ドロップチューン

くれさきクン

第1話


       ドロップチューン



    1


 大学病院で実習していたころ、ひどい咳に苦しめられた時期があった。一週間は水を飲むのにも苦労した。季節は初夏で、僕はお金を貯めていた。八月に友達と北海道を旅行する予定があったのだ。食費を切り詰めたことも、妙な風邪をひいたことの一因になったかもしれない。症状が出てしばらくは医者にかからなかった。もちろん、お金が惜しかったからだ。ついに耐え切れず近くのクリニックを受診したのは症状が出だしてちょうど七日目の朝のことで、僕は虎の子の診療費と引き換えに、二種類の咳止めを手に入れた。一方は教科書で見たことのある有名な薬、もう一方は、見たことのない新薬。

「よく効きますよ」と僕の方も見ず医者は言った。頭が大きく、首に分厚い皮をぶら下げた中年の男だったが、腹は出ていなかった。そのことがかえって奇妙だった。自然な物事のあり方が真っ向から否定されている感じがした。

「レントゲンも異常ありません。一週間分出しておきますが、三日も経てばだいぶん違うでしょう」

 彼の予言は半分当たり、半分外れた。三日経った木曜日の朝、僕はやはり元気よく咳を連発していた。咳を一つするごとに町がひとつ破壊されるなら、僕はとっくに列島全土を焦土に変えていただろう。それでも症状は改善していた。飲まないよりましということか、あるいは時間が薬ということかもしれない。いずれにせよ出口が見えたのはありがたいことだ。誰もいない深夜のアパートで、芋虫みたいに身体を丸めて際限なく咳をするのは、やはりというかなんというか、みじめなものだった。

「大丈夫?」と声をかけてくれる人もいない。

 そういうとき、僕は隣の部屋のことを思わずにいられない。隣の部屋には僕と同年代の女の子が住んでいた。階段ですれ違うとき、僕たちはいつも一言だけ挨拶を交わした。背が低くて異様に肌が白く、あまり美人とは言えない女の子だった。髪は真っ黒で、すだれのように長かった。昼間どこで何をしているのかは分からない。すくなくとも部屋にいないことは確かだった。彼女はきまって夜の十時に部屋に帰ってきた。扉が開き、閉じる音でそれが分かる。部屋にいるときは時おり物音が聞こえた。コト、という小さい音。その音は僕に、夜の白々した蛍光灯に照らされた夏の小路を思い出させた。

 夏草の伸びた小さな茂みの中で何かが動く。でも、それは風のせいかもしれない。

 それは姿を見せない。二度と同じ場所から同じ音は聞こえない。

 咳をしながら、僕は彼女のことを考える。真夜中、隣人の咳を聞かされ続けるのは気分のいいものではないだろう。あるいは彼女は怒って僕の部屋のベルを鳴らすべきかもしれない。あまりのみじめさに耐えかねて、何度も何度も、ピンポンピンポンと――


「いったい何時だと思ってるんですか」と彼女は言う。髪はかろうじて流れを保っているという程度。起き抜けなので、普段は使わない眼鏡をかけている。濃いねずみ色のパジャマはどういうわけかサイズが合っておらず、中に猫が何匹か入りそうなくらい大きい。

 僕はそんな彼女の姿を想像しながらベルが押されるのを待つ。もちろん誰もベルなど押しはしない。境界のない闇の中で、一人の男が咳を続けるだけだ。


 変化が起きたのはクリニックを受診した三日目の夕方だった。その意味で、医者の予言は正しかったことになる。IDカードをかざして職員用通路のドアを開けたとき、最初の違和感に気づいた。ピンポーンという電子音の後で合成音声が「入室して下さい」と言った。文字に起こせばいつも通りだ。でもそれらの音は僕の耳に、普段より低く聞こえた。

 故障だろうかと僕は思った。でもドアは問題なく開いたし、雑音が聞えたわけでもない。設定が変わったのだろうと納得し、それ以上は気に留めなかった。しかし二つ目の違和感は決定的だった。着替えをすませて病院を出た僕は、イヤホンを耳につけビートルズの『リヴォルヴァー』を再生した。音階が普段より低いことはすぐに分かった。ジョージもジョンもポールも普段より低い声で、普段より低いメロディを歌っていた。

 ずれの大きさは約半音といったところ。確信は持てないが、一音ずれていれば違和感はもう少し小さいものになっていたかもしれない。半音という中途半端さが曲の印象を大きく変えていた。

 頭が痛くなってきたのでイヤホンを外し、僕はため息をついた。するとその拍子に咳が出た。

 カードリーダーとiPodが同時に故障したとは考えにくい。原因は僕の耳の方にあるのだ。咳のしすぎかもしれない、と僕は思った。中耳に負担をかけすぎたせいで、聴覚がいかれてしまったのだ。でも低く聞こえるというのは神経系の異常だった。内耳か、それ以上のレベルに問題がなければ生じえない。

 いずれにせよ、考えられる原因は限られている。

 僕はクリニックで受け取った薬の袋を引っ張り出し、添付書類を確認した。まるで巣に紛れたカッコウの卵のように、副作用の項目にさりげなく「聴覚障害」という記載があった。


