第二夜 悪魔は天使を喰らいたい

柔らかな光が降り注ぐ木の中のような部屋は、天使であるアルミエル教授の部屋だ。この部屋は「平和を圧縮したようだ」といつも思う。今日は特に。



「水の神ハーヤエルのように袖に隠していただき、有難く存じます」

「土の女神ネルトゥシエルを庇護するは水の神ハーヤエルの使命じゃの」



思わず息を飲む光景だ。他人が入ってくるような空間でくつろげるのはこの場で争いが起きないと信じていなければできない。


アルミエル教授の袖端から見えた少し乱れたソフィア様の髪に動揺する。つい、天使に対するものとして似つかわしくない邪な感情を覚えてしまった。

ソフィア様は他の人形のような天使とは一線を画する。感情と生命が吹き込まれた天使はこの世に存在していることに驚いてしまうほど美しい。


自力で戦う手段が欲しいと護身術の授業で騒ぎを起こし、天使が食べれないはずの肉を食べてみたいと食堂で言い募り職員を困らせて、周囲は困惑しているが、ソフィア様は実に生き生きとされていた。


私はソフィア様を知るまでは個人的に天使は好まなかった。そもそも吸血鬼の始祖オリジナルは戦うために天使から堕ちて魔族になったものと言われている。

だから平和を自力で勝ち取るために吸血鬼となった祖先と、代償を他者に払わせながら平和を享受し続けた天使を比べれば良い感情は持てなかった。



「ソフィア様?時の神クィリスィエルの思し召しでしょうか?光の眷属ロキニエルの御加護を給われたようです」

「時の神クィリスィエルも気まぐれを起こすことがあるようです」



アルミエル教授が袖に隠しておられたのだから、ソフィア様にさも気がついていなかったように振る舞うのはマナーだ。ソフィア様に向けるには相応しくないと思いながらも上っ面を取り繕った笑顔で挨拶を述べる。



「うむ、マリアンくんの表現は上手じゃぞ。光の神バルドゥエルに微笑みかけられたようじゃな」

「アルミエル先生、クラスの課題をお持ちしました」

「結構じゃ」



いつものようにアルミエル教授から礼儀作法の合格を貰い、課題を渡す。ソフィア様がエデターエル王国で良い立場でないのは知っている。エデターエルから派遣されているアルミエル教授についているのも、エデターエル王国から出て、七斗学院のあるシャリオテーラに異動するためだろう。あまり邪魔をするものではない。



「待って!」

「ソフィア様?!」



急にソフィア様に怪我をしている方の手を掴まれて息を飲む。天使があの怪我を見るのは良くない。血を見ると倒れると言われる天使に怪我を見られたくない。私の瑕疵でソフィア様が卒倒されては困る。

まるで考えを読まれたように、ソフィア様が怒って見上げてきたことで、私が震えていることに気がついた。


まさかこの私が緊張しているのか?



「癒しの女神アスクリィエルよ。我が力を糧に癒しを与えたまえ。望むは快癒、痛みと苦しみからかの者を解き放ちたまえ」



祝詞。私たち魔族が唱えると呪文のようだと言われる文言もソフィア様が唱えれば、正しく祝詞に聞こえる。ソフィア様が目を閉じて、神へ力を求める様は例えようもなく神々しい。



ソフィア様のあの柔らかそうな首筋からはさぞよい香りがするだろう。温かな血はとても甘いに違いない。


癒しの光が消えて我に返る。天使に食らいつきたいなんて、そんなことを起こしたら間違いなく外交問題になる。何を考えているのか。緩く頭を振って、思い浮かんでいた邪念を振り払う。

直接触れられて癒しの力が施された腕の怪我だけでなく他の小さな怪我まですべて完治している。対価を伺おうとしたらすぐに握っていた手を離したソフィア様はくるりと踵をかえす。



「闇の神が眷属ピオスエラに魅入られているようでしたから。アルミエル先生、それでは時の神クィリスィエルのきまぐれまで。ごきげんよう」



その華麗な変わり身と、退出までのあまりの速度に出遅れた。呆然と見送ってしまってから追いかけようとアルミエル教授に退出の挨拶を述べる。

楽しそうに微笑んで見送ってくれたアルミエル教授から「ソフィア様をただの天使と考えていると、対応を誤りますぞ」と言葉を賜った。


慌てて後を追うと、思いの外すぐに追いつけた。急いで逃げた割に探知魔法にあっさり引っかかった。もしかしたらソフィア様はこれまで人を撒いたりするような経験がないのかもしれない。


お相手は天使だ。そして今回は特に傷つけたいわけじゃない。だから柔らかく微笑んで、神々の名前を囁かないといけない。そう思って挨拶を述べようとしたのにちょっと困ったように笑ったソフィア様は私の挨拶を遮った。



「前に言ったと思うけど、私は直截な表現が好きだよ。いいよ、ちょっと話そうか」

「わかりました。お時間をいただけて光栄です」

「こちらこそ、話さないといけないと思ってた」



予想外の言葉に少し訝しむ。私はこれまでにソフィア様から気にされるようなことをなにかしただろうか。


天使に向かって攻撃する魔族がいるとは思えないが、私の弱みと見るものがソフィア様に危害を与えたら困る。ベリアル家に恨みのある人は星の数ほどいる。人目につきにくい場所で話すべきだろう。



「では、こちらへ。お手をどうぞ」



これがソフィア様の社交用の笑顔なのか。先ほどまでの苛烈な感情を写した表情をなりを潜めて、ソフィア様は魔族が想像する天使らしい儚げな笑みを浮かべて、私の誘いに応えてくれた。

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