自分も笑っていられたら何て素敵だろうと静彦は素直に思った。その子供が自分の血を分けた子供じゃないことなんて、些細な問題に過ぎない。
静彦は布団から立ち上がり、昨夜タンスの奥に隠していた箱を取り出した。帆南に近づいて、箱の中から出したものを差し出す。
小さな、指輪。
「帆南、俺と結婚してくれ」
帆南の目が、揺れながらその指輪を捉え、それから真っ直ぐに静彦を見た。
プロポーズしちゃいなよ。お母さん喜ぶよ。あのとき、静彦は晴に言われた。いつかとは考えていた。でも、晴の言う通り、いつかは今、なのかもしれなかった。
「……いいの、私なんかで」
帆南が、ちょっと口を尖らせてそう言う。
「いいに決まってるだろ」
静彦はそう言って、帆南が差し出した左手薬指にそっと指輪をはめた。サイズはぴったりだった。
「味気ないけど、これはサプライズ用のリングだから。ちゃんとしたやつは今度一緒に買おう」
帆南は微笑みながら頷いた。
コホン、と咳をする声が聞こえて静彦が首を傾けると、晴が赤いニットカーディガンを着て立っていた。
「どう、似合う?」
想像通りだった。
「すごく、似合うよ、晴」
帆南が言う。上質な赤が晴の白い肌によく映えていた。飾りのリボンも、晴が身につけると全然変じゃない。
「クリスマスプレゼント、それで良かったか?」
不安になって静彦はそう聞いてしまう。
「良いよ。サンタさんに頼んだとおり。お母さんのとびきりの笑顔が、僕がサンタさんに頼んだクリスマスプレゼントだったから」
晴はそう言ってニッコリと笑ったのだった。
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