その目は(ほんとうに)見えているか
くれさきクン
第1話
ポイントカード
1
よく知られているようにポイントカードが導入されたのは今からちょうど二十年前のことである。それは街中にAIを積んだ監視カメラが設置されるようになった時期のことであり、それ以前と以後にこの街の歴史は区切られる。いろいろなことが変わった。それはあまりに大きく広範な変化であったため、二十年以上前のことを正確に思いだせる人間など存在しないのではないかと思えるほどだ。実際、人間の記憶に関する新しい研究によると、二十五年より前のことを五感の情報付きで正確に想起する機能を持った脳は、ヒト科の動物に限らず、この地球上には存在しないということである。思い出せないことは存在しないことと同じだ。だからポイントカードのない世界はこれまで一度たりとも存在しなかった、と言うこともできる。
少なくとも僕に関して言えば、世界は常にポイントカードと共にあった。そしてそこにはいつも監視カメラのあの冷たい眼差しがあった。僕が母親の膣口から頭を出した瞬間の映像は、街の中央サーバに今でも残っているはずだ。監視カメラは街のあらゆる場所に設置されている。あらゆる場所に。病院の処置室はもちろん、公衆トイレやホテルの個室、個人の住居の部屋の一つ一つにさえカメラの設置は義務付けられている。撮影された映像を見ることは誰にもできない。カメラに積まれた人工知能によって映像は解析され、さまざまな用途に役立てられる。それはもちろん犯罪に対する大きな抑止力になり、あるいは見えざる善意をこの街に蘇らせ、そしてあのポイントカードを生んだ。
今、僕のカードには7425という数字が表示されている。言うまでもなく、これが僕のポイントである。たまったポイントは役所に持っていけば景品と交換してもらえる。つい先日、母は4300ポイントで加湿器を手に入れた。古いものは、中で黴が発生して駄目になってしまったのだ。我が家がこの冬を乾燥や風邪と無縁のまま乗り切れたとすれば、それはポイントのおかげに他ならない。
また、つい先日僕は道に迷っていた外国人の老夫婦を助け、目的地である記念公園まで連れて行った。彼らは深く僕に感謝した。そして僕のカードに100点が加算された。
累計ポイントの大きさは就職活動における重要なチェック項目の一つになる。ここで少なくとも35000を超えていなければ、いわゆる一流と呼ばれる企業に入社することはできない。幸いにして就職活動は僕にとってまだ数年先の問題である。兄は我が家における最優秀のポイントゲッターであったため、さしたる苦労もなくこの関門をクリアすることができた。
兄は街で最も高いマンションに住んでいる。彼にはいくつかの習慣があるが、そのうち最もパーソナルで非生産的な行為は、夜、眠る前にスコッチを飲みながらメダルを磨くことである。17歳のとき、彼は川で溺れた子供を救助隊よりも早く救いだし、このメダルを授与された。そのときに得られたポイントで、兄は僕たち家族にフランス料理のフルコースをご馳走してくれた。カウンターに並んだ綺麗なナプキンや白い皿を見たとき、こらえきれず母親は涙を流した。
人に親切にすれば、ポイントがもらえる。監視カメラはどんな小さな親切も見逃さず、ふさわしいポイントに替えてくれる。
監視カメラとポイントカードの誕生により、街はあの紀元前に生まれ、滅びた哲学、すなわち性善説を取り戻した。何気ない他者への思いやりは明確な価値基準により評価され、景品や、より良い社会的地位の形で報いられることになった。犯罪の発生件数は大きく減った。どんなに人気のない道にも、手入れの行きとどいていない山中の獣道にさえ、5メートルおきのカメラ設置が義務付けられている。カメラに積まれたAIは犯罪行為の発生を確認すると、加害者(と思しき人物)に向って電極付きアンカーを放出し、100万ボルトの高圧電流を浴びせかける。これを受けて立っていられる人間はいない、ということであるが、実際に受けた人間が身近にいないので真偽のほどは分からない。ただ一つ言えるのは「そんなもの食らいたくはない」ということだけだ。
住居やトイレにまで監視カメラを設置することに、当時はかなりの反対があったらしい。それでも映像を解析するのが人間ではなくAIであること、そしてネットワーク全体を管轄する人工知能を管理する人間を監視するAIが、非常に優秀であることが広く知られるようになると、そうした声は小さくなっていった。プライバシーはこれまでどおり保たれる。むしろAIとカメラという二重の檻によって、これまで以上に厳重に守られる。
そうした社会しか知らない僕にとって、それは歓迎すべきことであるように思える。いずれにせよ人間にとって最も重要なプライバシー――すなわち心は、手つかずのまま残されるのだ。
行動に起こさなければ、目に見える形をとらなければ、カメラに撮られることはない。つまり心の中は自由だ。そこではなんだって起こり得る。男女のべつ幕なし片っ端から刃物で刺して回ることも、意中の女の子を無理やり襲うことだって簡単にできる。もちろんそんなことはしない。現実ではもちろん、心の中でもしない。する意味がないからだ。でも時々そうした考えが心に浮かぶことがある。
やろうと思えば、僕には何だってできるのだ、と。
2
そのテロリスト集団が現れたのは三か月ほど前のことだった。
初めはごく小さな落書きだった。橋の下に描かれた、小さな手こぎ舟の絵。オールが二本。波もなく乗り手もなく、ただ舟だけ。
この街の壁に落書きが描かれたのは二十年ぶりのことだった。監視カメラが設置されて以来、そんな愚かな軽犯罪を犯す人間は一人もいなくなった。落書きの報いが電気ショックと30日間の拘留では、割に合わなさすぎる。家で庭でもいじっていた方がましだ。
