第23話 ロイ

 ロイに幼い頃の記憶はない。


 気が付けば、田舎貴族の奴隷としてゴミくずにも劣る生活を強いられてきた。


 実際に主だという中年の子爵は、ロイのことを人間だとは思っていなかった。子爵にとって、ロイは懇意にしている奴隷商から高値で買った美しい化け物だ。


 周りの奴隷達も、ロイを避けていた。

 ロイには、なぜ自分が避けられているのかは分からない。分からないが、知りたくもなかった。


 そもそも、自分が誰なのかさえ分からない。奴隷になるまでの記憶が消えていた。


 ただ、飢えをしのぎ、痛みに耐え、傷を癒し、朝が来ないことを祈る、そんな毎日がロイの全てだった。


 ロイの感情は塗りつぶされ、悲しみや憎しみすら湧くことがなかった。


「父」と名乗る男が現れた、あの日までは……



 ―――カツーン、カツーン


 遠くから聞こえてくる靴音に、ロイは目を覚ました。


(夢を、見ていたのか?)


 頬を伝う涙を拭おうとして、ロイは手足どころか首すら自由に動かせないことに気付く。


(ああ、そうだった。俺は、売られたのだった)


 ロイは気を失う前の記憶を思い出した。


 1カ月ほど前、子爵家の地下牢に捕らえられていたロイの元に、奴隷商人を名乗る男が現れた。その男は、ロイの主がロイを手放したこと、かなり高値であったこと、これから王都で新しい主人を探すことなどを伝えた。


(要は玩具に飽きたんだろ。あいつは、子供にしか興味がない)


 ロイは元主の顔を思い出した。吐き気がする。だが、心の奥から湧き上がる別の感情に、ロイは身震いした。


(俺を、手放しただと?)


 それは、主とロイを繋ぐ奴隷契約が消失したということを意味する。


(つまり、俺は、あいつを殺せるのか……!)


 誰かが低く喉を鳴らすように笑っている。


(いや、笑っているのは、俺か? そうか、笑っているのか、俺は)


「駄目ですよ。悪いこと考えちゃあ」

「!!」


 不意に、全身の細胞という細胞が破裂するような衝撃を覚えた。数秒間の硬直の後、ロイは石畳に転がり、のたうちまわった。


「ふう。あなたにこれを行うのは3度目ですね。前の時は今の半分くらいの年頃でしたか。ああ、あの時は記憶を失ったのでしたね。じゃあ、実質1回目です」

「何を……言っている……?」

「おや、喋れるのですか。これは犯罪奴隷に施す契約魔法の中でも、もっとも強力なやつでしてね。魔術師なんかに使うんですよ。奴隷が主人の命令なしに、魔術を使っちゃ大変でしょう? でも、さすがは半魔ですね。これを使うと大概、廃人みたいになるんですが。今回は意識もはっきりしていらっしゃるし。ふふふ。そんなに睨まないでくださいよ。怖い怖い」


 薄い唇を三日月の様に歪めながら、奴隷商人は這いつくばるロイに近づいた。


「おや……。本当に、怖いですね」


 ロイの手が、奴隷商人の足首を掴んでいた。その手に、何の躊躇もなく、男は剣を突き刺した。


「!!」

「ふふ。声を上げませんか。さすが、ここの奴隷は我慢強くていらっしゃる。きっと良い買い手が見つかりますよ? だから、それまで大人しくしてくださいね」


(絶対、殺してやる……お前も……あいつ……も……)


 薄れゆく意識の中で、ロイは男の顔を脳裏に刻み込んだ。



―――カツーン、カツーン



 ロイは目を閉じ、体内を巡る魔力を感じようと試みた。


(やはり駄目か。ああ。力が入らない)


 男に刺された傷は、治癒しているようだ。商品に傷があっては値が下がると思ったのだろうか。


―――カツーン、カツーン


(軽い足音。女? いや、子供か? 一人でこんなところに? そもそもここはどこだ?)


 朦朧とする頭で、ロイは必死に現状把握に努めた。


(どれほど眠らされていたんだ? ここは、王都か? 買い手は着いたのか? やつは、どこだ?)


―――カツーン…………


 牢獄の前で、足音が止まった。


 ロイは視線を上げたが、光魔法のせいで目が眩み、相手の姿が良く見えない。逆光に浮かぶシルエットから、少女だということは分かった。


「誰だ」


 ロイが低い声で尋ねると、少女は身をこわばらせた。光が急速に小さくなり、ぼんやりと周りを照らす程度になる。


 ロイは、僅かに驚いた。


「見ない顔だな。子供が何しに来た。それともアンタが、俺を買うのか?」


 薄明りに照らされて涙を流す少女は、幼いがとても美しい。


「…………イ……」


 少女が、小さな声で何かを呟いた。


「ロイ」


 ロイは目を見開いた。


「ロイ。ごめんなさい。ごめんな、さい」


 少女がボロボロと大粒の涙をこぼす。


「誰だ。何故、俺の名を知って……る!」


 長い間声を出していなかったせいか、叫ぶと喉がきしんで上手く声が出せない。


「ごめ、なさ……い。そんなに、痩せ、て……! うぅ……もっと、はやく……」


 泣きじゃくりながら少女は謝罪する。


(何故だ。誰だ。意味が、分からない!)


「答えろ! お前は、誰」

「そこまでにしてもらおう」

「!?」


 不意に、光が消えた。


 否、少女の作る光とロイの間に、黒い影が降り立ったのだ。


「……ギャプ・ロスの精か。珍しい」


 黒い影が聞きなれない言葉を呟く。


「何を言って……」

「悪いが、話はここまでだ。彼女のことは忘れろ」


 影は少女を包み込むと、一瞬にして姿を消した。


「まっ…………て」


 転移魔法を使われた、ということを理解するのに時間がかかった。ロイは転移魔法を見たことがなかったのだ。


 再び暗闇に戻った冷たい牢獄で、ロイは混乱していた。


(あの少女は、俺を『ロイ』と呼んだ)


―――それは、父しか知らないはずの名だった。

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