第二十八話 三四郎の証明
そして、地獄の月曜日。
三四郎のシャツが入った紙袋を手に、由美子は学校へと向かっていた。
「……死にたぃ…」
三連休の間、きっと三四郎は、いつものランニングを続けていただろう。
しかし由美子は、とても会いに行くどころか、顔さえ見せられず部屋に引き籠って、泣いていた。
だらしなく酔った様を晒しただけでなく、負ぶってくれた少年の背中に嘔吐。
「っはああああっ!」
その時の記憶は無いものの、聞かされた話を思い出しただけで、この世から消失したい気持ちだ。
(と、とにかく…三四郎くんに、会わないように…)
三四郎くん、今日はちょっと風邪気味で休みとか、ないかしら。
などと教師失格な想像をしながら、重い足取りで校門へと辿り着く。
生徒たちの挨拶も耳に届かず、大きな溜息。
「はぁ…」
「お早うございます。松坂先生」
「ひいいっ–っ!」
選りに選ってすぐ近くの背後から、キリっとした三四郎の挨拶が聴こえる。
「ぉぉぉおはよぅっ–っ!」
由美子は慌てふためいて、小走りだけど全力で、その場から逃げ出してしまった。
(馬鹿っ、逃げてどうするのよっ!)
自己嫌悪が強くなる由美子であった。
朝のHRでも、三四郎からのいつもの熱と圧の視線は、全く揺るぎない。
それが、今は痛い。
(お、怒ってるわよね…うん、視線が痛いもの…)
由美子は結局、三四郎と視線を合わせることなく、HRを終えて逃げた。
休み時間、教員用のトイレで考え込む由美子。
「それでも…いつまでも 逃げ回っていても…」
今日のB組での授業が無いとはいえ、現状のままでは、何も解決などしない。
何より今の対応は、大人としても教師としても、全然ダメだろう。
「……自業自得だわ…」
介抱した挙句に背中へ嘔吐する女なんて、呆れられて嫌われて愛想をつかされて当然だわ。
いつぞやのヤキモチと違い、全ては自分の失態なのだ。
「……私、馬鹿…」
由美子は、三四郎と向き合う決意を固めた。
そして放課後。
由美子は三四郎を、屋上へと呼びだしていた。
普通は生徒相談室で話すのだけど、生徒と二人で女性教師が泣いている場面とかを万が一にも誰かに見られたりしたら、三四郎に迷惑が掛かるだろう。
というか、自分は泣く自信しかない。
だから由美子は、放課後の誰もいない屋上で、三四郎と向き合っている。
いつも通り、真っ直ぐの眼差しで見つめてくる少年の視線が、やっぱり痛い。
これから、三四郎の怒りをぶつけられて、最悪は罵られて、捨てられるのだ。
(…悪いのは私…っ!)
紙袋を奪い取られ、侮蔑の眼差しで見下され、捨てないでと泣いて縋り、やかましいこのゲロ女などとか罵られながら足蹴にされる。
(お、俺様三四郎くん…なんて尊いっ…♡)
などと場違いな想像もしてしまったり。
「由美子先生?」
「は、はいっ! ………んん」
(と、とにかく…何を言われても、謝って…!)
あらためて自分に言い聞かせると、一歩前に出て、紙袋を差し出す。
「あ、あの…先日は、その…迷惑をかけてしまって、ごめんなさい…。これ、あなたの服です…一応その、ちゃんと洗濯はしました から…」
竹田先生が洗ってくれたけれど、謝罪の心持ちでも、由美子はもう一度洗濯をした。
深々と頭を下げながら、黙って手渡す。
「はい」
差し出された紙袋を静かに受け取る三四郎の声からは、感情が読み取れない。
(…やっぱり、呆れられて…)
「そ、それじゃあ…」
少年を帰して、一人で屋上に残ろうと思っていたけれど、我慢できない。
走り去ろうとする由美子の行動を想定していたかのようなタイミングで、三四郎に腕を取られた。
「由美子先生」
「…離して…っ!」
「由美子先生、僕を見てください」
「ダメ…手を放して…っ!」
強く振り払おうとして、少年の力で身体ごと振り向かされると。
「由美子先生…」
由美子は泣いてしまっていた。
泣き顔を見られて、想いが溢れてしまう。
「ご、ごめんなさい…私、あなたに…最低の迷惑をかけてしまって…泣かれてもあなたが困るのは、解ってるのに…私…」
「最低の迷惑? ああ、土曜日のランニングをさぼった件ですか」
シレっと素っ頓狂な事を言う少年に、つい自責の感情が噴き出してしまった。
「ちっ、違うわよっ! 今あなたの服、返したじゅないっ! あの夜のっ、おっおっ–ぉ嘔吐のっ、事よっ!」
自ら言葉にさせられるくらい、少年の怒りが強いのか。
そして三四郎の言い分は。