 翌朝、僕はクリニックを再訪した。患者は僕の他に誰もおらず、ロビーはエアコンが利きすぎていた。

 僕は受付の女性に事情を説明し、丁寧に、違う薬に変えてもらえないだろうかと頼んだ。

 先生にお話しくださいと彼女は言った。

 医者ははじめ僕の話を信じなかった(よくありますよ、風邪のときっていうのは変な音が聞こえたり云々)が、添付書類を見せると「ほんとだ」とあっさり納得した。

「ネットで調べたんです」と僕は言った。「長引くものじゃないそうですが、何となく気持ち悪いんで。薬をやめれば数日で治るということでした」

「なるほどなるほど」医者はポケットサイズの分厚い薬理書をパラパラめくりながら何度か頷いた。「それで、まだ薬は残ってます?」

「ええ」

「そうですか。まあ、こういう症状というか、音が低くなるなんてのは初めてですが……体質もあるんでしょうな。音楽か何かされてる?」

「いえ」

 医者は薬理書を眺めながらうんうんと頷いた。

「まあ、気になるようでしたら薬はやめてください。残りのぶんは捨てちゃって構いません。コデインだけでも十分でしょう」

「代わりの薬はないんですか?」

「うちで出しているのは二種類だけです。大丈夫、コデインもよく効きますよ」

 医者はパタンと薬理書を閉じた。


 家に帰ると、言われたとおり僕は新薬を捨てた。夜になると咳が出たが、コデインを飲むと少し楽になった。



    2

 

 熱が出なかったことは幸いだった。鼻水もなく、節々の痛みもない。咳だけ。マスクさえしておけば大体普段どおりの生活がおくれた。夜中になると咳は悪化し、僕を深刻な睡眠不足に陥らせたが、それでも実習は一度も休まなかった。習慣を崩すことが嫌いなのだ。

 同じ理由で、僕はもう五年も同じ塾でアルバイトをしている。バイトばかりの学習塾で、五年目は相当の古株だった。実習が始まってからはペースを落とした。それでも週に一度、金曜日にはシフトを入れた。

 大した収入にはならなかったが何もしないよりましだったし、今さら他のバイトを探すのは億劫だった。なにより、僕は人に勉強を教えることが嫌いではなかった。でも勉強を教えるには声を出さなければならない。しゃべると咳が出た。咳が出ると生徒に心配された。

「大丈夫ですか?」

 僕は首を振った。「大丈夫」

「ジェスチャーと言葉が合っていませんが」

 彼女は疑わしそうに目を細め、僕がつけている薄青のマスクを見つめた。「風邪、ひいたんですか?」

「らしいね。うつしたらゴメン」

「うつりませんよ。先生、マスクしてますから」

「マスクだって万能じゃないんだ。うつるときはうつる」

「風邪をひくときはひきますよ」と彼女は言った。「だいたい先生が休んだら誰が私に勉強教えるんです?」

「代理の先生がくるよ」

「じゃあ」と彼女は言った。「風邪ひきの先生でいいです」

 僕は咳をして、授業を再開した。


 彼女は成績が良かった。

 僕が良くしたわけではない。もともと良かった。定期試験ではつねに五位以内を維持し、通知表にはずらりと5を並べていた。その完全で静謐な通知表を初めて見た時――つまり最初の授業の日――僕はいったいこんな子に何を教えればいいのだろうと、純粋な疑問を抱いた。

 そしてその疑問をそのまま口にした。

「定期テストはいいんです」

 僕の方を見ず彼女は答えた。風船の向う側で喋っているみたいに、細く、小さな声だった。

「でも、模試とかはぜんぜん駄目で」

 しばらく待ったが言葉は続かなかった。模試の成績を見せてくれないか、と僕は頼んだ。彼女は膝に抱いた学校指定のバッグから薄いファイルを取り出し、猛獣に餌を与えるみたいに恐る恐るこちらに差し出した。中に模試の成績表が入っていた。ざっと見る限り穴らしき穴はない。突出した科目もないが、入試ではそういうタイプの方が有利だ。

「公立ならどこ受けたってお釣りがくるよ」僕はそう言ってファイルを彼女に返した。「この成績ならね。ひょっとして難関目指してるのかな。慶女とか」

「そんなすごいところは……」

 首を振ると前髪が乱れた。「お金もかかりますし」

「だったら」教室長の方をちらりと伺いつつ僕は言った。「……わざわざこんな塾に来ることもないんじゃない?絶対必要ないよ」

「模試で一番を取りたいんです」



    3


 彼女が目標を口にしたのは、後にも先にもこの一度きりだった。

 でも彼女は自分の欲求に対して常に自覚的だった。願望を口にしないのは単に習慣的な理由だったように思う。要するに慣れていなかったのだ。どういう道を選べばどういう結果が導かれるか、そういう方法論みたいなものがまだ確立されていなかった。

 それは無理からぬことと言えた。彼女はまだ14歳だったのだ。


 二度目の授業の準備をしているとき、教室長に呼ばれた。彼女の母親から電話があった、と彼は言った。僕はもちろん身構えた。生徒の母親からの電話が、幸せな知らせを運んでくることなど皆無だからだ。

 でも教室長は楽しそうだった。

「娘が先生をたいそう気に入っております、だってさ」、そう言って僕の肩甲骨付近をバンと叩く。

「やるねぇ先生」

 分厚い唇をねじあげて笑った。もう少しで唇の先が耳に届きそうだった。

「おかげで本契約がとれそうだよ。いやさすがは医学部先生」

「本契約?」

「じつはさ、体験入学中だったんだよね、あの子。ほらCMでやってるでしょ、一ヵ月限定、ご満足いただけなければ全額返金っていうやつ」

 僕の部屋にはテレビがない。

「それで一ヵ月、いろんな先生に担当してもらうつもりだったんだけどさ、先生に任せることにするよ。いわゆる専属契約ってやつ。すごいね先生。あの子けっこう難しい子でさ、前にもいくつか塾は行ったらしいんだけど、ことごとく合わなくて、全部やめちゃったんだって――それを一発で仕留めてくれるなんて、さすがエース、未来の教室長、今日から僕と変わっちゃう?とか言っちゃったりして、アハハ……」


 

    4


 彼女が僕の何を気にいったのかよく分からないが、それはそれとして僕たちの相性はけっこう良かったように思う。その時々、彼女の知りたがることを僕は教えた。科目は特に決めなかった。

