愛しい君に恋をしたい

冠つらら

愛しい君に恋をしたい

 電車に揺られながら、今日の余韻に浸っている。

 ニヤニヤした顔を、ちらちらと見られた気がしたが、そんなのどうでもいい。

 むしろ、この幸福感を分けてあげたいから、もっと私を見て。もうそんな気分だ。

 膝の上に置いたトートバッグを見て、また一段と笑みが広がる。どうしたって抑えられない。

 だって私は今日、神を見てきたんだから。

 神といっても、一人じゃない。四人いた。多神教になる。

 いや…そんなことを言っていたら、本当に信仰している人たちに失礼かもしれない。ちょっと浮かれすぎたかも。

 私は自分を戒めるように咳払いをする。


 とにかく、私、八牧杏莉やまきあんりは今、幸せなのだ。

 私の推しているダンスボーカルグループのライブの帰りだからだ。このライブのチケットを手に入れるのは、そこそこ大変だった。

 チケットが手に入りにくくなったのはここ二年ほど前から。推しが人気になっていくのは嬉しい。だけど、同時に寂しいという気持ちもわかる。これは、ファンの勝手な我儘なんだけど。

 推しが飛躍していくことを寂しがるなんて、当人たちにしてみたら知ったこっちゃないだろう。

 うん。私も、活躍して欲しいと思っている。彼らは最高だ。彼らのパフォーマンスを世界中に見せびらかしたい。ほら、こんなに素晴らしいのだぞ。

 私は、今日のライブを思い出し、胸を躍らせる。

 ステージの上にいる彼らの記憶を、興奮で消してしまわないように何度も繰り返す。

 ああ、もう、彼らのことが愛おしくてたまらない。



 大学が休みのある日、私は段ボールを抱えて街を歩く。潮風の香りを仄かに吸い込み、深呼吸をした。やっぱりこの町が大好きだ。私は、この少しノスタルジックな地元の空気に包まれ、意気揚々と目的地まで向かう。

 白い家が見えてきた。ここが今日の目的地。


「城之内さーん!!」


 段ボールを抱えたまま、私は扉の前で叫んだ。っていうか、普通はインターフォンを押すよね。


「はーい!」


 だけど、ちゃんと返事が聞こえてくる。年配の、柔らかい声。


「杏莉ちゃん、来てくれたんか?」

「梨のお裾分けだよ、おじいちゃん」


 抱えた段ボールをよいしょと上げて、城之内さんが出てくるのを待つ。

 城之内さんは近所のお祖父さんで、幼いころから交流がある。優しいお祖父さんで、私のことを昔から可愛がってくれる。城之内さんは三年前にお祖母さんを看取ってから一人で住んでいる。

 お子さんがたまに顔を出しているけれど、お孫さんはいないようだ。

 だから、私のことも可愛がってくれるのかもしれない。

 でも、城之内さんだけではなくて、私の母が介護職に就いていたこともあって、最近は以前よりも近所との交流が深くなった気がする。

 そんなことを考えていると、扉が開いた。


「あ! おじいちゃ…」


 出てきた人物を見て、私は固まった。

 あれ、おじいちゃんじゃない。おじいちゃんは、もっと背が低い。それに、少し背中が丸くなってきているのだ。

 だけど現れたのは、私よりもずっと背が高くて、背筋のピンと伸びた人物。

 ……誰?

 私が目を白黒させていると、その人は私から段ボールを救い上げた。


「美味しそう。ありがとうございます」


 めちゃくちゃいい声だ。私は、思わずぼうっとしてしまった。あれ……この声、聞いたことある?


「おじいちゃん、この方が八牧さん?」

「うん。そうだよ、澄人」


 城之内さんが奥から歩いてくるのが見える。あ、良かった。家を間違えたかと…。え? でもちょっと待って?


「はじめまして、八牧さん」

「え?」


 私は、目を回したまま顔を上げる。きっと勘違いだよね。


「いつもおじいちゃんがお世話になっています」


 …………え!!?


「はじめまして、七戸澄人ななどすみとです」


 えええええええええええええええええええええ!!?

 目の前で清涼剤みたいに爽やかに笑っているのは、明らかに知っている顔だ。

 嘘!? これは夢!? 私、狐に化かされている!?