「まぁ、確かに驚きました。僕自信、女性を背負ったのは祖母が転んだ時と従兄弟が幼かった頃と先日の下山の時くらいでしたし、ましてや背中への嘔吐は初体験でしたので」
よどみなくサラサラとよく言葉が出てくる秀才少年。
「そ、そうよ! 私が悪かったのよっ! だからもう–」
「由美子先生!」
泣きわめく女性教師の肩を、少年は強く抱いて、真っ正面から告げてくる。
「だからといって、由美子先生に対する僕の想いは、いささかの揺るぎも後退もありません! ただ、初めての経験で驚いたという事実と、あと…」
言いづらそうだけど、思い切って言う三四郎。
「よく考えなくても、由美子先生があれ程までに安心て、僕を受け入れてくれているのだと、正直、嬉しくもありました!」
「…う、うそよ…」
由美子を傷つけたくなくて、嘘を言ってくれている。
でもそれは、優しさなんかじゃない。
そう思う由美子に、三四郎は強く言う。
「由美子先生は気にされているようですが、それだけ僕の事を思ってくださっているのだと、今、確信いたしました! そしてっ、僕にはやはりっ、由美子先生に汚い部分など、ありませんっ!」
「そ、そんなとこ…っ!」
「今から証明しますっ!」
意気込んで言われた次の瞬間、由美子は上体を強く抱きしめられながら、唇を塞がれていた。
「んん…ん…」
今までのような、閉じた唇が触れ合うソフトタッチなキスではなく、頭を傾けられて開かされた唇の全てが隙間なく重ねられる、ディープなキス。
しかも塞がれた唇は、少年によって強く吸われてもいた。
由美子の頭の中が真っ白になって、思考も止まる。
そのまま、何時間にも感じる程の、数秒間のキス。
口の中だけでなく、心も体も頭の中も、全てが吸われてしまうような、優しくて強引な感覚。
夕暮れの屋上に、重なる二人の影が伸びる。
強張っていた心が蕩けて、全身の力が抜けてゆく。
黙ったままの口づけは、由美子の心を温かく波立たせていった。
「……はぁ…」
唇が解放されると、すぐ間近に少年の熱と圧の、まっすぐな眼差し。
「僕を、信じて貰えますか…?」
必死な眼差しが、心の奥まで突き刺さって、包み込まれてもいた。
信じて欲しいのは、許して欲しいのは、自分なのに。
こんな事までされてしまったら、もう、ダメだ。
「………っ!」
ずるい。
私もキスしたい。
馬鹿。
私もキスする。
心まで涙声だと、自分でも解る。
女性教師は自分の心に従って、今度こそ自ら、少年と唇を重ねていた。
誰が見ていても、かまわない。
少年の広い背中に両手を廻して抱きしめて、つま先立ちで、心と唇を捧げる。
由美子が精いっぱいのキスを重ねると、少年も応えて、更に深く唇が重なった。
頭を傾けて、唇同士の愛撫を交換し合う。
唇だけでなく頭の中まで、捧げ合う心に溢れさせられてゆく。
口内に少年の唾液が流れ込むと、喉が勝手に溜飲していた。
「……ぅ…」
キスが離れると、逆に視線を合わせていられないくらい、恥ずかしくなってしまっていた。
二人で並んで、金網越しの街を眺める。
自分からキスをしてしまった以上、もう誤魔化す事は出来ない。
私は、三四郎くんの事を…。
これからは、秘密の関係だと自覚しながら、三四郎との想い合いを育もう。
そんな決意をする由美子の心情を知ってか知らずか、三四郎は柔らかく告げる。
「由美子先生、時々 クラスの女子たちよりも、子供っぽい感じですね」
「ええっ、な、何よそれーっ!?」
顔中が真っ赤な由美子の抗議を、少年は愛らし気に笑っている。
(もぅ…)
年下だけど愛しい相手の笑顔にときめいてしまう心は、悔しいけれど心地よかった。
「どうせ、背中で吐いちゃうくらい 子供ですよ…!」
プイとソッポを向いたら、耳の中で自分のドキドキがうるさい程だった。
「そういうところが、愛しくて仕方がないのですけれど」
三四郎と見つめ合う由美子の瞼が腫れているのは、色々な感情に翻弄されたからだ。
三四郎は、何かを欲して、何かを必死に考えているっぽい。
フと思い出したように。
「ところで、由美子先生。僕も小学校の頃、社会科見学の車中で乗り物酔いをして、嘔吐しました」
真面目な顔で、言っている。
(キスしたいんだ)
と、すぐに解った。
「…ふふ、解りました♪ 三四郎くん♡」
もう一度、由美子が唇を重ねた。
~第二十八話 終わり~
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