第三話 HRの後で
「疲れた…」
アパート二階の自室へと帰ってきた由美子は、身体というより心の疲弊でグッタリしていた。
校長主催による教員たちの親睦会が、その原因ではない。
新任の女性教師でもあり若く美しい由美子に、親し気に話かける男性教師たちは数名いたものの、特別な下心を感じたわけでもなかった。
「葵くんめええっ!」
HR終了後、由美子はつい悔しくて、プンと美顔を背けて教室を後にしてしまった。
生徒たちは特に気づいた様子も無かったけど、三四郎だけは、担任教師の後ろ姿が見えなくなるまで視線で追っていたのが、背中でも解った。
(あいつ…まさか、校門で待ち構えていたりしないでしょうね!)
何と言っても、初対面の一秒後くらいでキスをしてきた男子だ。
成績が中の中とはいえコレまでの人生を勉学に勤しんで来た由美子が、過剰に警戒をしても仕方がないだろう。
身構えて、廊下の窓から校門を確認しても三四郎の姿は無く、ホっとしながらも僅かな寂しさを感じて無意識に指で唇に触れてしまっていたら、眼鏡男子は先回りして職員室の前で待ち構えていた。
「先生」
「ひゃああっ!」
「そんなに驚かれると、意識して頂いていると実感できて、嬉しく想います」
無自覚に頬が上気してしまう担任に対して、身長的にも上からの目線で、余裕な態度の三四郎である。
「な、何の用ですかっ?」
ジリと一歩下がってしまい、まるで犬を目の前にした猫の気分だ。
また何か、年下のクセにからかいに来たのかと思ったら、少年は神妙な顔で、頭を垂れてきた。
「先生、先ほどはすみませんでした」
「え…」
高身長な少年の頭が、由美子の胸の高さにまで下げられている。
さっきのキスの事かな。
「えっと…」
(って言うか、謝るわけ?)
キスをされた事よりも、謝られる事の方が頭にくる。
担任教師の気持ちを知ってか知らずか、三四郎は謝罪の言葉を続ける。
「新学期が始まって、まだ慣れていない環境に緊張してしまって、自分でもよく解らないままに行動してしまったと、恥ずかしい限りです。実に軽率でした。僕の無責任な行動で先生を傷つけてしまっていたら、心より謝罪いたします。申し訳ありませんでした」
「え…ぁ…」
不動の謝罪姿勢てキビキビと謝る少年に、帰宅を始めている生徒たちもチラと気になって通り過ぎる様子。
こんな場面、すぐにヘンな噂になってしまいそうだ。
キスを反省している事も引っかかるけど、軽率だったとか言われるともっと腹立たしい。
(人のファーストキスを、まるで足を踏んだ程度みたいにっ!)
人生で初めてというくらいにムカムカしているけれど、自分は教師の道を選んだのだ。
「あ、あのっ–そそその事はもういいから–」
怒りに囚われながらも、極力冷静に対処しようとしたら。
「先ほどの自己紹介の際、身長百七十五㎝と言いましたが、春休みの間に百七十六センチ五ミリに伸びておりました。謹んで訂正いたします」
「-っ知らないわよっ!」
伸び盛りな男子の身長誤差一センチ五ミリなんて、超ショートカットな少年のウッカリ寝癖よりも、どうでもいい。
キスの事かと思ってドキドキした自分にも腹立たしいし、そんな思いをさせたこの男子生徒が何よりも腹立たしい。
「い、言いたい事は、それだけ?」
もっと謝るべき事があるでしょう。
いや謝られても頭にくるけど。
年上だけど下からキリっと強い視線を送ってみたら、届いたらしい。
「ああ、もしかして制服の下に着ている赤いシャツは校則違反ですか? そのような校則は、生徒手帳には記載されていなかったと記憶してますが」
「シャツの話なんかしてないし校則違反でもないわよっ!」
つい大声で怒鳴ってしまった。
怒りで息を乱す年上女性に、男子生徒はシレっと応じる。
「はて、それでは先生は一体、何のことを仰っておられるのか。僕には全くサッパリ、見当もつきませんが」
(こ、こいつ~!)