この落書きを最初に目にしたのは、もちろん監視カメラだった。カメラが絵を捉えたとき、そこにはもう誰もいなかった。パレットも筆もなかった。残されていたのは舟の絵と、監視カメラの記録だけだった。カメラには誰も映っていなかった。誰かが映っているべき時間の映像が、そっくり抜け落ちていたのだ。
二件目の標的にされたのは小学校の体育館だった。ステージの壁にでかでかとイトマキエイの絵が描かれた。もちろん小学校にもカメラは設置されている。そのカメラにも絵を描いた人物は映っていなかった。まるまる4時間分の記録が削ぎ落されていた。
メディアは二十年来最悪のサイバーテロとしてこの事件を扱い、警察はメンツとコケンを守るため、総力を結集して犯人を捕まえようとした。そして、そうした世間の動きをあざ笑うかのように三度目、四度目の事件が起きた。三度目は山の絵、四度目は花の絵。これらの絵をプリントしたTシャツをはじめとするグッズは飛ぶように売れ、雑誌はこぞってこの新しい犯罪集団の特集記事を組んだ。専門家たちは日夜額を突き合わせ、彼らの正体がなんであるかについて話し合った。隣街からのサイバー攻撃であるという説が有力だったが、隣街は公式に声明を発表し、この説を真っ向から否定した。そしてあまり勝手なことを言うようなら、街の中心に中性子爆弾を落とすと言って僕たちの街を脅した。もちろん武力衝突は起らなかった。武器を保管する倉庫には大量のAIつきカメラが設置されていて、人道的な理由でなければ中の物を取り出せない仕組みになっているのだ。
落書きは周到に、そして手早く行われた。多い時期は一日一件のペースで、十日間ぶっ続けで新しい落書きが描かれた。
最初の落書きが描かれた橋桁は、ちょっとした観光スポットになった。小さな舟の絵を見ようと、連日大勢の人が橋の下を訪れた。あまりたくさんの人が来たので、街は新しい条例を作らなければならなくなった。すなわち二十人を超える人数で、橋の下に入ってはいけないという条例である。違反した者にはもちろん電気ショックと拘留の報いが与えられる。
ビリビリビリ。
新しい落書きが描かれるたび、そこが新しい観光スポットになった。僕は28件目のスポットにおける最初の来場者だった。つまり、その羽を広げた蝉の絵を僕が見つけたとき、塗料はまだ乾いていなかった。人差指の先の濡れた感触、そして黒銀の塗料の輝きを僕はきっと死ぬまで忘れないだろう。もう一度その絵に触れたとき、塗料は乾いていた。速乾性なのだ。
僕はたまたま落書きを発見したわけではない。過去のデータを元に、次に彼らが現れる場所を予測し、そうして絞られたいくつかの候補の中から、更に綿密な計算によってこの場所を割り出したのだ。
僕はこのテロリストにまいっていた。めちゃくちゃかっこいいと思っていた。理由は分からない。でも僕と同じようにまいっている人は大勢いた。ただ、実際に彼の元にたどり着いたのは僕だけだった。
3
29件目の落書きは細枝の上で羽を休める鳥の絵だった。僕が見たとき、その鳥にはまだ羽がなく、羽があるべきところには細い筆があった。そして筆は、老人の手によって握られていた。
がらんとした夜の貯水施設の壁に、老人が空色の鳥の絵を描いていた。彼の他には誰もいなかった。もちろん、ドアのところに立っていた僕を勘定に入れなければの話だが。
「なんだ」と彼は筆を止めずに言った。「誰も入って来られんはずだと、そう聞いていたがな」
老人は背後の天井に一つだけ灯った白い蛍光灯の光を浴びていた。ブルーのウインドブレーカーに黒っぽいジーンズ。紺色のキャップは後ろのバングルが外れかけている。そこから漏れた白髪は長くうねり、あちこちに跳びはね、白いライトを眩しいくらいに反射させていた。彼は自分の背丈ほどもある椅子に腰かけていた。
「何か用事でもあるのか?」
彼はやはり背を向けたまま言った。いつの間にか鳥には羽が生えていた。みるみる、一本一本、次々と羽根が彼の手によって紡がれてゆく。
「あなたがテロリスト?」僕はどうにかそれだけを尋ねた。
「いかにも」と彼は言った。
それ以上は何も言わなかった。
「鳥の絵、ですか?」
「他の何に見える?」
沈黙。
「どうやってここが分かった?」と唐突に彼は尋ねた。鳥は今や一羽ではなく二羽になっていた。老人は三羽目の鳥を描こうとしているところだった。
「傾向から予測したんです」
「傾向?」
「つまり、あなたの絵が出現した地点を地図に記入し、それを結ぶと、一つの絵が浮かび上がる」
「ふむ」
「順番が大切なんです。絵の題材を文字に起こし、頭から順に、文字に1、2、3と番号をふっていく。そして絵が描かれた順番と、同じ番号の文字をピックアップする。今回の場合は29番目で絵の題材はLight blue birds taking a rest on the thin branches……つまりNだから――」
「わかった」
彼は左手を挙げたが、右手の動きは止まらなかった。「あんたの言う通りだ。おれのところまで辿りついたんだから、あんたが正しいに決まってるんだ――絵が見たければ好きに見ればいい。見られたって絵が汚れるわけじゃない」
三羽目の鳥は今にも枝から飛び立とうとしていた。目をつぶって、開けた時にはもうどこかに消えているのではないかと思えるほどだ。
「そんなに遠くから何が見える?」
僕は入口を離れ、ゆっくりと、できるだけ足音を立てないよう老人に近づいた。
「壁に近づけ。ちゃんと目で見るんだよ」
僕は壁に近づいた。老人の高い椅子の傍らに立った。背にライトの熱を感じる。暑いくらいだった。鳥は見事だった。羽根は滑らかで柔らかく、あらゆるものをはじき返すように輝いていた。翼の奥の筋肉の動きが分かる。薄く開かれたくちばしの奥から放たれる軽やかなさえずりが耳に聞こえる。それはまるで生命そのものみたいに思えた。老人の手で鳥は生まれ、そして飛び立とうとしているのだ。
「すごい」
僕の口は勝手に動いていた。