 彼女の反応はいつも静かだった。初めの二週間ほど、僕はひっきりなしに「どう?」とか「分かった?」とか訊いていた気がする。でも少しずつ、彼女自身のリズムみたいなものが僕にも分かってきた。細かい目の動き、息遣いや指の動かし方、髪に触れるときの仕種のちがい――そういったものが色々なことを僕に教えてくれた。


 集中力がピークに達すると、彼女はペン先を浮かせて固まった。その姿は僕に、作業が終わった後の、暮れ方のクレーン車を想起させた。

 一度その姿勢で固まると、十分や二十分微動だにしないことも珍しくなかった。殆どの場合、そうした熟考は彼女を正しい解答に導かなかった。どれだけ考えても、解けない問題は解けなかった。

 それでも僕は彼女に好きなだけ時間を与え、好きなだけ考えさせた。途中で打ち切るようなことはしなかった。その時間が彼女には必要だった――何が分かって何が分からないか自分で理解し、納得するための時間が。


 彼女に勉強を教えるとき、僕は広大な花畑の管理人みたいな気分になった。花に虫がつけば殺し、雑草が生えれば引っこ抜き、折れそうな花には支柱を立て、土が乾いていれば水を撒いて回る。花畑の美しさを保ち、しかもそこに新たな花を植えることが僕の仕事だったが、それはひどく地味で、骨の折れる作業だった。

 定期試験の成績はほとんど変わらなかった。五位が四位になったところで誰も褒めはしない。でも僕は彼女を褒めた。綺麗な花を咲かせるために、最も努力しているのは彼女自身だったからだ。

「大したことじゃないです」彼女は僕の方も見ずに言った。「もともと得意なことですから」

 


    5


 少数の問題から、僕たちはしぼりとれるだけの滋養をしぼりとった。逆さにして振っても何も出ないというところまで突き詰めなければ、僕も彼女も納得しなかった。そして僕も彼女も、一問終えるたびにくたくたになった。

「休憩」

 僕はペットボトルの水を飲んだ。彼女はダースチョコレートの箱を取り出し、たてつづけに三粒食べた。

「ほんとはダメなんだよ、お菓子持って来ちゃ」

「先生にも一個あげる」

 僕はチョコレートを受け取った。いつもこうやって買収される。

「今日はもう一つおまけします」

 もう一粒くれた。

「優しいんだね」僕はポケットティッシュを一枚取り出し、その上にチョコレートを載せた。神棚のお供え物みたいだ。「何か良いことでもあった?」

「先生が風邪をひきました」

「優しさに涙が出るね」

「冗談ですよ」と彼女は言った。「咳のときは、チョコレートがいいって言うじゃないですか」

「そうなの?」

「カカオの成分が咳に効くらしいです。何という成分だったか忘れましたけど、市販されている咳止め薬にも、同じものが入っているんですよ」

 何でもよく知っている。

「医学部では習わないんですか?」

「習わないみたいだね」と僕は曖昧に答えた。そして話題の矛先を逸らした。「そういうことなら、あんまり食べすぎない方がいいかもしれないな。特に、音楽やる人は気をつけた方がいいよ」

「なぜです?」


 僕は咳止めの奇妙な副作用について説明した。



「どういう起序なのか分からないけど、でも、現に今僕の耳には、周囲のあらゆる音がいつもより低く聞こえてる」

 彼女は腕を束ねたまま唸った。「ちょうど半音?」

「だいたい半音」と僕は言った。「絶対音感なんて持ってないから、はっきりしたことは分からない。そもそも僕が正しいと思っている音階は、僕の頭の中にしか存在しないわけだからね。もちろん外の音は何も変わってない。でもそれは僕の中で歪んだ電気信号に変えられてしまう。僕は少し低い世界を認識している。それ以外は何も認識していない。そして認識できないものは存在しないのと同義である、オーケー?」

 ダースの箱を持ったまま彼女は頷いた。

「そういうわけで、正しい音の基準は僕の頭の中にしか存在しないんだ。これは相当に不安定なことだ。考えているうちに、たとえばCという音の連なりが、どういう和音だったか分からなくなる。だから『だいたい』半音くらいだろうなぁ、くらいのことは分かっても、それ以上のことは何一つとして分からない。今こうしている間にも、僕の音の世界は少しずつ沈んでいるのかもしれない。あるいはもとに戻りつつあるのかもしれない。僕には分からないし、勿論僕に分からなければ、この世界の誰にも分からない」

 しばらく考えて彼女は言った。「私の声も、低く聞こえてるんですか?」

「そうだよ。普段より大人っぽく聞こえる。十年経ったら、そんな声になるのかもしれないね」 

 彼女は首を振った。「想像できません」

「そりゃあ、そうだろうね」

「誰かに似てたりします?」

「ぱっと言われても思いつかないな。あんまりテレビは見ないんだ」

 彼女は無言で二度頷いた。「そうですか」と言った。

「とにかく、咳止めには気をつけた方がいいよ。僕なんかは実害もないけど、音楽やってる人は困るだろう、音感狂っちゃうとさ」

「べつに、そうでもないと思いますけど」彼女はそう言った。「いつもと違うのって、何だか楽しそうですし」



    6


 彼女の趣味はドラムを叩くことだった。個人的にそれはすごくカッコいい趣味だと思うが、女子中学生の趣味としては、いささかカッコよすぎるのかもしれない。

 60年代から70年代にかけてのロックやブルース、ブラックミュージックが彼女の専門分野だった。学校に話の合う友達がいない、と彼女は言ったが、無理からぬことだと思う。僕などその頃はギターとベースの違いも分からなかった。

