第5話
5
「無色無受想行識」
先の、受想行識に対して、頭に、色が加わっています。
しかし、色も無く、となっておりますね。
そして、受想行識も無く、と説いておられます。
先に、述べました部分は、実は、無いのだよ。
そうですね。
渡ってゆく人たちには、必要のないもの、ですものね。
「無眼耳鼻舌身意(むげんにびぜっしんに)」
眼耳鼻舌身意。
これを、六根(ろっこん)と言います。
言葉を換えていいますと、視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚となりますが、最後の意が問題です。
五根を、総合的に捉えるのは、意識であり、心ということになりますね。
さすがに、意覚とはいいません。
この六つを「六根」いいます。
次に、「無色声香味触法(むしきしょうこうみそくほう)」を「六境(ろっきょう)」といいます。
先に、リンゴの例を出しましたが、いくら、眼耳鼻舌身がありましても、その対象である、リンゴが無かったら、「リンゴだ」というのは、成立しませんね。
時には、風景であったり、美味しそうな料理であったり、美しい音楽であったしますね。
これらの対象を「境」というのです。
根の「心」に、当たるのを、「法」と呼びます。
この「根」と、「境」一対、例えば、「眼と色」を「眼界」と呼びます。
「耳と声」で「耳界」です。
これが、「六根」と「六境」で、「十二界」となるのです。
富士登山などをするときに、「六根清浄(しょうじょう)」と、掛け声をかけて、登っていきますが、これは、今まで述べてきた「六根」を綺麗にすれば、全身が清まる、と言う意味なのです。
しかし、観音さまは、次に、
「無眼界乃至無意識界」といってます。
「十二界」もありませんよ、と言っているんだなあ。
そりゃあ、当然だ。
逝く人には、無用でしょう。
乃至というのは、省略のことです。
ここで、唐突に、文脈が替わるのです。
「無無明亦無無明尽(むむみょうやくむみょうじん) 乃至無老死 亦無老死尽」
ということで、「十二因縁」の話が、入って来るのです。
十二因縁については、『心毒の海を渡る』に、詳述しておりますので、そちらをお読み下さい。
ですが、それらのものも、ないのだよ、と説きます。
そして、また、文脈を換えて、「四諦の法門」になるのです。
「苦集滅道も無く」
と説きます。
多少、詳しくもうしますと、苦しいことが、人生には沢山あります。
それを「苦諦」といいます。
例えば、「四苦」言うものがあります。
これは、『心毒の海を渡る』で述べていると、思いますが、「生老病死」の四つです。
「八苦」というのもあります。
前に述べてなかったので、ここで、述べておきますと、「愛別離苦(あいべくりく)」愛しい人と、離れなければならない、苦しみです。
人と人が出会っても、永遠にともにいられるというのは、不可能です。
流行歌にあった気がします。
「会うは別れの始め」ということです。
「怨憎会苦(おんぞうえく)」嫌なものと会っても、接していかなくては、ならない苦しみも、ありますよね。
「求不得苦(ぐふとくく)」欲しいものが、手に入らないくるしみ。
「五蘊盛苦(ごうんじょうく)」心と、体が、支離滅裂に、盛んである苦しみ。
青春時代のある苦しみですね。
これで、八苦です。
ものごとには、必ず、原因があって、結果があります。
四苦、八苦も同じです。
苦諦も、例外ではありません。
その苦が、集まるのが、「集諦(じったい)」であります。
それらの、「集諦」を、なんとか、滅ぼしたい、と思う心が、「滅諦(めったい)」です。
その「滅諦」、滅ぼす方法ということで、「道諦(どうたい)」というものが、あります。
それは「八正道(はっしょうどう)」という、方法です。
一、 正見(しょうけん)「正しくものを見る」
二、 正思惟(しょうしゆい)「正しくものを考える」
三、 正語(しょうご)「正しく言葉を語る」
四、 正業(しょうごう)「正し行いをする」
五、 正命(しょうみょう)「正しい生活をする」
六、 正精進(しょうしょうじん)「正しく目的に向かって努力する」
七、 正念(しょうねん)「常に仏道に思いをこらす」
八、 正定(しょうじょう)「正しく心を、集中安定する」
このようにすれば、「苦集滅道」も、克服出来る、というのですが、それこそ、仏さまでも無かったら、絶対に出来ることでは、ないと思います。
しかし、観音さま、こうしたことも無いと、説きます。
渡っていく人たちには、無用である、と言います。
そうなんだろうな。
渡っていく人たちの中には、様々な人がいる訳です。
何の苦労もしらずに、すんなりと、最後の瞬間まで、行ってしまう人も、いるのでしょう。
いわゆる苦労知らずの人生です。
そうかと思うと、苦労につぐ、苦労の連続で、地獄のような人生を、這いずり回ってきて、「ギャテイ、ギャテイ」と、救いを求めて、真言を唱えている人もいるのでしょう。
真言を、知らない人だって、沢山います。
逆に、真言を知ったから、どうなんだ? と思って、疑心暗鬼で、渡って逝く人もいるでしょう。
私は、約四十年、僧侶をやり、経典を読誦し、書写、解説(げせつ)をしてきました。
実は原稿を書く作業というのは、かなり疲れる作業であり、ずうっと書いていると、目ヤニが出てきます。
原稿を、執筆するというのは、執筆している本人、にしか分からない辛さが、あります。
決して、楽な作業ではありません。
それなら、やめれば良い、と言われてしまいそうですが、誰かが書いて置かなければ、ならないことなのです。
これも、僧侶の修行であり、仏さまへの供養なのです。
『法華経』の中に、十種供養と言うことが明示されています。
供養は、単に供(く)ともいいますが、供給資養(くきゅうしよう)といいます。
頭の文字と、お尻の文字を取って「供養」といっているのです。
梵語では「プジャーナ」といいます。
供養は、「飲食、香華、灯燭、衣服、臥具、読経、書写、解説(げせつ)、演説(説法)」と、いろいろあります。
書写に関しては、姫路に「書写山」という、大きなお寺があります。
地元の人は「そさざん」と言っています。
天台宗の、西の本山と言われておりますが、弁慶が、書写をしたと言われている、大きくて、平らな岩がありました。
実際に見たことがありますが、本当に大きくて、机のような形をした岩でした。
羽柴秀吉が、中国攻めの時に、黒田官兵衛に、「いいところがあります」と、具申されて、本陣を置いたので、寺が荒らされて、秀吉は、姫路では、評判が悪いですね。
『法華経』は、そうしたことが、述べられてあるので、別名を、『供養経』とも言われているのです。
僧侶の修行には、その個性に応じて、いろいろな、方法があるのです。
庭の掃除や、料理を作る人、これも、立派なお役目です。
料理を作る、お役目だけで、臨済宗妙心寺派の管長にまで、上りつめた名僧も、おられます。
高野山には、いまだに、弘法大師は、生きておられるということで、毎朝、お堂に、お料理を、運んでいる、ということです。
「供養」の最たるものでしょう。
本題に戻りましょう。
「四諦の法門」も、「無」であると、説かれた、観音さまは、次に、「無智亦無得」と、説かれます。
「智も無く、亦、得るものも無い」、さらに、「以無所得故」と、説かれるのですね。
「所得無きを以(も)っての故に」、
「菩提薩埵 依般若波羅蜜多故」と、続けます。
「菩提薩埵(菩薩さまたちは)、般若波羅蜜多に、依るが、故に」
菩薩さまたちは、智慧によって、度(渡る)られたが故に。
ここからが、キモです。
一番大切なところです。
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