「すごい」と老人はつまらなさそうに僕の言葉を繰り返した。「すごくない。鳥はこういうふうに休むし、こういうふうに飛ぶ。あんたらがそのことを、よく知らないだけだ」
何か言わなければと思ったが、うまく言葉を発することができなかった。彼は枝を仕上げにかかっていた。
「カメラは、切られているんですよね?」
「そうでなきゃ、おれもあんたもビリビリだ。あんたは翌朝には目を覚ますだろうが、おれはそのままおだぶつだ。心臓があまり強くないんでな」
「仲間の人が、カメラを止めているんですか?」
「雇い主」と彼は言った。
「雇い主?」
「おれは街に雇われて絵を描いてる。おれが絵を描くときは、そのエリアの監視カメラがすべて切られる。そういうことになっているんだ。テロリストなんてのはでっちあげだ。警察になんか追われてないし、給料だってちゃんともらっている。悪くない給料だ。街はおれの絵を必要としているんだ。なぜだか分かるか?」
分からない、と僕は答えた。
「監視カメラは止めることができると、皆に思わせるためだよ。監視は完全じゃない、抜け道がある、そう街の人間に思い込ませたいんだ。でも実際はそうじゃない。抜け道なんてどこにもありはしない。おれが落書きできるのは、街がおれのためにカメラの電源を切ってくれているからだ。これは、街が市民のために用意した息抜きなんだよ。そういうものがないと、皆まいっちまうんだ」
彼はしばらく言葉を切った。もちろん右手の動きは止まらない。
「若いの、あんたは知らないだろうがな、街のあちこちにカメラが置かれ始めたとき、それはもう、たいした騒ぎだった。いつも誰かに覗かれている生活なんてまっぴらごめんだと、みんなが口をそろえて言った。反対のデモやら集会やらがあちこちで起こったよ。そのときも街は息抜きを用意した。するとどうだ、自然にみんな大人しくなっていった。息抜きがあってはじめて、人間は天秤を使えるようになるんだよ。そして二つのものごとを比べられるようになる。監視カメラがある世界と無い世界、どちらの方がより優れているか?それについては、あんたも知っているとおりだ。街には監視カメラがあふれ、でっちあげのテロリストがこしらえられた。おれのことだ」
老人はパレットを二つにパキンと折ると、ゆっくりと足元を確かめながら梯子状の椅子を降りた。絵は完成していた。三羽の空色の鳥が細枝の上で羽を休めている。そのうちの一羽は今にも飛び立とうと身を縮めている。枝には幾つかの小さな蕾がついていた。あと二週間もすれば美しい花が開くだろう。もちろん二週間経とうが二カ月経とうが、花は開かない。これは絵なのだ。
「ただの落書きだ」と老人は言った。「おれは帰る。仕事が終わったら、とっととその場を立ち去るのが決まりなんだ。あんたも早く帰った方がいい。あまり遅くに出歩いているとポイントカードの点を減らされるぞ」
「絵の題材は、あなたが選んでいるんですか?」
「そうだよ。何を描こうが、街にとってはどうでもいいんだ。何なら、次はあんたの好きなものを描いてやってもいい。何がいい?公序良俗に反しない題材なら何でもいい」
公序良俗。
「あなたの選んだものがいいです。あなたの絵が好きなんです。嘘偽りなく」
「そうか」と彼は言った。「そいつは知らなかった」
4
もちろん僕の言葉は純粋な真実ではなかった。少なくとも過去において、それは誤りであった。僕があこがれていたのはテロリストとしての彼の姿だった。街中にあふれる監視カメラをものともせず、落書きだけを残して消え去ってしまうそのやり方に、僕は心惹かれていたのだ。
実際の彼はテロリストではなく、ウインドブレーカーを着た白髪の老人で、高給取りの公務員だった。舞台の裏のみすぼらしさに、幻滅しなかったと言えば嘘になる。
でもそれ以上に、彼の描いた絵は素晴らしかった。このテロリズムの全てが茶番であったところで、絵が本物であることに違いはなかった。老人が踵を返した後も、僕はしばらく絵の前を動けなかった。僕の姿は復活した監視カメラによって捉えられていたかもしれない。どちらでもいいことだ。電極付きアンカーは飛んでこなかったし、そもそも僕が落書きの犯人でないことは、警察が一番よく知っているはずだった。
とにかく絵の前にはすべてが些細なことに思えた。老人の言葉さえどうでもよかった。絵だけが、聞き取れぬほどの言葉を僕に投げかけていた。僕はその言葉にただ耳をすませていた。
それから僕は彼を追い回すようになった。弟子や助手になったわけではない。僕に絵を描く才能は無かった。描きたいと思ったこともなかった。ただ誰より早く彼の描いた新しい絵を見たい一心だった。その右手によって新しい生命が生み出される瞬間を見たかった。その瞬間は奇跡に近かった。彼の描く花や鳥や昆虫の殆どは、彼の記憶の世界にしか存在しない生物たちだった。彼がまだ子供だった頃、これらの生物は複雑な事情により、地上から姿を消してしまったのだ。老人は彼らにふたたび生命を与えた。
「昔の話を、あんまりしたくはないんだがな」と彼はいつも言い、昔のことを語った。「いろんなことが今とは違っていたよ。もっとたくさんの虫が飛んでたし、鳥の声だって聞こえた。花なんか植えなくたってそこらじゅうに咲いていた。絵について学びたければ、紙とペンを持って外に出ればよかった。描くべきものはいくらでもあった。毎日、朝から晩まで、飽きもせず描いていた」
云々。
彼とは長い時間を一緒に過ごした。30件目以降の落書きは、すべて僕の目の前で描かれたものだ。僕はそのことを誇りに思っている。でも彼と会話らしい会話をした記憶は殆どない。彼は壁に向かって話したし、その言葉も実際のところ、僕に向けられたものではなかった。それはたとえば、自動車のマフラーから垂れる液体みたいなものだった。彼の意識は絵と筆に向けられていた。そしてそのうわずみが、言葉の形をとって彼の口からこぼれ出ていた。それに対して、僕は相槌を打ったり、意見を求められたときには意見を述べたりした。でも、それは何も言っていないのと同じだった。僕の意見に彼が反応を示したことは一度もなかった。