 ドラムの他にはベースとエレクトーンが弾けるということだった。分身すれば一人でバンドが組めそうだ。


 僕たちが勉強に無関係な話をするのは十分程度の休み時間に限られていた。そこから得られた断片的な情報を繋ぎ合わせるに、彼女の音楽的嗜好の殆どすべては、彼女の父親から受け継がれたものであるようだった。

 彼女が直接父親について語ったことは一度もない。でも彼女の話にはたびたび父親が登場した。それらは全て、過去について語られたものだった。

 エレクトーンを買ってもらったときの話、初めてドラムを叩いたときの話(最初はどうしていいか分かんなかったんです、タイコがいっぱいあって……腕は二本だけじゃないですか。だから父と分担して、あっちのタイコ、こっちのタイコって叩いたりして。でも、そうするとかえって合わせるのが難しいんですよね云々)、ギターに挫折したときの話(よくFで詰まるっていうじゃないですか。私もそうだったんですよ。つまりドラムのスティックと、握り方というか、力の掛け方が違うんですよね。父もそう言ってました。ドラムを叩きだすと、どうしてかギターの方が下手になるって……父はどっちもできるんですけど云々)父親が高校時代に組んでいたバンドの話(ライブ中、よその学校の生徒が乱入したことがあったらしいんですけど、その人がすごくって……消火器をブシューって噴射しながら、ステージに上がって来たんですって。それで父たちも『なんだこの』って感じで、もう、消火器とギターの殴り合いで……高校って怖いところなんですね)(そんなことは通常起こりえない、と僕は教えた)。

 ……とにかく音楽の話題になると、必ずと言っていいほど彼女の父親が顔を出した。もちろん僕は彼女の父親の顔を知らない。でも想像の中の彼は、繊細そうな微笑と意志の強そうな眼差しを、ハンサムな顔の上に常に湛えていた。脚は長かった。それが彼女の語り口から連想される父親の姿だった。

 もし現実がその通りなら、彼女は母親似であるということになるかもしれない。彼女はあまり脚が長くなかったし、気の利いた微笑を浮かべるほど器用ではなく、やや厚ぼったい目蓋はその奥の眼差しの持つ本当の強さを隠していた。彼女には僕をひきつける何かがあった。でもそれはきらびやかなステージや優しく甘い記憶といった世界から、容易に取り出せるものではなかった。

 彼女の志望校は地元の公立の二番手校だった。彼女の実力なら、居眠りしていても受かるような学校だ。

「父の母校なんです」と彼女は言った。「そこでバンドを組んでみたいんです、父がしていたみたいに」

「バンドならどこでも組めるよ。バンドのない高校なんてバナナのないチョコバナナみたいなもんだ」

「先生、私のことファザコンだと思ってます?」

「思ってないよ」と僕は言ったが、いささか返答が早すぎたかもしれない。彼女は何か言いたそうに僕を見つめ、しばらくして溜息をついた。

「自分をどう見せるかなんて、やれることには限界があります。そういう風に見えてしまっても、別に否定はしません」

「素敵なお父さんだよね」僕はよく分からない相槌を打った。

「父の昔話を聞くのが好きなんです」と彼女は言った。「若い頃は、真剣にプロのミュージシャンを目指していたらしいんです。バンドでデモテープを作って、事務所に送ったりして。でも、けっきょくデビューはできませんでした。東京に来ないかって声をかけられた直後に、ボーカルの人がバイク事故で死んじゃって――本当にあるんですかね、そんなこと。そのあとは別のバンドで頑張ったりもしたらしいですけど、とにかく父はプロにはなりませんでした。

 どこまでが本当かは私にも分かりません。全部本当だとしても、あんまりかっこいい話ではないですよね。父は単なるドラマーで、曲が書ける訳じゃないですし、代わりなんていくらでもいますし。だからこんなのはよくある、今もこの街のどこかで新しく生まれては消えている、なんてことない冴えないエピソードの一つでしかないことは私にもよく分かっているんです。

 でもそういう話をするとき、父は本当に楽しそうな顔をするんです。きらきらして、心から生きてて良かったなぁって思ってるみたいな、こっちもわくわくしちゃうような、そんな顔を。そしてそういう話を聞いてると、私も音楽をやりたい、何かのために本気になりたい、人生をかけてみたいって、そんな風に思うんですよ」

 彼女は唐突に言葉を切った。そしてスカートのポケットからハンカチを取り出し、額に浮いた汗の玉を拭いた。

「素敵なお父さんだね」と僕は言った。

「ありがとうございます」と彼女は言った。


 

    7


 十分間の休憩も終わり、彼女は黙々と問題を解きはじめた。真白な紙に少しずつ計算式が紡がれてゆく。速すぎもせず遅すぎもしない、一定のペースで彼女はペンを動かした。僕はそのさまを眺めながら彼女が先程くれた二粒目のチョコレートをティッシュペーパーから摘みあげ、口に放り込んだ――――甘い。本当に咳が止まるかどうかは別として、とにかくチョコレートは甘かった。そしてペンが走る音、空調設備の音、他の講師や生徒の話声、遠くに聞こえる車や自転車の走る音、あらゆる音は低かった。まるで水の中にいるみたいだ。あるいはこの街は湖の中に沈み、他の誰もそのことには気づいていないのかもしれない。人々はどこにも繋がらない電話をかけ、存在しない未来のために勉強しているのかもしれない。帰ってこない子供のために食事を作り、もう何処にも存在しない夢を、おそらく泡か何かに向って語りかけているのかもしれない。