 口をぱくぱくさせたまま、私は何も言えない。

 だって、当たり前だ…。


「杏莉ちゃん?」


 城之内さんが首を傾げる。ちょ、城之内さん、なんでそんなに冷静なの? 私は、城之内さんに救いを求めるかのような目をしていたと思う。城之内さんはポカンとしているけれど。


「八牧さん? 大丈夫?」


 大丈夫じゃないです。もしかして、これは盛大なドッキリなのでは? 家族の誰かが番組の企画に応募したな?

 なんだ、そんなことなら納得できる。まったく、人の心を弄んじゃって…。

 私は一息つくと、ようやく声を発した。


「あ、あの…八牧杏莉です」

「うん。よろしくね、杏莉さん」


 そう言ってニコッと笑う。え? 可愛すぎない?

 私は、ゆるゆるになる頬をどうにか抑えようとした。こんな顔、テレビに映りたくないし。

 そこで私はハッとした。そもそも今、髪の毛も跳ねまくってるし、ぼさぼさじゃない? ちょっと、そういうことならちゃんと教えてよね。私は家族を恨んだ。


「えっと…あの……」


 そして目の前の男性を見上げる。やっぱりそうだ。まさかこんなところで彼の視界に入ってしまうとは。


「DroiDの、澄人くんですよね?」


 私はどぎまぎしながら言う。そう、DroiDは、私の激推しのダンスボーカルグループだ。澄人くんは、その中でも特に歌唱力が高くて、その伸びるような透明感のある歌声に、私たちファンはいつも感動を貰っている。

 そんな澄人くんが、何故か城之内さんの家にいる。私から梨を受け取るなんて、あり得ないことだ。

 だから、これはドッキリ企画に決まっている。ならば、全力で楽しんでやる。

 私の問いに、澄人くんはまたニコッと笑う。だから、尊すぎるからやめて。


「そう。俺たちのこと知ってくれてるんだ? ありがとう!」


 思わず立ち眩みがした。眩しい、眩しすぎる…!


「はい。あの、いつも歌声に元気をもらっています。こちらこそありがとうございます!」


 だけどここは冷静でいなくては。

 テレビで全国放送されるのであれば、みっともないファンの姿を晒すわけにはいかない。ファン代表として、DroiDの印象を上げることに貢献しなくては。


「ありがとう。そう言ってもらえると、すごく嬉しい」

「ふへへ……」


 思わず気持ち悪い声が漏れる。やめなさい! 私!


「あ、おじいちゃん、杏莉さんにもケーキ食べてもらおうよ」

「ああ、それはいいねぇ」


 澄人くんは城之内さんとお話ししている。城之内さんも仕掛け人なのだろうか、お茶目な人だ。


「杏莉さん、もし時間があれば、ケーキ食べませんか? 俺、買いすぎちゃって…」

「はい。もちろん!!」


 澄人くんは恥ずかしそうに笑う。分かりました。リビングでネタばらしですね。

 私は澄人くんの後ろに続いて城之内さん宅のリビングへと向かう。もう何年も通っているので、まるで自宅のようにくつろげる場所だ。

 しかし今日は違うのだろう。隠しカメラとかあるのかもしれない。そう思うと緊張が高まってきた。


「ちょっと待っていてくださいね」


 澄人くんにそう言われ、私はリビングのソファに座った。城之内さんは向かいに座る。ドッキリ大成功っていう看板を持ってくるのだろう。私は、そわそわとした気持ちで待った。うまく反応できるのだろうか。