僕が喋ったあとは、長い沈黙が続いた。まともな人間なら耐えられなくなるほどの沈黙の後、彼はまた絵に向って語り始めた。それは昔話だったり、塗料のことだったり、花や、昆虫のことだったりした。聞いたことのない話ばかりだったが、何度も同じ話をするので内容を覚えてしまったものもある。
たとえばキンイロカゲボシというトンボの仲間は、メスがオスを追いかけて交尾をする。オスはメスの羽音を聞き分け、子孫を残すにふさわしい個体を吟味するのだ。そして交尾が終わるとメスに食べられてしまう。そんなことを何世代にもわたって繰り返している。交尾が終わったらすぐ逃げ出すという重要な本能を、神様がセットし忘れたのだろうと老人は語った。
メスは一生のうち三度卵を産む。もちろん、三匹のオスが犠牲になる。
キンイロカゲボシの羽音はセロハンテープを思い切り引っ張ったときの音に似ている、と老人は言った。夏の終わりにはそうした羽音が町のあちこちに聞こえていた、らしい。
5
「秘密を教えてやろうか」と彼は53件目の落書きを描きながら言った。それは仄かに黄色く色づいたユキミソウが、溶けかけの雪の中から顔を出している絵だった。
「おれは本当は、監視カメラなんてこの世からなくなっちまえばいいと思ってるんだ」
「何故です?」
返事はなかった。老人は絵に集中していた。
ユキミソウのおしべの先にちいさなちいさな水滴がついていた。
「監視カメラがあるおかげで、犯罪も減ったし、みんな人助けするようになったし、いいことばかりじゃないですか」
僕も絵に向って喋った。僕たちの興味は絵の中にしかなかった。考えてみれば、僕は一度も彼の顔を正面から見たことがない。
ユキミソウの葉の色は少し白っぽい緑色だ。雪解けの濁った水の中にあって、それは生まれたての赤子のように見えた。
「わからん」
かなり長い時間が経ってから彼はそう言った。あまりに長い時間だったので、何の話をしていたか僕は忘れてしまっていた。
「いいことばっかりなのは分かっているよ。でもおれはあのカメラが嫌いなんだ。街じゅう回って、一個ずつぶっ壊してやれたらどんなに楽しいだろうと思う。それこそ本物のテロリストになって……」しばらくして老人は首を振った。「あーくだらん。だから監視カメラは嫌いだ」
「理由になってませんが」
「理由なんかないんだよ。間違っているのはおれだ。それはよく分かってる。カメラがみんなの役に立っていることも分かってる。でもな、あのカメラの前で絵を描いてるとな、うるせえどっかに行きやがれ、じろじろ見てんなこの野郎って、そんなふうに言ってやりたくなるんだよ。カメラの向うに誰もいないって分かっていてもな。いや、分かっているからかもしれん。契約も何もかも反故にして、筆なんか折ってパレットも捨てて、どっかに逃げちまいたいような気持になる。そして監視カメラなんかどこにもない、原っぱの真ん中にでもキャンパスを持ちだして、絵を描きたいって思う。でももちろんそんなことはできない。どこにも逃げ場なんかねえんだ。途中でカメラに見つかって、あのビリビリを食らうのがオチさ。それも悪かねえよ。少なくともカメラから逃げることはできる。でもそうすると、二度と絵は描けなくなる。死人に筆が握れるってなら話は別だがな。死んじまったら、もうなにも残らない」
僕は何も言わずユキミソウの絵を見ていた。そのふっくらとした花の上には目覚めたばかりであろう小さな蜂が飛んでいる。
「おい」と老人は言った。「何とか言ったらどうだ」
そう催促されるのは初めてだったので、僕は少なからず動揺した。何か適当なことを言おうとしたが何も浮かばなかった。
ふん、と彼は鼻を鳴らした。
6
僕は監視カメラに対して何の感情も抱いていなかった。彼のような憎悪も抱いていなければ、感謝しているということも特にない。僕が生まれる前から、街には監視カメラが溢れていた。それはたとえば義務教育制度のように、僕にとってはあって当たり前のものだった。
でもこれだけは確実にいえる。監視カメラは僕たちからいくつかのものを奪い去った。それはあまりに緩慢な変化であったため、奪われたことにすら殆どの人は気づかなかった。僕が気づいたのはカメラのない世界――つまり老人の傍にいたからだ。
その日は山道に続く小さなトンネルが仕事場だった。時刻は午前2時を回っていて、辺りには車輪の音ひとつ聞こえなかった。遠く、微かに虫の声が聞こえる。彼は爬虫類の絵を描いていた。尾が長く、大きな目玉が両側に飛び出している。皮膚は乾いていて、柔らかそうに見えた。きっと鳥のおやつにされてしまうような弱々しい生き物なのだろう。
老人が倒れたのは二匹目の爬虫類を描きあげた直後だった。まず、だらりと左手が垂れた。そしてパレットが地面に落ちた。場違いに甲高い音がトンネル中に響いた。右手だけが同じ場所に固定され、ぷるぷると震えていた。
「なあ」と彼は言ったが、それ以上は続かなかった。上半身がぐらりと揺れ、彼はそのまま真後ろに崩れ落ちた。すんでのところで地面とは衝突せずに済んだ。彼の身体の下に、僕が自分の身体をねじ込んだからだ。
老人の上半身は信じられないくらい重かった。
僕は彼に声をかけた。返事はなかった。僕は苦労して体勢を整え、彼の身体を椅子からゆっくりと下ろした。右手はまだ筆を握っていた。青いウインドブレーカーの裾に濃い緑色の塗料がついた。
老人のうめき声が聞こえた。
「しっかりしてください」と僕は叫んだ。「今、救急車を呼びますから――」
そこで僕は気づいた。
僕は救急車の呼び方を知らなかったのだ。
自分を弁護するつもりはない。でもこの街において救急隊の呼び方を知っている人間は、専門職に就いている者を除けば、ほとんどゼロに等しい。
