時々、猫のふりをして

遠野 芳織

第1話

 ピンと立った三角耳に、フワフワした短い手足。足取りは軽く躍動的に、それでいて優美に、しなやかに。ユラユラ尻尾を動かしながら、桜の舞う昼下がりの町を悠々と進んでいく。


 どうやら私はいつの間にか、猫になっていたらしい。


「あ、これ夢だ」


 そう気がつくのにそれほど時間はかからなかった。私は猫じゃなくて人間だし、季節はまだ冬で桜も咲いていない。現実世界では今頃、ヨレヨレのスウェットを着た私がだらしなく寝息をたてていることだろう。私は右の前足をちょっと持ち上げ、まじまじと観察した。細やかで柔らかい黒の毛並みが、陽光を浴びてつやつや光っている。すっかり目の下にクマが定着しつつある女の姿から、ふんわりした毛に包まれた黒猫へ。まさに夢のような大変身だ。鏡がないから全身を見ることができないのが悔しい。

 わびしい現実のことを思い出してしまったのは遺憾だけど、幸いなことに夢はまだ続いている。「我が輩は人間である」なんていう事実には目をつむって、もうしばらく猫の姿を満喫しようじゃないか。


 辺りには人が少なくて、車通りもほとんどない。どうせなら道路の真ん中を歩いてみようか? ……いや、さすがに車が来たら怖いな。やっぱりおとなしく端っこのほうを歩こう。

 夢だからか物の見え方や感じ方はけっこう抽象的で、ぼんやりしている。猫はそんなに視力が良くないという話を聞いたことがあるけど、実際のところどうなんだろう。猫にはこの世界がどんな風に見えているんだろうか。そんなことを考えながら、時々休んだり、塀の上に飛び移ったり、自由気ままに散歩を続けた。


 しばらく歩き回ってみたが、猫の身体はなかなか快適だった。驚くほど身体が軽いし、高いところにもスイスイ登れるおかげでいろんな景色が楽しめる。今は桜の枝で一休みをしているので、視界が淡いピンクに優しく彩られていた。上を見上げれば満開の花の隙間から青空が覗き、穏やかな日差しが降り注いでいる。あまりの居心地の良さに、夢の中だということも忘れて居眠りをしてしまいそうだ。


 ここに来るまでに何度か道行く人々が何やら世間話をしているのがうっすら聞こえてきたが、あくびが出るほどにどうでもよく思えた。普段はついつい気にしてしまう些細なことが、この姿だとほとんど気にならない。うん、ずっと猫のままでいるのも悪くないかもしれないなぁ。


 暖かい風が耳元を撫で、花びらをさらっていく。その行方を目で追いかけようとした途端、


「ふにゃぁぁぁん」


 不意に、耳元で猫の鳴き声がした。

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