もういいかな
一ノ路道草
もういいかな
もういいかな。
左に嵌めた腕時計の示す時刻は15時41分。彼女の言葉が、頭の中で幾重にも反響する。
あれは今とほぼ同時刻。実に普段通りの、穏やかに優しげな微笑みからその言葉をぽつりと残して、彼女は四日前に校舎の屋上から飛び降りた。
もういいかな。
その言葉を聞いたとき、僕は普段通りに何をするでもなく、ただ彼女の近くに立っていただけで、特に気の利いた言葉も渡すことは出来なかった。
もういいかな。
その言葉を聞くよりも遠い以前まで記憶が遡り、まだ生きていた頃の彼女の姿が、ふと甦る。
大多数の人間からは、そこまで可愛いとは言われないのだろう。肌は所々が幼少からのアレルギーで痛々しいのと、笑うと歯並びの乱れを見られるのが自分のコンプレックスだと言っていた彼女。
それでも彼女は間違いなく、僕がこの世に産まれてから初めて素敵な人だと思い、好きになった女の子だ。
もういいかな。
その言葉を発した、つい少しばかり前まで、僕の知らない時と場所で、彼女はいじめを受けていた。
○○さんが気持ち悪くて、みんな迷惑してんだよね。あのさあ、被害者ぶらないでくれる? わざわざあんたに話しかけてる私達の方が、何倍も気持ち悪くて辛いんだけど。うん、私○○さんの気持ち分かるよ、でもね、そんな風に産まれて来る方が悪いんだよ?
そういった類の言葉を、彼女は同じクラスの女子四人から延々と聞かされながら、わざわざ黒板の粉で汚したゴム手袋の手で叩かれ、蹴られていたらしい。
もういいかな。
そう言った彼女は、まるで何事もなかったように、クラスが離れて何も知らなかった僕が唯一知る、普段の通りにただ穏やかに優しげで、飾りなく微笑みながら、放課後に本屋へと誘った僕に謝ると、さよならを告げた。
あの時彼女が寒くもないのに上着を羽織り、妙に左袖を抑えていたのは、僕に何も悟らせないようにする為だったのだろう。
もういいかな。
彼女が飛び降りた校舎の庭から屋上を見上げれば、あの言葉が幾重にも反響する。
彼女が飛び降りた日と同じ、曇り空。
あの日、この学校に通う生徒達が地上ではおびただしい野次馬となり、校舎では至るところで窓を開けていた。そうやって数え切れないくらいの大勢が腕を懸命に伸ばし、楽しそうにスマホでこの場所を撮影していた。
予定に従うべくそこから立ち去ろうとしたとき、通路を舗装しているタイルの左はしに、とても小さな、赤い染みが見えた。
庭の雑草が今日刈り込まれるまで隠していた、たまたま洗い残された血痕なのだろう。
あれだけみんなが騒いでいたのに、彼女の事は、もう誰も話題になんてしていない。この学校に彼女が残した痕跡は、もはやこれだけだ。
もういいかな。
あの言葉を噛みしめる僕の頭上から、その赤に降り注いだ透明な一滴が、彼女の痕跡を掻き消す。
それは雨だった。
この世すらもが、信じられないほど悍ましい悪意を持って彼女を消したような気がして、狂ったように叫びそうになる。
けれど、僕にそんな権利などは無い。具体的にいじめを止めるでもなく、彼女の苦しみを和らげるような時間を作れたわけでもなかった、僕なんかには。
それでも彼女は、僕を恨んでなどいないのだろう。そもそも彼女は嫌なことを嫌うのではなく、ただ悲しむ。恐らくは彼女自身だけが、この世で唯一彼女が嫌う人間だった。
なんて清らかなんだろう。僕とはまるで正反対だ。
彼女の事だけが唯一悲しくて、何もしなかった自分自身と、この世全てが憎たらしくて仕方ない、僕なんかとは。
もういいかな。
僕には彼女のように、そう言える時は訪れていない。少なくとも、今はまだ。
僕の視界には楽しげに談笑しながら校門を出る、女子の四人組がいる。彼女を罵り、叩き、蹴り、自殺現場の画像を友人達やネット上にばら撒いた、あの四人組。
死は平等なのだと、どこかで聞いた事がある。だけど僕には、とてもそうは思えない。
これはクラスのみんなが可愛いと認める彼女達が、いつも互いに自慢している事だ。いつも沢山のお小遣いをくれて旅行に連れて行ってくれる、優しい両親。そしていつもブランドのバッグを買ってくれてセックスの上手な、カッコいい大人の彼氏。放課後の街には様々な話題で毎日盛り上がれる、仲のいい大勢の友達などもいるらしい。だから彼女達が死ねば、さぞ悲しまれるんだろう。
だけどあの子には、それらの誰ひとりもいない。
はたして、これは平等か。
もっとも、見知らぬ他人の下す是や非など、既にどうでもいい事だ。たとえ世界中の全員が平等だと答えても、僕は絶対に認めない。それだけの話なんだ。
復讐は何も生まないという言葉がある。面白い事を言うものだと思う。まるで前向きな何かを、生み出さなければならないかのよう。
そんなもの、誰が生み出してなどやるものか。
ファーストフード店で時間を潰した四人組は段々と、ひと気のない路地の方へと向かっていく。あの狭い突き当りで、また隠れて煙草を吸うんだろう。知っているとも。
この時のために今日まで待った。待たせてしまった。別に僕以外の誰にも、待ち望まれてはいないだろうけれど。
殺すつもりはなかった。ただあいつらの顔と手足を、彼女の傷付けられた心と同じようにしてやるだけでいい。
途中で逃げる事など許さない。連中が周囲から見放されれば、むしろ喜んで警察に捕まり、生涯慰謝料を払い続けてでも延命させてやるつもりでいる。
現代医学に支えられた長い人生の果てだけが、あいつらを救うべきだ。最期の瞬間まで、ただひたすらにじっくりと、苦しませてやりたかった。
「もういいかな」
当然その言葉に答えはない。けれど、そろそろ到着の時間だ。見えるか見えないかの遠い距離から、その小さな背中達に無言で語りかける。
おめでとう。いよいよきみたちの好きそうな、ちょっとしたイベントをやろう。存分に新しい自分の姿を、SNSへでも投稿するといい。きっとよく映えるさ。
僕は最後にズボンの右ポケットに手を入れて、中身を確かめる。
手に入れた当初はなんとも頼りない重さだと思っていたそれが、今ではそうでもなく、むしろ頼もしいくらいに存在感のある重さだった。
このひんやりとした不気味な感触も、今は波の一つもない透明な水面のように、僕の心持ちを凪へ整えてくれている。
腕時計の示す時刻は17時56分。喜びも興奮もなく、ただ上手くやれそうだと感じる。
僕は右ポケットに手を入れたまま薄い暗がりに紛れて、静かに一歩づつ、連中との距離を詰めていった。
もういいかな 一ノ路道草 @chihachihechinuchito
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