理由は単純明快で、その必要がないからである。誰かが倒れたとき、救急車を呼ぶのは監視カメラに搭載されたAIの仕事だった。だから誰がいつどこで倒れても、救急隊は五分以内に、その人物のもとに駆け付けることができる。このシステムによって臨床救急における救命率は格段に向上した。それは議論の余地なく素晴らしいことであるはずだった。
僕は助けを呼ぶために叫んだ。もちろん誰も来なかった。誰も来ないような場所を選んで落書きをしていたのは老人自身だ。だいたい誰が来たところで、救急隊の呼び方など知っているはずもない。
僕は老人の身体をどうにか背負い、トンネルの終わりに向って足を踏み出した。監視カメラのある場所まで出れば、AIが救急隊を呼んでくれるはずだ。他に方法はなかった。幸いトンネルはそれほど長いものではない。人一人背負って、歩ききれない距離ではない。
「しっかりしてください」と僕はもう一度叫んだ。老人はうめき声を返した。
「何です?」
老人はまた呻いた。僕は問いかけを続けながら足を動かした。
顔に何かついている気がした。後になって気づいたことだがそれは汗だった。汗は顔だけでなく僕の身体じゅうを濡らしていた。四肢のあちこちが悲鳴を上げていた。人を背負って歩くのは、これが初めてのことではない。でも意識のない人間を背負うのは初めてだった。単純な数字以上の重みがあった。
老人はまた何か言おうとした。
「なんですか?」
とりょ、と彼は言った。少なくともそう聞こえた。
僕は何も言わず耳をすませた。僕の頭の横で、彼の口が微かに動いているのを感じた。「とりょう」と彼は言った。
「……塗料が何ですか?」
「えに」と彼は言った。
その後何度問い返しても返事はなかった。一定の時間を置いて、うめき声が聞こえるだけだった。
トンネルの終わりまで、どれほどの時間がかかったのかは分からない。僕は監視カメラの前に立った。キュラキュラという音が聞こえた――カメラの中で絞りが動いているのだ。僕たちの姿に焦点を合わせている。
僕は老人を背負ったまま大きく息をした。意識的に呼吸をしないと、胸がつぶれてしまいそうだった。汗はまだ止まっていなかった。
「……何やってる」と老人がつぶやくように言った。「塗料をぶっかけろ」
声は小さかったが、それは意味の通る言葉だった。僕は息を整えながら老人の声に問い返した。「何、ですって?」
「あれは、未完成なんだよ。カメラが戻る前に、潰してこいよ」
「もうじき救急車が来ます。もうちょっとで――」
「いいから絵を潰せって、言っているだろ」
老人はそう叫んだ。大声は出なかったが、叫んだことには違いない。
「おれの身体は、そのへんに転がしておけ。いいから行け」
「でも――」
「いいから行け」
僕は周囲を見渡し、道路の端、コンクリートブロックが斜めに積まれているあたりに老人を下ろした。壁に背をもたれさせる。苦しげな様子は無かった。静かだ。静かすぎるくらいだ。一体その身体の中で何が起きているのか、僕には想像もつかなかった。
「いけ」と老人は繰り返した。「いけ」
僕はトンネルを逆走し、はじめに目についた赤い塗料を、容器ごと絵の上にぶちまけた。いったい何故こんなことをしなければいけないのか分からなかった。僕にとって、たとえ未完成であれ、彼の絵を台無しにするのは自分の体を傷つけるように辛いことだったのだ。だからろくに絵の方も見ず、僕は塗料の容器をぶちまけ続けた。色とりどりの模様が壁の上に残った。爬虫類の痕跡はどこにも残らなかった。
遠くにサイレンの音が聞こえた。僕はその場に転がっていた筆をポケットに収めて走り出し、途中で塗料の空容器を思いきりけとばした。
僕が戻ったとき、老人の姿はすでに消えていた。
サイレンの音が遠ざかってゆく。
7
翌日、僕の携帯端末に、街の中央病院から電話がかかってきた。老人には身内がおらず、連絡のつく人間は僕しかいなかったのだと医師らしき女性は説明した。
「あなたが一緒にいたことは不幸中の幸いでした。もっとも不幸の度合いが大きすぎて、全体としてはマイナスですが。運が悪いとしか言いようがありませんね、故障したカメラの前で倒れるなんて――あなたたち、いったいあんなところで何をしていたんです?」
「彼とは関係のないことです」と僕は答えた。
「それはどういう意味でしょう?」
「治療はうまくいったんですか?」
「可能なかぎりにおいては、ですがね」特に気にしていないように、彼女は言った。「あと少しでも遅れていれば命がなかったでしょう。あなたは彼の命を救ったんです。ポイントがたくさん付くはずですよ。親御さんに美味しいものでもご馳走してあげてくださいね」
もちろんポイントなど付かなかった。付いたはずのポイントは、老人を路上に放置したことで相殺されたのだ。
通話を終えると、僕は学校を抜け出して病院に向った。もちろんこの行為も記録に残り、僕のポイントは大きく減らされる。僕のポイントはこの二カ月のうちに底を尽きかけていた。もちろん度重なる夜間徘徊や無断外出が原因だった。
くそくらえ、と僕は誰にともなく叫んだ。
老人は四人部屋の一角、窓側のベッドの上にいた。
日の光が彼の横顔に複雑な陰影を落としている。ウインドブレーカーの代わりに病衣をまとっていた。言うことを聞かず伸び放題になっていた白髪は勢いを失い、肩に向って垂れさがっていた。日中に彼の姿を見るのは初めてだった。そして絵のない場所で彼に会うのも初めてだった。彼の姿がこれほど小さく見えたのも初めてだった。
僕は彼についてほとんど何も知らなかったのだ。
「こんにちは」と僕は言った。
「絵を潰してくれたらしいな」と彼は言った。実際には、この文字の通り発音した訳ではない。彼の喋り方は不自由だった。麻痺があるようだった。
「ありがとう」と彼は言った。「そのことだけに限れば、あんたがいてくれて、よかった」
「お役に立てて嬉しいです」