「先生は十年前」と彼女は手を止めずに言った。「何をしてました?」

「歯にブリッジをしていたよ」

「……矯正ですか?」

「冗談だよ」と僕は言った。「珍しいね、勉強中に私語なんて」

「なんとなく気になったんです」と彼女は言った。「出すぎたことを聞きました。べつに答えなくてもいいです」

「いいよ、私語くらい。無駄口の多さで人生の質は決まるんだ」

「それも何かの引用ですか?」

「僕が考えたんだ、今」

 無駄口さ、と僕は言った。

「十年前、だっけ?」

「はい」

「十年前、僕は今の君と同じ歳だった。でも君とは違って、何の才能も持っていなかった。勉強はできなかったし、音楽もできなかった。部活は補欠で、好きな女の子には振られた。しょっちゅう嘘をついていたせいで、先生たちの評判は最悪だった」

「それは謙遜ですか?」

「本当のことだよ」と僕は言った。「なぜそんなことを訊く?」

 彼女は僕の問いを無視し、手元の問題を解き続けた。ときどき用紙の片隅で筆算をしては、印字したように綺麗な式の中に、計算結果を組み込む。

 しばらくして彼女は再び口を開いた。

「先生の耳には、十年後の私の声が聞こえているんですよね?」

 ん、と僕は唸った。「……比喩としてね」

「十年後、私は今の先生と同じ歳になるんです」

「きっと素敵な女性になってるよ。僕なんかおいそれと声をかけられない、知的でカッコいい女の人にね」


 十年。

 十年という歳月が僕を運んできたこの世界のことを、僕は思った。それは少なくとも十年前に思い描いていたものよりは、まともな世界だった。十年のうちに色んなことがうまくいった。いつも親切な人に囲まれ、誰かが僕のことを好きでいてくれた。素晴らしい十年だった。色んなことに目を瞑り、色んな音に耳を塞げば、それは完全な十年だったとさえいえるかもしれない。

 新しい十年は僕の前に伸びている。何一つ先を見通すことはできない。それでも僕はやはり、折にふれ目を閉じ、耳を塞ぎながらその時間線の上を進むだろう。何もかもうまくいくという、心温まる神話を胸に抱きながら。

「明日暇なら付き合ってほしい場所があるんです」と彼女は言った。自然で、唐突な切り出し方だった。「ストーリーヴィルってお店、知ってます?」

 僕が答える前に彼女は「夜にライブがあるんですよ」と言った。「チケットが二枚あるんですけど、未成年だけだとお店に入れてもらえないんです。先生、もしよかったら私と一緒に来てくれませんか?」

「ちょっと待って」と僕は言った。

「お金なら心配いらないです。別におごってもらおうとか考えているわけじゃありませんから。むしろ貯金なら――」

「ちょっと待って」

 彼女は顔を上げ、僕の顔を見た。

 僕はため息をついて背筋を伸ばしながら椅子に座りなおし、両手の指を組み合わせ、机の縁にそっと置いた。そしてゆっくりと肩を上げた。

 すとんと落とした。

「不意打ちはよくないよ」と僕は言った。「会話はキャッチボールであるべきだ。一方的に撃ちまくるのはマナーとしてはよろしくない」

「ごめんあそばせ」と彼女は顔をふせて言った。「まだ十年ほど、経験が足りないもので」

 僕はもう一度溜息をつき、首を振った。振りながら考えを巡らせた――脳のチューナーを現実の周波数に合わせる必要がある。油断すると、まるで水泡のように浮かんだ言葉が消えてゆく。ここは塾だ。僕は講師で、彼女は生徒だ。オーケー。何も言わずにいるわけにはいかない。こうしている間にも、彼女は無言で僕の言葉を待っているのだ。

「結論から言うと」と僕は言った。「君の要望に応えることはできない。どこであれ、塾の外で生徒に会うことは禁止されているんだ」

「そんな決まりはナンセンスだと思います」彼女は用意していたセリフを読みあげるように言った。「私たちは同じ街に住んで、同じ駅から電車に乗り、同じコンビニで買い物をしているんです。どこかでばったり出くわす可能性は現実として否定できないはずです」

「僕が言ってるのは――」

「ばったりなら、いいじゃないですか」と彼女は言った。「偶然と必然の違いが、当事者以外の誰に分かるっていうんです?」

 僕はそれに対して反論しようとしたが、すんでのところで言葉を引っ込めた。何故引っ込めたのか、初めのうちは分からなかった。彼女の言葉は屁理屈だ。ルールの穴をつくことにも成功していない。ならば正しい理屈を言って聞かせればいいだけだ。普段やっているように、正しいことを教えてやればいいだけだ。

 でも僕はそうしなかった。その理由は複雑だったが、最も単純な説明は彼女のまなざしの強さに求めることができるかもしれない。彼女の目は真っすぐに僕を捉えていた。一歩も引かない真剣さがそこにはあった。冗談めかした色は欠片もなかった。

 正しい言葉ではなく、真剣な言葉を彼女は望んでいるのだ。講師としてのマニュアルめいた言葉は、脳の外にでも放り出して下さいと、彼女はその目で訴えているのだ。

「明日の午後5時」と彼女は言った。「私たちはストーリーヴィルの前でばったり出くわすかもしれません。それは誰にも咎められるべきことではないと思います」

「確かにそうだ」と僕は言った。確かにそれはその通りだった。

「確かにそれはその通りだ」と僕は言った。


 僕たちはそれ以上無駄口を叩かなかった。彼女は完成された答案用紙を僕の前に滑らせ、僕はそこに指摘するべき箇所がないか、塾講師的な入念さでチェックした。でもそんな箇所はどこにもなかった。その答案は完全だった。僕が用意した問題を、彼女が完全に解ききってしまったのは、これが初めてだった。僕は赤いペンでぐるぐると花丸を描き、ついでにネコの絵を――赤い首輪に、ヒナギクの花をさしたいきなやつを――下に添えて彼女に返した。

