第10話 禁忌
カフェで待ち合わせた
「私さ」
コーヒーカップを持つ手が少しだけ震えている。
「私、家を出たほうがいいかな」
結子は下を向いたまま、小さな声でつぶやいた。
「一人暮らしするつもりか」
「うん」
「お父さんもお母さんも許さないだろうな」
父も母も、娘が結婚前に一人で暮らすことをよしとしない人間だった。特に母親は、若い女の子が一人で暮らすなんて危険なことはよくないと、常日頃から主張していた。一人暮らしの女性を狙った犯罪も多く、そのようなニュースに出会うたびに結子に言い聞かせていたものだった。
「それはそうだけど、このままじゃ」
「このままじゃ、なんだよ」
「このままだと」
「なんだよ」
言いたいことは、痛いほどわかる。このままでは、抜き差しならないことになる。
「このままじゃ、私たちおかしくなっちゃうよ」
結子はぼんやりと手元を眺めている。彼女の手元を、真実もまた見つめていた。右手の薬指に、真実と揃いの指輪が光っている。真実は静かに手を伸ばして、結子の指先に触れた。結子は何のためらいもなく、真実と手をつないだ。
「どうして拒否しないんだ」
「何を」
「どうして俺が触っても、拒否しないんだよ」
「だって」
「このままじゃおかしくなるんじゃなくて、もうおかしくなってんだろ」
結子ははっとした表情で、急いで手を引っ込めようとした。しかし真実は彼女の手を離さなかった。
「離してよ、誰かが見るかも」
「見ねえよ」
「うちの駅前だし、ここ」
「もう関係ねえだろ、そんなの」
そっと手を離して、真実はコーヒーに口をつけた。まだあたたかい。店に入ってきてから、まだ15分も経過していなかった。
真冬の夕方は、すぐに真っ暗になる。窓の外は見えず、真実と結子が向かい合って座っている姿がガラスに映っている。店の中の人は皆、互いに語り合うことに忙しい。むしろ窓の外を知り合いが通ったら、偶然にも手を触れあっているところを目撃されたら、怪しまれる可能性は十分にある。
「俺が出ていくよ」
結子は顔を上げて、真実の目をじっと見つめた。
「いいだろ、俺が出ていけば」
「でも、あんたはまだ学校が」
「バイトでもなんでもすりゃなんとかなるよ」
「これから忙しくなるでしょ、教育実習あるし」
通っている大学、勉強している内容、年度が明けたら始まる教育実習。いずれ迎える卒業、そして先のこともわからないがしなければならないと思われる就職。真実は自らに備えられている道が、何もかも無意味なことに感じられてきた。みんながやっていること、みんながしなければならないこと。父もやっていて、母もやっていて、姉もやっていて、あとは自分がやるだけ。そうすれば家族全員が無難な大人に仕上がり、危険なことは何もない。誰からも後ろ指をさされることもなく、目立つこともない。真実は目立ちたいと思ったこともないし、他と違う道を歩みたいと熱望したこともなかったが、今は目の前の道がどしようもなく困難で苦痛なものに思えてならなかった。言ってみれば、保守的な、人生だ。
「ゆい」
静かにカップを置いて、真実は低い声で呼びかけた。
「ゆいは、怖がりだよな」
「なによ、突然」
「こんなことになって、すごく怖いだろ」
結子はひどく嫌な表情を見せた。怖がりと断定されて、プライドが傷ついたのかもしれないと、真実は想像した。
「そんなことないわよ」
「強がるなよ」
「本当にそんなことない、怖いわけじゃないのよ」
「俺には怖がってるように見えるけど」
「怖いのはまさみのほうじゃないのかしらね」
意外な返答に、真実は首を傾げる。
「私は怖くなんかないのよ。前は怖かったけど。昨日で怖くなくなったの」
昨夜のことを思うと、真実は胸が疼き、思わず目を細めた。
「このまま、2人で逃げてしまったっていいのよ、私は」
「おい」
「いいのよ、私はね」
真実は、あまり信じられなかった。結子は怖がってばかりいると思い込んでいた。そして自分が彼女を怖がらせているのだと。
「俺も怖くないよ」
