第35話 おじゃまします

 十五年も経つと、会いに行くだけでも理由が必要だった。花は翁に言われるがまま、自分の身長ほどもある大きな荷物をひとつ背負った。


「悪いね」


 花が車いすを持つと、翁は背中を小さく丸めてそう言った。一人暮らしのこの老人は、外に出るときはいつも一人で、車いすを人に押されるのに慣れていない。

 外出先もなれた店への買い出しくらいで、魔力を気にしないで済んでいた。


「いつもは自分で行くんだが。重いだろう、道を行くくらいは自分でもできるから」

「いいえ、重くないわ。ここ、降りるわね」


 花は車いすを持ったまま、カウンターのスロープを後ろ向きに、慎重に降りた。


〈マスター、魔力を意識して込める必要はありません。マスターの魔力量であれば、意識せずとも十分な量が魔法陣に供給されます〉


 シラーの言葉を聞いて、花は肩の力を抜いた。


「気を使わなくていい、車輪を回すのが大変で、買い物もたまにしか行かないくらいなんだ。自分でよく分かっているよ」


 翁は俯いて自分のつま先を見つめた。分厚い靴下を重ね履きして、着脱しやすい薄くてやわらかな靴を履いている。


「でも、本当に軽いのよ。片手でも持てそうなくらい」


 翁は花の物言いに上を向いて大笑いした。


「はっはっは!」


 そして、体を捻って車いすを持つ花の方を見ると、人差し指を立てる。


「どれだけ車いすが軽くても、このおいぼれの体は自分でよくわかってる。あんたが片手で持ち上げるなんて、無理だよ」


 正面を向き直るとまた、翁は言葉の余韻でくすくす笑った。

 花は車いすを軽やかに運んで玄関の前にやってきた。翁がいつも通るルートは車いすに必要な幅が保たれている。


「やっぱり、軽いわ。このまますいっと持ち上げられそう」


 からんからん。玄関扉を開いて固定する。花は別に、翁を慰めたくて話していたわけではない。本心から「軽い」と言っていた。


「どうしてかしら」


〈魔法陣が読み取られていないため、解析ができません。重量軽減の図式の組み込みを検索することができませんでした〉


「やっぱり魔法陣かな」


 シラーが車いすの構造や素材に言及せず、魔法陣のことだけ話したので花はそう思った。今、シラーがこの車いすのことで分からないのは、きっと魔法陣だけだろう。

 翁はその言葉を聞いて、はっとした。


「そうか、魔術師だから」


 翁はつぶやいた後自分の手を見つめ、ゆっくり小さな段差を乗り越える車いすに身を預けた。


「魔術師に会う時は、いつも不思議なことが起こる気がするよ」


 そうして、車いすはハウプトバーンホフ通りに繰り出した。花はシラーのガイドに従って、道の段差に気を付けながら車いすを押した。

 幸い、ハウプトバーンホフ通りはきれいに整備されていて、車いすを押すのはそれほど苦ではなかった。特に、花にとっては車いすが大変軽く感じられたので、空の台車を押すくらいの力で十分だったのだ。


 ただ、しばらくすると人々の好奇の目が注がれていることに花は気付いた。全員が車いすをジロジロと見ていたわけではない。だが、たむろして主人の帰りを待つ使用人たちや、着飾った小金持ちらの中には、不躾に視線をくれる者がいた。


 彼らにとっては珍しい車いすで、じっと見つめてくるものはそう多くないとはいっても、花にとっては「また視ている」と思えて仕方なかった。


〈マスター、一定時間以上こちらを注視している人物を複数観測しました。防犯のため、人通りの少ない場所や組織の管理下にない区域への立ち入りを控えることを推奨します〉


「大丈夫、ストーカーじゃないんだから」


 翁がちら、と花の方を見上げたので、花は曖昧にほほ笑んでごまかした。ここにも”ストーカー”って言葉はあるんだろうか。ヘンな独り言だと思われないといいんだけど。


「魔法陣を刻んだ車いすは少ないからね」


 翁はどこか得意そうだった。


「みんなうらやましがっているんだよ」


 花の頬には、本当にほほ笑みが浮かんだ。翁が本当にそう思っているのか、気まずそうにする花を気遣ってのことなのか。花自身にはそれが分からなかったが、悪くない考えだと思った。


〈目的地周辺に到着しました〉


 車いすを押すのに夢中になっていた花は、ハウプト・スクロールに到着していたことに気付かなかった。シラーに言われて初めて車いすを半回転させて門へ向かう。


「門をくぐると、雲の上なの。でも、歩けるのよね」

「魔法陣を刻んだ車いすでも大丈夫だろうか」


 花は口を閉ざした。「大丈夫よ」と言えるほど、魔法陣の知識がない。


「いざとなったら、持ち上げて運ぶわ」


 今日は、例の扉は黄金色に見える。花は不安な気持ちを押し殺して、門をくぐった。


「雲の道を進んで、赤い花を咲かせる低木が見つかったら、黄金の扉を無視して右折」


 メモは出していない。翁は、裏口への通り道をそらんじた。

 花は翁の案内に従って、固い雲の道を進む。


「そのまま歩くと黄色の落ち葉に囲まれた看板がある」


 花は車いすの前輪を持ち上げて反対を向いた。


「いち、に」


 翁の声が緊張に震える。花も一緒に数え始めた。


 さん、し、ご。


「……おじゃまします」

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