 反応はいまいちパッとしなかった。

「ネコに見えませんね」と彼女は言った。

「こういうネコもいるんだよ」と僕は言った。



    8


 あくる日の夕方、僕はサマージャケットを小脇に抱えながら、特にあてもなく中心街をぶらついていた。太陽はまだ高い位置にあったが、気温の方はいくぶん落ち着いていた。日陰を歩けば海からの涼しい風が肌を冷やしてくれる。

 アーケードの終わりに差し掛かったとき、向うから歩いてくる見知った顔に気づいた。塾の教え子だった。

「あら」と彼女は言った。

「おや」と僕は言った。

 そしてどちらからともなく、僕たちは頭を下げた。

「……こんなところでお会いするとは、夢にも思っていませんでした」

「会えるんじゃないかって気がしていた――昨日は君の夢を見たんだ」

「嘘つきですね」

「お互いさまさ」

 

 ライブが始まるまでにはまだ間があった。僕たちは近くの喫茶店でコーヒーを飲みながら時間をつぶした。たいして美味いコーヒーではない。つぶれた時間みたいな味がした。それでも彼女はミルクも砂糖もくわえず、ときどき付け合わせのカラメルビスケットを齧りながらそれを飲んだ。中学生にとって、つぶれた時間の苦みは問題にならないのかもしれない。あるいは背伸びをしているだけかもしれない。

「わがままに付き合わせて、ごめんなさい」と彼女は言った。「かなり無茶なお願いをしているのは分かってるんですけど」

「謝らないでいいよ」

 僕はコーヒーに角砂糖をひとつ落とした。

 琥珀色の小さなしぶきが上がり、水面に落ちる。「……僕は好きで来たんだ。こういう機会でもない限り、ソウルミュージックなんて自分から聴くことは絶対にないからね。今回のことだけじゃない、僕は君からいろんなことを教わってる。おまけに月謝まで戴いてる。礼を言わなきゃいけないのはこっちの方だよ」

 コーヒーカップに向って、彼女は大人びた微笑を浮かべた。

 淡いすみれ色のワンピースにブルーのハイカットスニーカー。傍らの椅子には小さな籐のバッグが置かれている。何気ないけれどさわやかで、落ち着いた服装は彼女の空気感によく合っていた。

「本当は父と来るはずだったんです」と彼女は言った。「でも色んなことがうまくいかなくなって」

 僕はスプーンを取り、ゆっくりとコーヒーを混ぜた。「うん」と言った。

「父は今、家にいないんです。つまり、出て行ったんです。たぶん女の人がいっしょにいるんだと思います。そこまで詳しい話は、教えてもらえなかったけど」 

 しばらくして彼女は「あんまり聞きたくなかったですけど」と言い添えた。あるいは、言い直した。

「もともとの原因は母の方にあるんです。母がパート先の男の人と付き合い始めて――というのはつまり、少しずつ、家に帰る時間が遅くなって。私が中学に上がるすこし前のことですけど。初めは何が起きたか分かりませんでした。でも、確かに何かが変わっていたんです。初めに感じたのはにおいでした。

 上手くいえないんですけど、家の中に嫌なにおいがしだしたんです。それは母の寝室のにおいでした。もちろん嗅ぎ慣れたにおいです。それはいってみれば母のにおいですから。でもそれが本当に、我慢できないくらい強くにおうんです。家のどこにいても、壁からしみ出してくるみたいににおうんです。一番つらいのは食事のときでした。料理のにおいに、そのにおいが混じって、そうなるともう、全部のにおいが変わってしまうんです。味も変になって――食べようと思っても喉を通らないんです。無理に食べようとしても戻してしまうんです、においがあまりにきつくて」

 ふと彼女は目を伏せた。「ごめんなさい」と早口で言った。「こんな話するつもりじゃなかったんですけど」

「謝らないでいいよ。さっき言ったろ」

 僕はカップに突っ込んでいたスプーンをソーサに戻した。カップをゆっくりと口元に運び、一口すすった。それから彼女に気取られぬよう、腹で大きく呼吸をした。

「君が話したいことは、何であれ僕に話していい。もちろん話したくないことは話さないでいい。それを決めるのは僕じゃない」

 目を伏せたまま彼女は微かに頷いた。「ありがとうございます」

「今は」と僕は言った。「そういう、症状というか……においは感じないの?」

「全くなくなったわけではないです。特に家に一人でいると、圧迫されそうな感じがします」

「圧迫?」

「押されるような感じがするんです、文字通り。でも最初はよりずっといいです。食事もちゃんととれますし、吐いたりすることもなくなりましたし……たぶん、ちゃんと病院で診てもらったのが良かったんだと思います。つまり、問題をはっきりさせたことが。

 ちょうど今くらいの季節だったと思いますけど、一度、救急車で運ばれたことがあるんです。家で吐いたからじゃなくて、学校で熱中症になって、倒れちゃって。そのときに病院の先生から、栄養状態がすごく悪いって言われて――何か無茶なダイエットとかしてないかって、訊かれたんです。そのとき、家で食事ができないって話をしました。においのことは伏せて」

「伏せて」

「言いたくなかったんです」と彼女は言った。「だって、お母さんのにおいでゲロ吐いちゃったなんて、思われたら嫌じゃないですか」

 実際はそうじゃないんです、と彼女は言った。

「むしろ逆なんです。お母さんからは何のにおいもしないんです。におうのは寝室のにおいだけなんです。そんなのおかしいって思いますけど」



    9


 彼女が救急車で運ばれ、入院が決定し、心療内科への受診を強く勧められる段階に至って、彼女の両親はようやくことの重大さを認識したらしい。その前から認識してはいたのかもしれない。いずれにせよ実際的な行動は何一つとしてとらなかった。それは認識していないことと同じだと、彼女は言わなかったが、僕は思う。