何がだ。自分自身に問う。何が怖くないのか。それとも、やはり怖いのか。そもそも、何が。結子は真実をじっと見つめている。
「怖くないんだよ、別に。ばれなければ」
「ばれるのは、怖いのね」
「いや、普通は怖いだろ」
「別に」
眉をひそめて結子を見ると、微かに笑っている。
「いざとなると、女は肝が据わっちゃうのよね」
コーヒーを飲みながら、結子はやはり笑っている。真実の好きな、穏やかな微笑みだった。
「怖くないのよ。まさみに抱かれるのだって」
真実は、どきりとした。確信をつかれた気がした。結子を手に入れて、どうしたい。抱きしめて、キスをして、そしてどうしたい。お互いにもう幼児ではない。その先に何があるのかわかっていて、それでもうまく言葉にできないこと。言葉にすることが、少しばかりはばかられること。
「ねえ、もう、行こうか」
「え、うちに帰るのかよ」
「違う」
結子の顔から、微笑みが消えた。
「2人きりになれるとこ、行こう」
ぽかんとしている真実に、結子はさらに言った。
「行こう。私が怖がってなんかいないこと、教えてあげる」
電車で2駅先の盛り場にあるそのホテルは、ひどくきれいで明るかった。真実も結子もこのようなホテルに来たことがないと言えば嘘になる。互いの恋人とつかの間の時間を過ごすために、ほんの数千円を使ってはどこか気まずい思いで帰ってきたものだった。そして今夜、互いの隣にいるのは、今までのどの相手よりも近しく、どの相手よりも長い時間をかけて愛していて、どの相手よりも禁じられた存在だった。
結子はコートを脱いでハンガーにかけ、無言で真実のコートも脱がせた。
「まさみのコート、重いのね」
ハンガーにかける手つきが鈍くなる。男物の服は少し重い。
「そうかな」
「男の服だもんね、当たり前よね」
真実はぼんやりと姉の姿を見ていた。真っ白のセーターにブラウン系のチェックのスカートが似合っている。こんな場所に、俺たちは何しに来たのだろう。こんな場所に。わかっている。盛り場の奥にあるたくさんのホテルの一室。薄い壁の向こうから、知らない人の声が聞こえてくるような気がする。
「なにをぼんやり突っ立ってるの。座って」
結子に言われ、真実はベッドに腰かけた。結子もまた真実の隣に腰かける。結子の小さな手が伸びてきて、真実の頬に触れた。
「ゆ……」
真実の唇に結子のあたたかい唇が押し当てられる。微かにコーヒーの香りがした。結子の匂いが押し寄せてくる。ほんのわずかなコロンと、化粧品の匂いと、結子本人の匂い。その匂いに埋もれたくて、真実は結子を抱き寄せた。誰も見ていない。ここには二人以外、誰もいない。誰にとがめられることもない。
「ゆい……」
結子の耳元でその名前を囁く。小さなピアスが光る耳たぶに、そっと指先で触れる。指で触れて、唇を寄せた。
「まさみ」
「うん」
「まさみ……好きよ」
結子の細い指が真実の髪をふわりと撫でる。何度も撫でて、髪や、耳や、首筋に、指先のあたたかさを感じた。
真実は夢の中にいるような気分になった。それでも時折、頭の中にちらちらと自宅のリビングや庭、両親の顔が浮かんでは消えた。
「……ゆい」
唇を離して、身体を少しだけ離す。
「こんなことして、本当にいいのか」
「やっぱり怖いのね」
「そうじゃない」
結子は答えずに、真実の唇に噛みついた。舌が入ってくる。甘くて苦い、真実の望んだ味だ。
「ゆい」
「まさみと別れる方が、私は怖いの」
何度も何度もキスを繰り返して、2人はその感触に慣れた。互いの味に慣れた。子どもの頃から知っているはずの匂いが、すぐ間近にあると意外にも知らない匂いだった。
「別れるなんて」
真実は結子の匂いを全身で感じながら、結子の細い身体を抱きしめる。別れるなんて、どうしてそんなことを言うのか。一生、そばにいたいのに。誰にも渡したくないのに。
「まさみ、家から出ちゃったら、そのままいなくなるような気がする」
「なんで」
「あんたって思い詰めるから、自分だけで勝手な結論出して、俺は消えるとか言いそうだから」