「脳の血管が詰まっちまった」と彼は僕を無視して言った。「心臓で作られた血の塊が、すぽーんって飛んで、脳みその血管を塞いじまった。おかげで、こんなありさまだ」
彼はもぞもぞと身をよじった。苦しそうに顔をゆがめ、耳を右肩に近付けている。身体全体がぷるぷると震えた。僕は思わず両手を差し出した。差し出しただけで何かに触れたわけではない。どこに触れればいいのか分からなかった。
「おれが何をしているか分かるか?」
「いえ」と僕は答えた。
「右手を上げようとしているんだよ」
身体の震えがおさまった。彼は天井を見上げたまま黙った。でも彼は天井など見ていなかった。焦点が結ばれていたのはその先だった。
「左はほら」彼は左手を上げた。「動くんだよ。なんでか、右が動かない。逆ならよかった。左手なんて、たいした役にも立たねえのに、いっちょまえに動きやがる」
彼はそう言って左手を自分の腿のあたりに叩きつけた。
ボフ、と音を立てて布団が彼の左手の形にへこんだ。彼は何度も何度も左手で布団をたたいた。「なんでだよほんとに」と彼は言った。声に力はなかった。でも左手の動きには力がこめられていた。たたけばたたくほどその力は強くなっていった。
僕は力をいさめるように、彼の左肩の上に手を置き、腕に沿って滑らせた。彼の筋肉は何度か収縮しただけで、思いのほか素直にそれに従った。
午後の日差しが僕たちの手を焼いている間、彼はずっと天井を見上げていた。目は空っぽで、そこには涙さえ入っていないように見えた。
8
テロリストは消えたのだと、街の人たちが理解するまでに一カ月かかった。その間、人々の関心は彼や彼の絵から少しずつ遠ざかっていった。いずれにせよ息抜きは終わったのだ。街は平和で、誰も不満は洩らさなかった。
街で最も流行遅れの雑誌さえ彼の記事を扱わなくなったころ、彼の最後の絵が競売にかけられた。爬虫類の絵の上に、僕が塗料をぶちまけて完成させた、あの落書きのことである。突然の画風の変化は多くの批評家たちを戸惑わせた。情熱と諦観のせめぎ合いが生み出した一瞬のきらめき云々と評価する者もいれば、素人の落書き同然とこき下ろす者もいた。
いずれにせよ絵は落札された。落札したのは、監視カメラを作っているメーカーの社長だった。彼は街で最も高いマンションの最上階に住み、五機のジェット機を所有していた。彼はジェット機と同じ値段で僕の絵を落札した。絵はジェット機より小さく、しかも静かだと彼は言った。
老人がベッドから起き上がれるようになるまで十日かかり、杖を使って歩けるようになるまでひと月かかった。
ここまで回復したことは奇跡に近いと、担当の若い医師は言った。
「本当にたいしたものですよ。弱音ひとつ仰らない。リハビリは毎日、誰より熱心に取り組んでおられます」
老人はまた、左手で絵を描くことに関しても熱心だった。彼のもとを訪れるとき、僕はいつも新しいスケッチブックを買って行った。彼はなにも言わずそれを受け取り、そして何も言わず、そこにあらゆる絵を描いた。もちろん出来栄えは、以前のものとは比べるべくもない。僕はそのことに少なからずショックを受けた――もう本当に、あの輝くばかりに素晴らしい絵を見ることはできないのだ。彼も同じことを感じているはずだった。僕が感じているより強く、深く、重く、その事実を、左手によって新しい絵を生み出すたび、実感しているはずだった。
一枚の絵を描き上げると彼はスケッチブックをめくり、新しい絵を描いた。さながらスケッチブックの上に住む鮫のように、彼の筆は走りつづけた。看護師はそのうちの何枚かを気にいって、みんなにも見えるように、病棟の壁に貼ってくれた。何人かの患者が彼のファンになり、病室を訪れた。
彼は誰とも口を利かなかった。
「なんでお前は描かないんだ」とあるとき彼は僕に向って言った。彼はもちろんスケッチブックに向って、左手で絵を描いていた。見たこともないサカナの絵だった。左手で絵を描き始めて以来、彼はひどく無口になっていた。絵を描きながら僕に話しかけたのはこれが初めてだった。
「お前の右手は動くんだろ。どうして描かないんだ」
「見るのは好きだけど、描くのは苦手なんです」
「お前の横ではな、死にかけのじじいが、生まれてこの方ろくに使ったこともない左手を使って、いっしょうけんめい、絵描きのまねごとをしてるんだぞ。ちょっとくらい、描いてみようと思え」
「紙がないですし」
彼は驚くほどのスピードでベッドの傍らから新品のスケッチブックを取り出し、僕に差し出した。「何でもいい、好きなもの描いてみろ」
僕はスケッチブックを受け取った。弱り果てた。僕は本当に絵が苦手なのだ。でもこれ以上言い逃れもできそうになかったので、結局あきらめて通学鞄からペンを取り出し、まっさらな画用紙に思いつくまま、飛行機の絵を描いてみた。
「できました」
「見せてみろ」
僕は飛行機の絵を見せた。
老人はしばらくの間言葉を失っていた。新たな梗塞が生じたのではないかと不安になりかけたころ、「これはひどい」と彼は言った。「下手だなお前」
「下手だって、言ったじゃないですか」
「これは何を描いたんだ?」
「飛行機です」
ひこうき、と彼は呟きながら改めて僕の絵に視線を落とした。目を細め、近づけたり遠ざけたりしながら、おそらく『ひこうき』らしきところを僕の絵の中に探していたのだろう。
「おれはてっきり、アザラシか何かかと」
「アザラシ?」
「海の中で暮らしてる動物だよ」と彼は言い、自分のスケッチブックにアザラシの絵を描いた。アザラシは頭が大きく手足が短く、つるっとした胴体をもった動物だった。
「僕の絵とは、似ても似つきませんが」
「お前が下手なんだよ」と彼は言った。「いいか、おれが今から言うものを描け。描き方を教えてやる。そんなに時間はないが、一時間もすれば少しはましになるだろう」
「一時間……」
「おれはそれほど暇じゃねえんだ。絵を描かなきゃいけないんだ」
Q.彼の指導によって、僕の画力は上達したか?