「お待たせしました」


 しかし澄人くんが持ってきたのは、美味しそうなケーキだった。安定のショートケーキと、つやつやのチョコレートケーキ。そして、美しい模様の入ったモンブラン。

 どれもすごくおいしそうだ。まだ、ネタばらしじゃないのかな。


「杏莉ちゃん、好きなものをお食べ」

「あ、はい…」


 城之内さんに言われ、私はモンブランを選んだ。城之内さんは苺が好きだし、澄人くんはチョコレートが好きなはず。


「いただきます……」


 遠慮がちにフォークを持ち、私はモンブランを一口食べた。普通に美味しい。


「杏莉さんが来てくれて助かったね」

「そうだねぇ。ケーキ六個を食べきるのは大変だからねぇ」

「あははは、ごめんね、おじいちゃん」

「いや、いいよ。ケーキは大好物なんだ」


 二人は朗らかな様子で話している。本当の孫とお祖父さんみたい。だけど、城之内さんにはお孫さんはいない。二人とも、なかなかの名演技。


「あの梨は、杏莉さんの家のもの?」

「えっ!?」


 突然話しかけられて、素っ頓狂な声が出た。別に気を遣わなくてもいいのに。私は、澄人くんが話しているところを見ているだけで十分幸せなのだ。


「あの梨は、母の実家から…」

「そうなんだ。すごく美味しそうだよね」

「……はい」


 どうしよう。何を話せばいいのだろう。ドッキリに気づいていないふりをするだけでも精一杯なのに。


「杏莉さんは大学生?」

「そうです。一年です」

「じゃあ俺の一つ下だね」

「はい!」


 それでも、澄人くんが笑うだけで心が晴れやかになる。ああ、至福の時よ。


「まぁ俺は大学行ってないけど」

「澄人くんは大学行かなくても、とても立派に活躍してます! 私、尊敬します!」

「……ありがとう」


 澄人くんは私なんかよりも何倍も偉い。私なんて、大学をモラトリアムとしてしかとらえていない。澄人くんにはそんな甘えなんてない。


「杏莉ちゃん、澄人のこと知っていたのだねぇ」


 城之内さんが今更なことを言っている。


「いやぁ、嬉しいね。孫にこうやって会えるのは」

「……孫」


 城之内さん、なかなか演技派じゃないですか。私は騙されませんよ?


「俺もおじいちゃんに会えて嬉しいよ。ずっと会いたかったんだ」


 澄人くんも、またそうやって…。


「またこうやって会えるようになったから、頻繁に会いに来るようにするね。これまでの空白が悔しかったんだ」

「嬉しいことを言ってくれるね」

「母さんもようやく父さんを許したんだ。時間がかかりすぎちゃってごめん」

「いいんだって。澄人のせいじゃないだろう」


 なんだなんだ感動させる系のシナリオか?

 澄人くんは城之内さんのことをじっと見て、凛々しい表情をしている。


「俺にも出来ることはあったはず。でももう、後悔はしない」


 澄人くん?


「おじいちゃん、これからもよろしくね」


 え? すごく真に迫っている。澄人くん、俳優業なんてしてないのに。


「杏莉さん」

「は、はい!?」

「おじいちゃんの傍にいてくれてありがとう」

「……へ?」

「すごく感謝しています」

「…………うん?」


 おかしいな。これはドッキリじゃないの?

 嘘とは思えないほどに気持ちが入っている。すごく心に響いた。あれ?


「…あの、これって、ドッキリですか?」

「え?」


 恐る恐る尋ねた私に、澄人くんはポカンとした顔をする。そんな顔も可愛いね。…って、そうじゃなくて!


「あの、私の家族が応募してきたとか…?」

「…………」


 黙ってしまった。

 澄人くん、きょとんとしたまま黙ってしまった。

 え? あれ? 私変なこと言ったのかな?


「澄人くん…?」

「…ふっ…あはは、ふふっ」


 澄人くんが肩を震わせて笑っている。何がそんなにおかしいのだろう。


「杏莉さん、違う、違うよっ…はははは」

「え?」

「ドッキリじゃないよ。俺は本当にここの孫だよ」

「…え?」


 私の思考が止まった。頭が真っ白になるってこういうことなんだ。私は、何も考えられなくなった。


「ええええええええええええええええ!?」


 そうすると、こんな声が出るらしい。

 みっともなく、私は奇声を上げた。


「じゃ、じゃあ! 隠しカメラは!?」

「はははは、ないよ」

「か、看板とか、スタッフは?」

「いないよ」


 澄人くんはくすくすと笑っている。嘘だ。これは本当に本当の現実なのか!?


