数楽者

すけだい

第1話

「助けてください!」


 今日も無情に女子供の声が響いていました。その声の方向に人が集まりますが、そこには誰もいませんでした。今日も誰も助けることができませんでした。

 そのことに対して人々は怒ることもなく絶望することもなく、淡々と解散するのみでした。事件というわけでもなく、日常生活の一部として享受しているだけでした。それくらい人の失踪が当たり前の時代だったのです。

 1つの時代の終わりまたは始まりの時期は特にその傾向が強いのです。そういう時代には、人さらいや迫害や追い出しは大きな問題に隠れて闇に消えていくのです。そういう歴史に残らない虐げられた人々の中には、数知れず楽しく暮らせた者はいたと聞きます。



 14世紀の日本、終わりを迎えようとしている鎌倉幕府と無縁の田舎、海岸と山に囲まれた平野には田畑が広がっていました。稲がもう少しで頭を垂らすこの時期に、平坦な道を女の子が小走りで通っていました。齢10もいかない彼女は野良仕事のお暇を頂いたので、親の忠告通り人さらいに気をつけながら浜辺に向かって散歩していたのです。


「お嬢ちゃん、ちょっといいかい?」

「あたしのこと?」


 ねずみ色に薄汚れた麻の着物を来る彼女の眼前には、黒色に光った西洋の牧師のような服を来る男が立っていました。齢20くらいでワックスを塗りたくって微動だにしないオールバックの男は、黒いスーツケースからふたつ折りの紙を取り出して広げました。そこには男の似顔絵が描かれていました。


「そうだよ。この男を知っているかい?」

「――知らない」


 女の子は眉間にシワを寄せて似顔絵に凝視しましたが、その似顔絵の顔には思い当たるフシがありませんでした。男はそれを聞くと、似顔絵をスーツケースに戻し、女の子に感謝の言葉を述べて去って行きました。女の子はその見たことのない出で立ちの男が「あのやろう、ぶっ殺してやる」とぼやいて去っていくのを不思議な顔で見送りましたが、このあたりで横行している人さらいではなかったことを確認して直ぐに浜辺へ足を進めました。



 潮の風が靡く砂上から女の子は海を眺めていました。かもめが泣き響く海の上には漁から帰ってくる船が小さく波をたたせ、遠く沖から流れる波とともに浜に打ち寄せていました。その浜辺に白い服を着た人が倒れていました。

 大きなクラゲが打ち上げられたのかと思うその風貌は、先が丸みを帯びた靴も長袖の衣服もボサボサの髪の毛も白一色のものでした。砂利と海水でボタボタに汚れていますが、それでも光るくらい白いものでした。この白さは投身自殺するものか修行者か遭難者か。

 女の子は怖がることなく近づいて指でつつきました。この時代、鎌倉時代末期の不安な情勢下、浜辺に死体が流れ込むことが珍しくなかったのです。女の子も死体を見るのは10回以上ですので、手馴れたものでした。


「何している?」


 白い男がうつぶせの顔を上げると、女の子は声を上げずに驚きました。死体は何回も見てきたけど生存者は初めて見るのです。男の丸い顔は砂利で化粧されており、砂の化け物みたいで女の子が怯えるのも無理はありません。


「何をしていると聞いて……」


 男はそのまま顔を再び砂に埋めました。女の子は少し距離を置きましたが、身動きしない男が気になって再び近づいて再び指で近づきました。それに反応するように、男から波音より大きな腹の虫の音が聞こえました。

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