A.イエス・ノー、半分ずつくらい。
たとえば今、僕の目の前にある小型スピーカーの絵を描いてみたとする。そして出来上がったものを、小学三年生の教室の壁に飾ったとする。壁には他にもクラスの子供たちが描いた元気いっぱいの絵が並んでいる。
たぶん僕の絵はそれほど違和感なくそこに馴染むだろう。いささか元気がなく、線が細く、自分の才能への諦めがにじみ出ていることを無視すれば。
でも僕が遠い森の中でしずかに眠る小鳥の絵を描けば、それを飛行機やアザラシと見まがう人はいないはずだ。もちろん「遠近法って言葉、聞いたことある?」云々、それくらいの皮肉は言われるかもしれない。でも誰が見ても「小鳥だね」と言うと思うし、少しでも想像力のある人なら、その鳥が羽をふくらませていること、つまり寒い地域で暮らしている鳥であることも分かるはずだ。
彼が僕に教えたのは、そのものにとっての核を見定めることだった。
「大事なことなんて、そうないんだ」と彼は言った。「骨だけにしちまうんだよ」
「骨?」
「たとえ話だ」と彼は言い、骨の絵を描きはじめた僕をスケッチブックの角で突いた。「ぜんぶを同じように見ちゃダメなんだ。あんたにとって、アザラシと飛行機は別物だろう?」
はい、と僕は言った。
「じゃ頭で考えるんだよ。なんでアザラシは、飛行機じゃないのか。なんで飛行機は、アザラシじゃないのか。そうすると、何がアザラシで、何が飛行機なのか分かってくる。これで分からないようなら、お前には才能じゃなく、考える力がないってことになる。本当にそうなのかもしれんがな」
描き直した飛行機の絵は、今も僕の机の引き出しの中に眠っている。壁に貼って飾るほどの出来ではなく、捨ててしまうほど酷いものでもなかった。少なくとも、それは飛行機以外の何にも見えなかった。「飛行機だな」と老人も言った。左手で僕の絵を持ちあげ、頭の上に掲げた。
「いいか」と彼は言った。「こうやって飛ぶんだよ、飛行機は。海の中にはいないんだ」
9
それから三日後、彼は退院した。
住む場所はあるのか、と僕は尋ねた。馬鹿野郎と彼は言った。
「おれを何だと思ってるんだ。高給取りだぞ」
もちろん彼は元・高給取りだった。右手がいうことを利かない限り、彼には高給に値する仕事などできないのだ。左手でも彼は上手に描いた。でもそれは上手なだけだった。この手で落書きをしたところで、模倣犯扱いされることは目に見えていた。
「けっこういい家に住んでんだよ。あれ、見えるだろ」
彼が指差したのは街で最も高いマンションだった。僕の兄と、監視カメラ会社の社長が住んでいるマンションである。
「あれがおれの家だ」と彼は言った。
10
それから二日後、彼は死んだ。
街で最も高いマンションの地下駐車場に倒れているところを、監視カメラが見つけた。補足しておくと、その場に彼を倒したのも監視カメラだった。
老人は左手で杖をつきながらカメラの前に現れ、壁の前にゆっくりとしゃがみこんだ。そして身体の前に置いたパレットに筆先を載せ、つづいてその筆先を、壁の上に載せた。
彼の身体に、カメラから放たれた電極付きアンカーが突き刺さった。老人は構わず左手を動かした。べったりとした青い塗料が、壁の上に短い線を描く。監視カメラはアンカーを通じて電気ショックを彼の身体に送り込んだ。それでおしまいだった。彼は左手に筆を握ったまま前のめりに倒れた。たいした音はしなかった。AIは倒れている彼を見て救急隊を呼んだ。救急要請が必要だと判断したのだ。
救急隊が到着したとき、彼のシャツにはパレットが貼りついていた。
塗料は速乾性だった。
そのニュースを語る担当医の口調は苦々しいものだった。
彼は後悔しているようだった。でも一体何に後悔すればいいか分からないから、余計に辛いのだ。その気持ちは僕にも分かった。
退院したばかりの老人が監視カメラの前で落書きをしなければならない理由など、彼には何一つとして思いつけないのだ。
「自殺行為ですよ」と彼は言った。「壁に落書きをすれば、電気ショックを受けるのは当然のことなのに、どうして……」
「先生」と僕は言った。「思うんですけど、心臓の悪い老人に電気ショックを浴びせるなんて、当然のこととは言えないんじゃないですかね」
彼はそれについては何も言わなかった。携帯端末を耳に押し当て、無言で首を振る彼の姿が目に浮かんだ。
「とにかく、知らせてくれてありがとうございました」
「あの人は何を描こうとしていたんでしょう」と医師は言った。僕に向って尋ねたというより、答えのない問いを舌の上で転がしているような感じだった。
「分かりませんよ、そんなこと」
誰にも分かりません、と僕は言った。そして電話を切った。
僕は、誰とも話をしたくなかった。
11
僕と老人に関する短い物語はそんなふうに終る。僕はたくさんのポイントを失ったかわりになけなしの画力を手にした。他に得られたものは何もない。本当に何もない。
ある日、学校から帰った僕は郵便受けの中に、僕あての黄色い封筒を見つけた。表面には中央病院のロゴが印刷されていた。
封筒の中には長い手紙が入っていた。手書きではなく、機械で打たれた文字。「君がこれを読んでいるということは」という書き出しで始まっていた。ありきたりな書き出しだ。
君がこれを読んでいるということは、わたしはすでに死んでいるのだろう。そしてその死は、ほとんど誰にとっても意味のないものだろう。わたしの生には意味があった。それはたくさんの素晴らしい絵を生みだし、人々の役に立った。何よりそれはわたし自身を励ましてくれた。わたしの絵は、わたしが存在する理由をわたしに教えてくれた。わたしは絵を描くために生きていたのだ。それは疑いようのないことだった。
わたしの死に意味はない。だからもし君が、わたしの死に対してほんの少しでも悲しみのような感情をいだいているのだとしたら、それは見当違いもいいところだ。わたしはたくさんの素晴らしい絵を生みだした。これはついさっきも書いたことだが、本当のことなので繰り返す。わたしはたくさんの素晴らしい絵を生みだした。だから自分の人生に対しては、とても親密な感情をいだいている。これはわたしが生きているあいだ、君には伝えなかったことだ。べつに隠していたわけではない。わざわざ伝えるだけの必要性が感じられなかったのだ。わかってほしい。それはふつう、言葉ではなく、それとなく感じるという方法で知るべきことなのだ。
でもわたしは今こうして、人工知能に口述筆記をさせ、自分の考えていることをきみに伝えようとしている。わたしがどのように世界を見ていたか、きみに知っていてほしいと思うからだ。