 彼女が入院している間、母親はパートを休んだ。娘の傍を片時も離れず、時に大粒の涙を浮かべながら彼女に向って謝罪の言葉を何度も口にした。彼女は母親を許しも詰りもしなかった。そういう気持ちが湧いてこなかった、と彼女は言った。怒りも同情も慰めも苛立ちも、その紛い物さえ心には浮かばなかった。母親は彼女を抱きしめ、彼女の病衣の肩口を涙で濡らした。すぐ傍にはふわふわと揺れる母親の髪の毛があった。でも彼女は何のにおいも感じなかった。

「とにかく退院したときには、においはそれほど気にならなくなっていました。たぶん、お母さんが私を気にかけたことが良かったんだと思います。つまり、ちゃんと話せたことが」

 母親の反省は三か月ほど続いた。その間彼女は決められた時間に帰宅し、家族のために毎日違う食事を用意した。でも夏が過ぎ、冬の足音が風の中に聞こえ始めるころ、彼女の帰宅時間はふたたび遅くなり始めた。そしてスズメバチの毒みたいに、二度目の出来事は致命的だった。


 彼女の衝動を押しとどめていたのは、娘に対する自責の念だったのだと思う。あるいは母親としての自覚と言い換えてもいい。言葉に大した意味はない。いずれにせよそういうものが、彼女の中にある大きなエネルギーとの闘いに負けたのだ。そのエネルギーには名前がない。名前がないものをコントロールするのは、有史以来誰も成し遂げていないことである。

 だから恐らくは娘の言葉通り、それは母親の罪ではないのだろう。


「だから」と彼女は言った。「こういうこと言うと変かもしれませんけど」と彼女は続けた。「私は、そんなに傷つかなかったんです」

 しばらくして首を振る。「いえ、もちろん傷ついたんですけど、それは扱いきれないほど辛いものじゃありませんでした。小さいころ、物を隠されたりとか、教科書に落書きされたりとか、そういうのと同じような感じで」

 もちろん彼女はたった一人でこの長い、いつ終わるとも知れない冬の時代を乗り切ったわけではない。彼女には仲間がいた。青春の殉教者である父親と、音楽だけが彼女の心を支えた。



    10


 アーケードのおわりに設置されたカーペット敷きの細長い階段を下ると、地上の入り口の狭さからは到底想像できない、巨大なアーチ状の門が現れる。ブルーの文字ブロックがSTORYVILLEという文字列を紡いでいた。

 三十歳くらいの女性の店員がチケットを切り、僕と僕の教え子に微笑みかけた。待合のホールを横切りながら教え子は小さく僕に声をかけた。

「きっと兄妹だと思ってますよ」

「だったら、敬語はまずいんじゃない?」

 あ、と彼女は口を押さえて笑った。「それもそうだね、お兄ちゃん」

「わざとらしい……」

「先生には妹さんっています?」

「いない。姉ちゃんが一人いるけど、家を出てからは一度も会ってない」

「それでも羨ましいですよ」と彼女は言った。「私もお兄ちゃんかお姉ちゃんがほしかったです。弟か、妹でもいいかも。楽しいですか、兄弟って?」

「楽しいことばかりじゃない。でもいなくなると寂しい。きっとひとくくりなんだね。双子みたいに分かりやすい形じゃないけど、どこかがどうしようもなく繋がってるんだ」

 ふうん、と相槌を打って彼女は黙った。たぶん僕とそっくりな顔をした、姉の姿でも思い浮かべていたのだろう。

 通されたのはホールの左寄り、通路を背にした横がけの二人席だった。僕はビールを、彼女はペリエを注文して静かに乾杯した。

 


    11


 どういうわけか、肝心の演奏について、僕はほとんど何も覚えていない。

 僕たちの後ろを黒人のミュージシャンたちが通ったことは覚えている。彼らはたぶん六十をいくつか過ぎたほどの歳で、少なくとも僕たちに対しては陽気であった。真っ白な歯を見せて、心から楽しそうにそれぞれの楽器を演奏していた。自分のパートに長い休符が置かれている時は、楽器を置いて即興のダンスを踊ったりしていた。そのたびに客席からは感じの良い笑いと拍手が起こった。誰もかれもが楽しそうだった。でも彼らの演奏した音楽がどういったものであったか、不思議なくらいに覚えていない。バンドの名前も忘れてしまった。もちろんストーリーヴィルの公式サイトでバックステージを確認すれば、それくらいのことは容易に分かる。でも――少なくとも今のところは――そんなことをする気も起きない。

 誤解のないように言っておくが、僕はこの日の音楽に退屈していたわけではない。むしろ逆だ。彼らの音楽はとても立体的でヒリヒリしていた。しっかりとした手触りがあり、活きた熱量を発散していた。指板の上を這う、ベーシストの指の動きを僕は覚えている。ひしひしと打たれるハイハットの繊細な揺れを、まぶたの裏に想起することができる。でもその記憶には音楽がない。音の記憶だけがすっぽりと抜け落ちている。

 一度だけ、僕は咳をした。幸いにしてそれは一つの曲が終わった直後、深い洞を打つ滝のような拍手がホール全体を支配した瞬間だった。そして大きな咳ではなかった。拍手の中にあって、それは宇宙を漂う小惑星の破片みたいにどうでもいい音だった。たぶん、僕と彼女のほかには誰も気づかなかっただろう。拍手をしながら僕は可笑しくなって笑ってしまった。