心の底で密かに考えていたことを炙り出されたようで、真実は少し震えた。そうしようとしていた。このまま出て行って、姉の前から姿を消してしまおうかと。
「だから、抱いて」
結子は真実の手を取って、自分の胸元に押しつけた。柔らかすぎる感触に、思わず手を引こうとしたが、それは許されなかった。
「これはまさみのものなのよ。触って」
「いや、でも」
「あんた以外の誰にも、もう触らせたくないのよ。お願い」
「ゆい……」
「お願い、触って。抱いて」
結子の視線は驚くほどに強かった。彼女のこれほど真剣な表情は、真実は見たことがなかった。その瞳には、微かに涙がたまっている。
「泣いてんのかよ」
結子はそれには答えず、真実に抱きついた。背中に回された手は、もうためらいを感じさせない力があった。真実はじっと目を閉じて、目を開く。心臓が口から飛び出しそうだった。自分がこれからしようとしていることが、いいことではないとわかっている。けれども、どこの誰が審判を下せるのか。神か、仏か。そんなものは信じていない。知ったことではない。ただ、目の前の結子が、ほしくてたまらなかった。
「……絶対、ゆいの前から消えたりしないから」
「約束してくれる?」
「約束するよ、だから」
真実は、大きな手を結子の腰にそっと回した。
「ゆいの中に、入りたい」
白いシーツの海に倒れこんでいく結子が、ほんの少しだけ笑ったのを、真実が見ることはなかった。
長い時間が経過したように思ったが、時計を見たら1時間半ほど経っただけだった。真実はぼんやりと天井を見上げ、つい今しがた自分たちに起こったことを、遠い昔のことを思い出すように考えていた。
「まさみ、後悔してるの?」
結子が目を閉じたまま、真実の胸の中で呟く。
「いや、まさか」
「後悔して、ゆいの前から消える、とか言わないでしょうね」
「言わない、絶対」
言いたくても、言える自信はない。たった一度抱いただけで、真実は結子の身体に夢中になった。結子もまた、信じられないほどの充足感に包まれていた。
「まさみ……もっと」
結子は真実の胸に手を回して、身体を押しつけてくる。ため息が甘い。しかし真実は時間が気にかかっていた。
「俺もだけど、もう結構遅いよ」
「何時なの」
「10時前、当然だけど夜の」
「家、出てくるときに何て言って出てきたのよ」
「ゆいと飯食ってくるって」
「ばかね、なんで友達んちに行くとでも言わなかったのよ」
「だってまさかこんな……」
「ばか」
結子が真実にキスをする。小鳥のような小さなキスが、深く激しい大人のキスになる。互いの唾液の味までも覚え、愛おしく感じる。もっと、もっとほしい。骨の髄までほしい。暗い穴に入っていくみたいに、真実はもう一度結子の身体をベッドに押しつけた。触れて、舐めて、齧ってを繰り返し、とろけるような心持ちになる。
どうしてこんなに心地よいのか、大して多くの経験があるわけではないのに、他の誰とも違う気がする。この時間が終わらないでほしいと心から感じた。時間など止まってしまえばいいと。
「ゆい……好きだ……」
「……う、ん」
「離れるくらいなら、殺す」
「私も、そうする」
してはいけないことをしているのだと、いつの間にか忘れた。この世で唯一の人に出会えたのだと、喜びを感じるほどだった。心も身体もすべてがぴったりと重ねられる相手に出会えたことが、どうして悪いことなのかと思った。ジグソーパズルの最後のピースのように、鍵と錠前のように、これでなければ間違っているという存在だ。これでいい。この相手がいい。これでなければいけない。何が悪いのか。もう誰にも邪魔はさせない。誰の文句も言わせない。
「ゆい、愛してる」
結子は真実の目を見つめて、こくりと頷く。紅潮した頬が愛らしくて、真実はその頬に口づけた。
「私も、愛してる。まさみじゃなきゃ嫌だ」
互いを互いの心と身体で縛りつけ、意思は弱り、家に帰る気持ちもなくなった。2人が我に返ったときには、既に早朝になっていた。
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