「俺の両親、離婚してから不仲でさ。俺は母さんについて行ったから、父方のおじいちゃんに会えなかったんだ。けど、おじいちゃんがここに越してくる前は、よく遊んでもらってたんだ。俺、結構おじいちゃんっ子でさ」

「……ええええ」


 まだ奇声が漏れてしまう。城之内さんを見ると、朗らかに笑っている。城之内さん、それはないよ、教えてよ。


「やっと最近会えるようになったから、今日もお邪魔してたんだ」


 澄人くんは頬杖をついて私のことを見てくる。穏やかな顔。こんな表情見たことない。本当にリラックスしているんだろうな。


「おじいちゃんから杏莉さんのことは聞いてたよ。孫みたいな可愛い子がいるって」

「か、かわ…」


 いや、そういう意味じゃないのは分かってる。だけど、面と向かってそう言われると、照れるのはおかしなことじゃないよね。


「これからもおじいちゃんのこと、よろしくね」

「……はい! 当然であります!」


 人間ってテンパってしまうと、いくらでも恥を上塗りできるんだね。

 私は、澄人くんとのまさかの出会いと同時に、たくさんのものを失った気がする。



 澄人くんと城之内さんは、それからも頻繁に会っているようだ。

 私は、相変わらずDroiDの曲を聞きまくって、ライブ映像なんかを見てオタク活動を充実させている。オタク仲間にも澄人くんのことは言っていない。そもそも、皆、インターネット上の繋がりだし。

 リアルの友達はみんな、他の推しがいる。私は、そのことに今は感謝をしていた。だって気が緩んだ相手だと、興奮して何を言い出すか分からないし。

 私は、今日も澄人くんの歌を聞く。本当にドンピシャの声をしている。唯一無二の、愛おしい歌声だ。

 だけど私は、DroiDの澄人くんが尊いのであって、城之内さんの孫である澄人くんのことは、まるで別人のように見えていた。

 確かに垢ぬけているし、かっこいいのだけれど、そういうことじゃないんだろうな。


 DroiDに出会ったのは、中三の頃だ。

 まだ結成したばかりで、どちらかというとダンスグループのイメージが強かった。しかし同世代でキラキラと輝く彼らは眩しかった。

 度肝を抜かれたのは高校一年の冬だった。本格的に歌に力を入れた頃だ。その歌声に、私は衝撃を受けた。心の奥底まで響いてくるようなその繊細な歌声に、一気に引き込まれた。

 その声は、どんな歌だろうと柔軟に変化して、聞く人にその言葉を届けてくれる。

 辛い時だって、その歌声に救われてきたのだ。

 初めてライブに行ったときは、実在するんだって、心から感動したことを覚えている。

 その時から、メンバーのことが愛しくて、尊くてたまらなかった。もう、表現者として好きなのだ。

 だからまさか、澄人くんがあんな近くにいたなんて信じられない。

 これまでは精々ライブでアリーナに行けた時が最短距離だったのに。

 明日もまた、城之内さんのところへ掃除の手伝いに行く日だ。

 澄人くんは、来るのだろうか。



 「城之内さーん」


 私は城之内さんのことをいつものように呼ぶ。


「はーい」


 返事が聞こえる。この声は城之内さんじゃない。ということは。


「杏莉さん、いらっしゃい」


 最近、黒く染めた髪がひょこっと出てくる。澄人くんだ。


「あの、お掃除の手伝いに…」

「ありがとう。入って」

「お邪魔します」


 私は慣れた様子で靴を脱ぐ。もう澄人くんに逐一驚くこともなくなった。だけど。


「今日はもう掃除終わっちゃったんだ」


 そう無邪気に笑ってくれると、胸がいっぱいになる。


「杏莉ちゃん、いらっしゃい」

「城之内さん、どうしたの?」


 城之内さんの足を見ると、怪我をしているように見える。軽症のようだが、湿布が少し痛々しい。


「張り切りすぎて、ちょっとね…」

「大丈夫?」

「昨日、ご近所さんと体操してたんだ。そうしたら、ひざを痛めたみたいで」

「……そうなんですか」


 澄人くんの説明に、私は眉を下げる。

 城之内さんは私のおじいちゃんのようなものでもある。やっぱり心配だ。


「今日は掃除した後におじいちゃんとドライブにでも行こうと思ったけど、無理そうだから、先に掃除してたんだ」

「なるほど…」


 ちなみに掃除というのは、お風呂やトイレ掃除のことだ。そういった力のいる掃除は手伝うようにしている。

 もちろん城之内さんは遠慮しようとするけどね。


「澄人、私のことはいいから、杏莉ちゃんと行ってきなさい」

「え?」


 私と澄人くんの声が揃った。


「今日はいい天気だよ。勿体ないだろう」

「で、でも城之内さん」


 何を言っているんだ。澄人くんはそこそこ有名人だよ? 一緒になんて出掛けられないよ。私にそんな資格もないし!