わたしはこれから最後の絵を描こうと思う。本当なら、それはわたしの右手によって描かれるべきものだった。わたしの右手は神のものだった。それは願いさえすればこの世から失われた命をやすやすと、ありありと絵の中に蘇らせることができた。そのことはきみもよく知っているはずだ。右手を失い、わたしはただの人間になった。
わたしの左手に意味はない。それは失われた夢のしぼりかすでしかない。
わたしの最後の絵は、きみによって描かれるべきだとわたしは判断した。
きみの右手が、わたしの右手の代わりに、わたしの最後の絵を描くのだ。
手元にスケッチブックはあるか?なければべつになんでもいい、学校のノートでも、部屋の壁でもかまわない。でも街の壁に落書きするのはやめたほうがいい。100万ボルトのビリビリを食らって、拘置所か、病院に放り込まれるのがオチだ。君もよく知っているように。
ペンは持ったか?絵が下手なことは気にしなくていい。そういうことは、この場合たいした問題ではない。この絵は売り物ではないのだ。それは純粋にわたしのための絵だ。紙とペンさえあればそれでいい。他に必要なものは何もない。
僕はそこまで読んで顔を上げた。この男はいったい何を言っているのだろうと思った。僕が彼の代わりに絵を描いたところで、それが何になるのだろう。僕にそんなことをさせるくらいなら、スケッチブックに、自分の左手で描くべきだったのだ。
死ぬのが分かっていて、カメラの前で落書きをするような愚かな真似をするべきではなかったのだ。もう彼は死んでしまった。死んだものは蘇らない。命を吹き込むための右手はもうとうに失われてしまった。
しかも僕は絵が下手なのだ。
馬鹿々々しいと心の底から思った。でも僕は自分の部屋に駆けこみ、彼に渡されたスケッチブックを戸棚から引っ張り出した。一枚目にはアザラシみたいな飛行機の絵が描かれていた。二枚目には飛行機らしい形をした飛行機の絵が描かれていた。僕はそれらの絵をめくって、まっさらな紙を表にしてスケッチブックを机の上に置いた。卓上灯のスイッチを入れた。引き出しを開けると、ペンは三本入っていた。どれも筆記用の黒ペンだ。僕は部屋中の引き出しを開いて回り、それからリビングに降り、リビング中の引き出しを開いて回り、二本の赤ペンを携えて自室に戻った。黒以外の色が出るペンはこれだけだった。僕はぜんぶで五本のペンを机の上に並べ、ふたたび老人の手紙を読みすすめた。
まず、これは風景画だ。何よりまず地平線を描く必要がある。分かるか?地面と空とを分けるわけだ。でもこれは薄く、いつでも消せるような線で描かなければいけない。なぜなら空の下には山があり、それが地平線を隠してしまっているからだ。地平線と、山。
どうだ、描けたか?
描けたかも何もない。山といっても色々ある。いったいどんな山を描けばいいのかこれでは分からない。
僕の疑問が伝わったらしい。手紙はこう続いていた。
山といっても色々だな。すまなかった。どんな山を描けばいいのか、伝え忘れていた。
自分の絵を、他人に言葉で伝えるのは、わたしにとっても初めてのこころみなのである。勝手の悪いところがあっても、どうか容赦してほしい。
山は二つある。奥の山と手前の山だ。奥の山は画面の左からはじまり、中央に向ってゆるやかな曲線を描く。手前の山は画面の中央からはじまって、右に向って、こんもりと、ふたつのこぶを形成している。ちょうど、らくだの背のように。らくだって分かるか?分からなければ、まあいい。とにかく二つのこぶだ。鳥は朝になるとこの山の中で目覚め、町へ降りてくる。夕方になると山へ帰る。そのくり返しだ。
僕は画用紙の中央に薄く線を引き、その上に、なだらかな線を、左から中央に向って引いた。それからボウルを伏せたような形の線を、画用紙の中央から引き始めた。一本目の線の終りが、二本目の線の途中にぶつかるように慎重に――うまくいった。そして三本目の線で、もうひとつのこぶを描く。この丘には鳥が住んでいるのだ。朝になると町にやって来て、夕方になると山に帰る――こんもりと丸みを帯びた小さな山。地平線と同じ高さにまで線を下ろしたところで、ペン先が画用紙の端にたどり着いた。
空、二つの山。
手紙の指示に従い、僕は絵を描きつづけた。使ったのは黒のペンだけだった。赤ペンを必要とするモチーフは絵の中に登場しなかった。山の次には、畑を描いた。山のこちら側に、いくつもの段を重ねながら拡がっている畑。少し湿り気を帯びた茶色い土にちいさな芽がいくつも顔をのぞかせている。畑と畑の間には細い道が伸びていて、そこには四人ばかりの人がいた。犬もいた。それから羽のついた昆虫が飛んでいた。キンイロカゲボシの姿を僕は絵の中で何度も見ていたので、ほとんど苦労なく描けた。空には平べったい雲がいくつも浮かんでいる。薄い雲は風によってちぎられてしまう。空にまっすぐ筋を引くように、山並みの向うから斜めに立ち上る細い雲の下を、踊るように羽を広げながら三羽の鳥が飛んでいる。
手紙の言葉に導かれるように僕の右手は動いた。僕の目は、老人が見たものと同じ光景を見ていた。僕は自分が見たものをスケッチブックの上に並べていた。いつの間にか部屋は暗くなっていた。玄関のドアが開き、閉じる音がした。母親の声が聞こえた。
卓上灯だけが僕の絵を照らしていた。老人の手紙が終わり、風景に関する言葉が消えてしまった後も僕は描きつづけた。描くべきことはいくらでもある気がした。言葉はただのきっかけに過ぎなかった。僕は僕の想像力の許すかぎり、できるだけ正確にその光景を描きつづけた。それ以外のことは何も考えられなかった。
僕を呼ぶ母の声が聞こえていた。
それが何のためであるのか僕には分からなかった。その頃、僕の頭はまともに機能していなかった。そのために必要なものは、全てスケッチブックの上にぶちまけられていた。身体はまるで思い切り泳いだ後みたいにぐったりとしていた。
僕は完成した絵を右手に持ち、少しふらつきながらゆっくりと立ち上がった。監視カメラの絞りがキュラキュラと音を立てた。カメラにとって、闇は問題ではない。どんな暗闇の中であれ捉えるべき対象を、捉え損なうことはない。
だから僕は電気をつけなかった。風景画を持った右手を、カメラに向ってまっすぐに突き出した。
レンズの奥には記憶媒体がある。人工知能は暗闇の中に風景画を見出し、そこに描かれているものが何であるかを理解する。
一歩、二歩と僕はカメラに近づいた。
僕にできたのはそこまでだった。
僕はスケッチブックを下ろし、電気をつけた。
その目は(ほんとうに)見えているか くれさきクン @kuremoka
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