ツン×デレ
@bokura150
ありふれた街の、ありふれた物語。
東條綾乃。
何の変哲もない、ありふれた名前だ。この街にあと数十人はいそうな、そんなどこにでもある名前。十数年前、流行に乗った親がつけたとしか思えないような、ごくごく一般的な三文字。
ふと、声に出してみる。ア、ヤ、ノ。口を二回小さく開き、最後に舌を上の歯茎につける。この上なくシンプルで、わかりやすい唇の動き。気軽に呼びたくなるような、三つの軽やかな音の響き。
人々が行き交うスクランブル交差点で誰かがその名前を口すさんだとしても、誰も気にとめないだろう。でもきっと僕だけは気づいて足を止める。そんな自信がある。他人にとってはどうでもいい音の羅列だとしても、僕には特別な意味を持った旋律だ。
おびただしい数の思い出と、記憶と、感情が、その中に秘められているから。
きっと、どんな人にもそんな「特別な音」があるのだと思う。膨大な情報の間を駆け巡り、その人の無意識に働きかけるように現れる魔法の言葉。あまりにも日常すぎて口をつぐんでいるだけで、誰もがそんな合言葉を心の中に握りしめている。自分だけの宝石箱を開ける銀色の鍵を、胸の内に大事に隠している。
三年前気になって読んだ本の内容は、風変わりな男の子と普通の女の子が織りなす淡い恋物語だった。僕は割と面白く読んでいたのだが、著名な小説家たちの評価は辛く、「単調な男女の恋愛模様を、まるで世界を揺るがす大事件のように描いている」と酷評されていた。
あまりの評価の悪さに苦笑したものだが、振り返るとあまりにも当たり前のことを指摘していたように感じる。日々僕らの周りで起きる出来事なんて、世界からみれば退屈で、ちっぽけで、取るに足らない代物だ。この広い地球のどこかで誰かが笑い、泣き、喜び、悩んでいたところで、変わらず地球は回っているだろうし、全人類が破滅に陥ることもない。
でも僕たちにとっては、「繰り返されるたわいのない生活」。それが人生のすべてであり、世界であり、宇宙なんだ。楽しいときは地球全体が温かな陽ざしに覆われているように感じるし、絶望しているときは数秒で世界が消えてなくなるように感じる。
東條綾乃。彼女という存在は、僕にとっての人生であり、世界であり、宇宙であった。他人からしたらどうでもいいような出来事の連続だったのかもしれない。でも、彼女と紡いだ時間の束は、まぎれもなく僕を形作る大切な因子だった。彼女がいなければ僕は砕け散り、白い灰となって空気中を永遠にさまようことになるだろう。
それは、彩でも、綾香でも、彩乃でもありえなかった。
僕にとっては、東條綾乃。彼女しかありえなかった。
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