第34話 行きましょう、私と一緒に
翌日、花は珍しく早起きした。いつもより早く部屋の扉を開くことになったので、直ぐにシラーは湯を沸かし始めた。
近頃、食事は階下の厨房を使っているシラーだが、朝食の味噌汁だけは2階で作っていた。
鰹節と味噌、マヨネーズが残り少ないことを伝えると、花はいまいちピンと来ていない様子で「うーん、そっかあ」と言った。
シラーの記録では近場に味噌は売っていなかったのだが、花は「魔法でなんとかならないかな」と言ってシラーを困らせた。
「おはよう、ハンナ。今日は早いな」
裏庭で朝の鍛錬をしていたアデルモが軽く水浴びをしてダイニングへやってきた。花は最近初めて知ったことだが、アデルモはいつも朝早くから体を鍛えている。武闘大会に出ることを目指しているからと言うが、花はその努力に感嘆した。
話を聞けばシラーが練習メニューを組むのを手伝っているらしい。朝からたっぷり食べるのも、鍛錬があるからか、と花は納得した。
今日も今日とて、アデルモの皿にはたっぷりの魚と野菜が盛られていた。
〈今日のメニューは鰹出汁の味噌汁、
「アデルモはいっつも早いよね……いただきます」
「……イタダキマス。まあな、今日は例の爺さんの所に行くのか?」
花はシラーから温かい緑茶の入った湯呑みを受け取った。
「ありがと、シラー」
花は湯のみの温かさを掌に受けて、緑茶を少し口に含んだ。
「ん、まあそうね、とりあえず行って話してみる」
アデルモのグラスには常温の水がたっぷり注がれる。給仕をひととおり終えたシラーは出来栄えを確認するようにカメラで食卓を俯瞰した。
「上手くいくといいな」
「まあね、ちょっとお節介だけどね……」
「俺が思うに、お節介も時と場合による」
「それが難しいんじゃないの」
花は憂いを忘れようと
その様子を見て、ずっと南蛮漬けを置いたままだったアデルモも恐る恐る口にする。
「冷たい魚なんて、と思ったが、悪くないな……」
そう言って今度は一口大に切りそろえられた
〈これは南蛮漬けです。唐揚げにした魚を甘酢のタレで漬けています。骨付きの部分は別に取ってありますから、食べられるようになったらまたお出しします〉
「こういうのははじめて食べた」
「アデルモは、やっぱり焼き魚とかで食べることが多かったの?」
アデルモは南蛮漬けをごくん、と飲み込んでから答えた。
「まあ、村では塩がよく取れたから、こうやって塩を」
アデルモは両手で平べったい雪だるまを整えるような仕草をした。
「魚の周りに沢山つけて、それを焼くんだ。中は蒸し焼きみたいになって、塩がきいて旨い」
塩釜焼きだ! と花は思った。
「塩は花から取るだろ?」
まるで当然かのようにアデルモはそう言った。花は面食らって温野菜を箸から取り落とした。
その様子を見たアデルモは気が回らなかった、と思って説明を加えた。
「悪い、都会に居ると分からないよな。塩は山の日当たりのいい絶壁に生えた塩の花から取れるんだ。日が昇ると真っ赤な花びらを開いて……その大きな花びらを何枚か持って帰る」
アデルモは手のひら広げた。
「俺の手二つ分くらいの花びらなんだ。塩で包む前にそれを二、三枚重ねて魚を包む。花びらは少し甘くて、魚の身を解して一緒に食べるとあまじょっぱくて美味しいんだ」
〈レシピを登録しました。
「うーん、想像するだけで美味しそうだわ。この辺りにはないのかしら、塩の花」
「山の上の方だからなあ、どうだろう。もう少し暖かい地域ならあるかもしれないが」
「シラー知ってる?」
〈情報が不足しています。地図情報に参照可能なデータがありません〉
「残念」
「近くにあったら取ってきてやるんだけどな。……そう言えば、シラー、卵を切らしたと言ってなかったか?」
〈はい、魚、卵、それと葉野菜が足りません〉
アデルモは食べ終えた皿を厨房の流し台に持って行って、楽しそうにこう言った。
「研究室が大体片付いたんだ。ハンナは朝から出るんだろ? 俺が買ってきておくよ」
〈よろしくお願いいたします〉
「ありがとう、アデルモ」
***
そして、花は再びあの翁の店にやってきた。
「いらっしゃい」
優しい声だった。
花は売り物を物色する前にカウンターの所へ言って、絨毯を見下ろしてこう言った。
「いい絨毯ですね」
「ラタイヤ王国風だよ、一昔前は社交界も街もこれ一色だった」
花は顔を上げると、あくまで世話話の続きのように話をした。
「昨日、ハウプト・スクロールに行ってきました」
翁は黙った。そして、卓上額縁を手に取って、家族5人の絵をそっと撫でた。
「店主は、元気だったかい」
「ええ、とても」
絵を撫でる指先が小さな男の子の上で止まった。そっと手を離した翁の視線は、男の子の上でとまっている。
花は決心して、カウンターに身を乗り出した。
「長い間会えないのが、寂しいみたいでしたよ」
翁は絵から視線を離さないまま、震える唇を引き結んだ。
「店主が、魔力が無くても、通れる裏道を教えたのにって」
翁の眉はとうとう泣きそうに八の字になった。口を開いた彼の声は、僅かに震えていた。
「今さら、会いに行って、あの子に顔向けが出来るのか? こんな体で、何もしてやれなくて……」
翁はカウンターから出てきた。花に事情を話しているから、カウンターの後ろに隠れている必要は無くなったのだ。
ゴロゴロ、と木製の車輪の音がした。
翁の下半身は、特に膝から下は殆ど動かなくなっていた。魔力式の車椅子が無ければ動くことはできず、ハウプト・スクロールのように大規模な魔法陣を施した店には入店出来なかった。
「私は……、ただ、私からは会いたそうに見えた。それだけなんです。それを伝えたくて」
翁は唇を震わせた。あの子に申し訳が立たない。ずっと独りで店に閉じこもって、最後には好きなものへの道を否定して、それっきりだった。
”会えない”というのは、彼が彼自身を許すことが出来ないでいたからだ。この15年、一度もローラントに頑張っているな、偉いな、と声をかけられなかった自分を。
翁は、車椅子の上で頭を抱えた。
「ああ、魔力を使わなくても行けると知っていたら……」
花はその言葉を聞くと、屈んで彼と視線を合わせた。車椅子の手摺に置かれた彼の手に、自分の両手を重ねる。
「行きましょう、私と一緒に」
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