 声には出さなくても、心の声で城之内さんに説教をした。


「杏莉さんがいいなら、俺はいいよ」

「は!?」


 私の説教も虚しく、澄人くんはそんなことを言う。


「でも澄人くん、いいの? 城之内さん怪我してるんだし…」

「私のことは気にしないで。大人しくしていれば大丈夫だから」

「…そんな」


 澄人くんと二人で出かけるとか、そんなイベントが発生していいはずがない。


「杏莉さん?」


 だけど、そんな風に小首を傾げられたら、何も言い返せない。


「そうしたら、折角なので、い、行きましょうか…」


 なんてこった。私は笑顔が引きつった。

 澄人くんはお構いなしににっこりと笑う。そのまま私たちは、ドライブに出ることになってしまった。



 澄人くんの車に乗ると、いい香りがした。やっぱこういうところから違うんだよな。


「じゃあ行こうか」

「はい」


 私がシートベルトを締めると、澄人くんはハンドルを握った。うーん、勇ましい。


「澄人くん、どうして城之内さんの提案を受けたんですか?」

「え?」

「私とドライブなんて」


 動き出した車の中で、私は澄人くんに疑問をぶつけた。


「おじいちゃんの言うことは、できるだけ叶えてあげたくてね」

「おじいちゃん想いなんですね」

「まぁ、ずっと悲しい思いさせちゃったから…」

「…優しい」


 ぽつりと呟いてしまった。だめだ、気を引き締めろ。


「だから杏莉さんには本当に感謝してる」

「それは前にも…」

「何度言っても足りないよ」

「……うっ」


 どうしよう。尊さカウンターが破壊されそう。隣にいるのはDroiDの澄人くんではないけれど、その姿も声もそのままなんだから。ふとした時にダメージを食らう。


「どこに行きますか?」

「うーん、どこ行きたい?」

「えっ…と」


 私は迷ってしまった。ここはいわば地元だ。今、行きたいところなんて特にない。


「澄人くんは、この辺まだ慣れないですよね?」

「うん。そうだね」

「そうしたら、定番ですけど海と水族館行きましょう」

「水族館?」

「有名なんですよ!」


 そうだ、澄人くんを案内する体でいいんだ。気持ちが少し軽くなった。


「ペンギンとか見ましょう!」

「ペンギン?」

「可愛いですよー!」


 まぁ、澄人くんの方が可愛いけどね。

 澄人くんは、にこっと笑って同意してくれた。ステージ上のクールなイメージとは違って、この澄人くんはよく笑ってくれる。というか、ずっと朗らかな表情だ。それが少し意外で、私は思わずくすっと笑う。


「楽しみだね、ペンギン」

「はい!」


 澄人くんの安全運転で、水族館にはすぐに着いた。平日なのもあって、道も空いていたのだ。

 水族館の中に入ると、やはり人は少なめだった。内心ほっとした。澄人くん、変装も何もしないんだもん。


「杏莉さん、エイだ!」


 澄人くんは、存外楽しんでくれているようだ。無邪気な笑顔で水槽を指差している。


「澄人くん、水族館とかあんまり来ないんですか?」

「うん。レッスンで忙しくてね」

「そうですよね…」

「だからおじいちゃんのところに来るのは、すごく息抜きになるんだ。杏莉さんにも会えるし」

「…え?」

「あ、杏莉さん、ペンギンだよ!」

「わ! 本当だ!」


 澄人くんはよちよちと歩くペンギンを嬉しそうに見つめる。

 私もつられてそちらを見るけれど、さっき言った言葉、聞き間違いかな?