細い眼鏡が不敵に輝いているあたり、きっと確信犯だ。
由美子は小声で、少年に核心を迫る。
「あ、葵くんあなたっ、初対面の女性に、あんな事して–」
と、距離的に届くギリギリの小声で責めたら。
「おや、もしかしてキス–むぐっ!」
予想外に大きな声で返されて、慌てて少年の口を両掌で塞いだ。
「こ、声が大きい~っ!」
小声で怒鳴って睨みつけるも、眼鏡の奥ではまた、鋭い視線でのしたり顔だ。
「…フ…」
「うぐぐ~…っ!」
三四郎が片手を上げて、一旦ストップしますとの意思を示す。
「!」
口に充てた掌を外そうとすると、少年の指が手首へと優しく強く触れられて、心臓が高鳴ってしまい、慌てて手を引く由美子だ。
「…先生に唇を触れられて、ドキドキしました。こんな体験は初めてです」
「ちっ、違–」
少し顔を近づけられて言われると、三四郎の唇に触れた掌が、熱く感じられてしまう。
「先生、一緒に帰りませんか?」
「突然なにを言いだすのよっ! ダメに決まってるでしょっ!」
万が一にも一緒に帰ったりしたら、途中でホテルに連れ込まれたりアパートへ上がられて唇以外も奪われたりするのでは。
などと、危機感とドキドキを覚えてしまう由美子に対して、三四郎は真面目に紳士宣言。
「大丈夫です。先生が心配されるような事は絶対にしませんし、ちゃんと先生の住居まで責任を持ってお送りします。今日は」
不埒な想像を見抜かれたようで、余計に慌てる正直な由美子。
「し、心配とかしてないしっ! っていうか『今日は』とか言ったっ!?」
「はい」
否定もせずに、正面から見つめてくる三四郎の心の熱量が、由美子の視界にもハッキリと感じられてしまう。
かえってさっきの心配がリアルになりそうな危機感に、小さくて柔らかい艶々な唇をキユっと引き締めて、意志を強く保つ。
たとえ冗談でも、学生が教師に対して口にする言葉ではないだろう。
いや学生同士でもダメだけど。
「あ、葵くんっ…そういう言い方は–」
足が震えながら、それでも教師として注意しようとしたら、職員室の扉が開いた。
「おや、失礼」
初老の男性教師が、廊下に出てくる。
「あっ、こ、こちらこそ…葵くんコッチ…!」
二人で出入口を塞いでしまっていたらしい。
担任教師が、男子生徒の袖を引っ張って入り口から避けさせると、男性教師はトイレに向かう。
わずかに空気感が変わったタイミングで、由美子は頭を冷静に切り替えられた。
「と、とにかく…さっきみたいな冗談は失礼です。それに今日は、先生同士の親睦会があるんです!」
だから一緒に帰れない。
と言ってしまっているようで、なぜ自分はこんな話をしているのか。
「解りました。それでは先生、明日からの学園生活、宜しくお願いいたします」
「こ、こちらこそ…よろしく…」
眼鏡の男子は綺麗に背筋を伸ばすと、見本のように正しい礼をくれて、静かに去っていった。
その後の親睦会でも、由美子は先輩教師たちと親睦を深めたけれど、頭の中は不遜な男子生徒のドヤ顔で一杯だった。
「ふう…」
帰宅して上着も脱がずにベッドへ身体を放り出すと、身体も頭も疲れが染み出てくる。
「明日から…授業だわ…」
その準備もあるけれど、やっぱり。
「……葵くん…本気なのかしら…」
新人の女性教師をからかっている。
という可能性だってある。
何と言っても、入学試験で満点という、一本松高校始まって以来の優秀生徒らしい。
「からかっているんだったら…ひどい話だわ…」
大学時代にも、教師になったOGやOBから、色々と聞かされてはいる。
『あの年頃の学生たちって、憧れと尊敬と恋がゴッチャになっちゃうものなのよ』
『特に女子はな。でもまあ、遅くとも卒業と同時に想いも薄らいでゆくみたいだから、申告に受け止め過ぎず、あくまで大人としてアドバイスに徹するベキだよな』
(…葵くんも、そうなのかしら…)
「でもそれで、いきなりキスとかする…?」
と、独り言を言いながら、つい掌を唇に充ててしまった。
「ハっ–ち、違うのこれはっ!」
自分から三四郎との関節キスを望んだみたいで、一人で慌てる。
「あーもーっ!」
頭の中で、今朝のファーストキスまで蘇る。
「やっぱりムカつく~っ!」
多くの先輩たちの真面目な体験談よりも、意識を占められてしまっている。
「やめやめ! 明日があるんだから!」
由美子は、熱めのシャワーでサッパリする事にした。
~第三話 終わり~
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