「咳、もう良くなったのかと思ってました」彼女は拍手に紛れて言った。

「もうほとんどいいよ。さっきので、たぶん最後だろう」

「そうですか」

 彼女は笑っていなかった。何度も手を叩きながら、透明な瞳でステージの方を見ていた。それは恐らくバンドのキラーチューンだったのだろう。拍手はなかなか鳴りやまなかった。ミュージシャンたちは汗の玉をいくつも顔の上に浮かべながら、両手を広げたり、恭しく頭を下げたりした。ピアニストは仏教徒のように手を合わせてお辞儀をした。ふたたびホール内に笑い声がさざめいた。 

 それでも彼女は笑わなかった。彼女の両手から生まれ出る音は天高く結ばれる雪の結晶のように細やかだった。それは大気に触れた瞬間に形を失い、どこかに消えてなくなってしまう氷の粒だった。拍手の波が少しずつ弱まり、周囲の客のほとんどが満足げに両手を下ろした後も彼女は手を叩いていた。

 最後の一音が消えたとき、彼女の両手は次の一拍を打つ直前のように、まるでその隙間に何か小さく壊れやすいものを包んでいるように、胸の前にそっと留まっていた。

「先生」と彼女はステージの方を見つめたまま言った。

「手を握っていてくれませんか?」

 僕はそのとおりにした。彼女の手は柔らかく、微かに汗をかいていた。そして僕の手よりはるかに小さかった。薬指と小指を折りたたむと、彼女の手はすっぽりと僕の手の中に隠れてしまった。それほどに小さな手だった。

 彼女の手を包んだ右手を、僕はシートの上に置いた。バンドは次の曲のために楽器を替えたり、音を合せたりしていた。不規則チューニングの曲をやるのかもしれない。いずれにせよ正しい音の高さなど僕には分からない。僕は一人でドロップチューニングの世界に沈んでいるのだ。そこで何かを共有したがっている子供が、僕のすぐ隣にいるのだ。

 ライブが終わるまで彼女は一度も口を開かなかった。左手を通して、ときどき彼女のこわばりが僕に伝わった。僕はそのたびに少しだけ右手に込める力を強めた。僕がそこに存在することを、彼女に正しく教えられるように。



    12


 店を出ると雨が降っていた。

「さいてー、ってやつですね」と彼女は言ったが、その顔はむしろ晴れやかに見えた。彼女のすみれ色のワンピースは夜の小雨にとてもよく合っていた。雨が止んだら、何かいいことでも起きるんじゃないかという気になる。

 いそいで通りを渡り、コンビニでビニル傘とペットボトルの水を二本ずつ買った。「水でいいの?」と僕は言った。「遠慮しないでいよ。何なら炭酸でもいいし」

「いいんです」と彼女は言った。「水が飲みたいんですよ」

 僕たちはビニル傘をくるくると回しながら通りを歩いた。傘は僕には小さすぎ、彼女には大きすぎた。通りにはまだ沢山の人がいた。駅へ向う人、駅とは反対方向へ向う人、ちょうど半々くらいだ。傘など差していない人の方が多かった。まだみんな油断しているのだ。夏は始まったばかりで、雨にぬれても、風にあたればすぐに乾くと思っている。台風の季節はまだ先だし、ヒステリックな梅雨は雲の狭間に消えてしまった。

 今は楽しいことしか起こらない。

 彼女は気持ちよさそうに唄を歌った。高音がきれいな、さっぱりとした唄だった。歌詞は英語で、教えた覚えのない単語も入っていた。

「何の曲?」

「知らないんですか?」と彼女は言った。「たぶん知らないの、世界で先生ひとりだけですよ」

「そんなわけないだろう」

「そんなわけありますよ。有名な、いい曲なんですから」

 彼女はにっこりと微笑み、唄の続きを歌いはじめた。街ゆく人たちは、ほとんど誰も僕たちになんか興味を示さなかった。唄を歌うくらい、何も大したことではないのだ。雨が降っていて気持ちいいから唄を歌うのだ。それはどう考えてみたって素晴らしいことだった。

「先生は歌わないんですか?」と彼女は言った。

「下手なんだ」

「いいじゃないですか。誰だって最初は下手ですよ」

「僕は君より十年長く生きてるんだぜ」

「関係ないですよ。どこから何が始まるかなんて、誰に分かるんです?」

 彼女はそう言って両手でこするように傘の柄を回した。水滴が跳ねて僕の傘の上に落ちた。

「カラオケにでも行って、練習してくださいよ。勉強よりずっと簡単でしょ?」

 それで、今度は一緒に歌いましょうと、彼女は透明に笑った。



    13


 次の週の授業に彼女は現れなかった。予定の時間から二十分ほど過ぎたころ、彼女の母親から電話があった。

 娘の体調がすぐれないので塾を休ませたい、と彼女は言った。


 その次の週に僕は教室長に呼び出され、彼女が塾を辞めたことを知らされた。

「転校するんだってさ」と彼は北欧神話の聞き慣れない神の名を口にするように言った。「とくしまに」

 とくしま……徳島。

「どうして」と僕は言った。

「お母さんのお姉さんが――ようするにあの子の伯母さんがそこにいるんだってさ。一緒に住むことになったらしい。まあ、色々あるみたいね」と彼は笑いながら言った。でもその笑い方には意図せぬ苦々しさが滲んでいた。

「残念だよ、先生とのコンビはなかなか良かったけどねぇ……でも、当然引き留めるわけにはいかないからさ。なんたってとくしまだよ?どうやって引き留めようがあるよ?」

 親がねぇ、と彼は言った。まだ何か言い足りないようだったが、結局はパチンと両手を打ち鳴らして顔を上げた。行きつく場のない考えは、虫のように殺すことにしたらしい。

「――先生には、また新しい生徒さん紹介するよ。実はまた、体験入学の子が一人いてね。ぜひ先生の力量で一発シュート決めてほしいなぁ、なんて思ってるところなんだけどね、どうかな……」

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ドロップチューン くれさきクン @kuremoka

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