 私の中で、何かが跳ねた。



 水族館を満喫していると、すっかり夕暮れ時になった。次は定番中の定番、海へと繰り出す。

 シーズンは過ぎているから散歩中の近所の人しかいなかった。

 私はこののどかな雰囲気が好きだった。賑やかな海もいいけれど、こんな海岸も大好きだ。


「水族館、楽しかったですか?」

「うん。すごく。なんだか童心に帰れたみたい」

「それは良かったです!」


 夕陽に照らされてオレンジに波打つ海は、いつも奏でている歌を歌っている。私はその歌もお気に入りだった。


「綺麗な海」

「そうでしょう!」


 私は得意げに笑ってしまう。宝物を褒められているような気分だ。


「いいところだよね、本当」


 澄人くんはそう言って目を細める。眩しいのかな。長い睫が光っていて、透き通っているようだった。


「今度、ライブがあるんだ」

「…知ってます」


 私は当然のように頷く。


「そこでね、俺、新曲を歌うよ」

「……え?」


 ネタばれ? 澄人くん、情報漏洩じゃない? 大丈夫? 私、ここにいてよかったのかな?


「新曲ですか?」


 でも会話は続けないと。


「うん。作詞作曲した曲なんだ」

「すごい! そういうの初めてじゃないですか!?」


 思わず興奮してしまった。落ち着け、オタク。


「ソロ曲でね、挑戦してみたくて」

「…楽しみです! 澄人くんの歌声で次はどんな曲が聞けるのか、いつもワクワクします!」


 ライブに行くこと丸出しの言葉だ。まぁ、もうチケット買ってあるから、行くんだけど。


「ありがとう。…俺、緊張してたんだ、その曲発表するの」

「澄人くんが?」

「初の試みだし、どんな反応があるのかなって。皆の期待に応えられてるのかなって」


 澄人くんは遠くを見ている。私は思わず見惚れてしまった。だって、澄人くん、寂しそうだったから。


「だけど、今日、童心に帰って、初心を思い出した。俺は歌もダンスも好きで、俺の歌で誰かを笑顔にしたいんだって、そんな気持ちを。重圧に負けて、見失うところだった。俺は、人を笑顔にするために頑張るんだって、そう思い出したんだよ」

「澄人くん…」

「そう思ったら、怖くなくなってきてさ。早く皆に聞いて欲しいって思えるようになった」


 澄人くんはとても嬉しそうに笑う。そのまま私のことを、その大きな瞳で見る。


「杏莉さんにも早く聞いて欲しいなっ!」


 ……あれ?

 おかしいな。

 どきどきしてる?


「じゃあ、冷えちゃうからそろそろ帰ろうか?」


 澄人くんが立ち上がって手を伸ばしてくる。


「風邪、引いちゃったらよくないよ、杏莉さん」

「……はい」


 私はその手に引かれるようにして立ち上がった。

 今のは、なんだろう。

 DrioDの澄人くん? それとも…?

 私はその日から、うまく眠れなくなってしまった。



 ライブの日が来た。

 今日の席はアリーナだった。いつもなら絶対に狂喜乱舞している席だ。

 それなのに、どこか弾けきれない。モヤモヤするうちに、会場は暗転した。

 ライブが始まると、皆、DroiDに熱狂した。今日も四人は仕上がっている。素晴らしいと思う。

 ふと澄人くんに目を向ける。やはりそこにいる澄人くんは別人だ。だけど、何かがおかしい。

 何かが腑に落ちないまま、ライブは順調に進行する。

 次はソロの時間だ。一人目、二人目のメンバーが歌い終わり、会場は拍手に包まれる。


「皆さんこんばんは!」


 澄人くんだ。私は、ぎゅっと唇を噛んだ。


「今日は皆さんに新曲を聞いてもらいたくて…」

「キャーー!!」


 会場が歓声に呑みこまれる。私は、その声に酔いそうになった。澄人くんはまた少しだけ話した。そして。


「聞いてください」


 初めて作詞作曲したという曲を歌いだした。尊くて愛おしいその歌声。バラード調のその曲は、その声を最大限に響かせる。

 皆、その声に聞き入っている。私はというと…。

 どきどきどきどき……心臓の音がうるさかった。

 まさか、認めたくはなかった。

 愛おしくてたまらない推したちへ。

 そんな気持ちは抱きたくはなかった。

 どこかで、誰かの懸命な想いを揶揄する言葉を聞いたことがある。

 だけど。


「嘘でしょ…!?」


 思わず漏れた声に、両隣の人が眉をひそめる。

 それすらも気にならないほど、私は自分に驚愕する。

 おかしいのは私だ。

 私は七戸澄人が好きなんだ。



 ライブが終わってからというものの、私はDroiDから少し距離を置いた。

 気持ちの整理がつかない。

 まさか、推しが尊すぎてどちらかというとガチ恋という概念が理解できずにいた私が、そうなるなんて。

 推しとして愛おしい気持ちとは全く違う。

 ただただ澄人くんが気になってたまらない。どきどきして止まらない。

 頭を抱えたまま、私はベッドの上に転がった。

 澄人くんにドン引きされたらどうしよう…。

 下手に知り合いになんてなりたくなかった。

 城之内さん、やっぱりもっと早く教えてよ!



 そんな城之内さんの家が、リフォームすることになった。

 私は母に言われ、その片付けの手伝いをすることになった。母よ、娘は複雑ですよ。

 城之内さんの家に行き、インターフォンを鳴らす。


「はいよ」


 応えたのは城之内さんだ。ほっと胸を撫で下ろした。

 私は段ボールだらけになっている城之内さんの家で、不用品をゴミ袋に詰めることになった。城之内さんは物を大事にする人だ。しかし、今回は思いきっていらないものをたくさん捨てている。


「杏莉ちゃんごめんねぇ」

「いいえー!」


 城之内さんに、私は笑顔を返す。なんだかんだ、城之内さんのことは大好きだ。憎めるはずがない。

 私がせっせと作業をしていると、二階から、どたどたと誰かが下りてくる音がしてきた。


「じいちゃん!」


 嘘!!? 澄人くん!? いるなんて聞いてないよ!?

 聞き間違えようのないその声に、私は分かりやすく動揺した。


「あ、杏莉さん、いらっしゃい! ごめんね、手伝ってもらっちゃって」


 重そうな壺を抱えた澄人くんだ。


「あ、あわわわ」


 何を言ってるんだ、私は。舌がもつれてしまった。


「じいちゃん、この壺いるの?」

「ああ、それはね…」


 澄人くんの不意打ちの笑顔に、私はすっかり舞い上がりそうになっている。久しぶりに見たけれど、やっぱり素敵なのだ。それはしょうがないじゃない。


「杏莉さん」


 いつの間にか、澄人くんが近くまで来ていた。


「はっ!」

「…大丈夫?」

「は、はいっ!」


 私の上ずった声にも、澄人くんは穏やかに微笑んでくれる。…なんてことでしょう。それだけでこんなにも心が躍るなんて。モヤモヤしていた気持ちが、嘘みたいに消えていきそうだ。


「手伝うよ」

「ありがとう、ございます…」

「杏莉さん、前から思ってたけど、敬語じゃなくていいよ」

「え?」

「敬語も可愛くて好きだけどね」


 なんてことを言うんだ。勘違いしたらどうするつもりなの!? 澄人くん!


「えっと…うん、わかった、澄人くん」

「はーい」


 澄人くんは小さく手を挙げた。その仕草は分かってやってるな?


「さっき、じいちゃんが俺に買ってくれてたゲームが出てきたんだ。終わったら一緒にやろう?」

「…え? いいの?」

「勿論」


 澄人くんは軍手をつけて、不用品を分別している。

 その姿を見ていると、やっぱりどきどきどきどきする。でも、同時に視界が明るくなって、心が温かくなる。


「……澄人くん」

「どうかした?」

「…………ありがとう」


 澄人くんは首を傾げている。それはそうだよね。

 これは、私が言いたかっただけなのだ。

 私に歌で希望を与えてくれた。あんなに夢中になれるなんて、まさに夢を見ているみたいだった。

 だけど、その幻想みたいだったDroiDの澄人くんも、目の前にいる澄人くんも、どっちも七戸澄人くんだ。

 きっかけなんて、もうわからない。けれど、確信していることがある。


 私は、あなたに恋をしています。

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