第29話 願いを叶えるジャム瓶
「長く会っていない孫がいる。あの子は魔法陣が大好きでね、自分のおたからを手放すくらいに」
しわがれた声が、静かな店内に響いた。
もう20年以上も前のことだ。あの子は魔法に魅せられた。
魔術師の紡ぐ魔法陣は緻密で奇抜で、幻想的。中央に近いこのあたりは、特に様々な魔法を目にすることが出来る。
男の子なら、珍しい生き物や、
「気持ちは分かる、魔法は素晴らしい。だが、過ぎた力は身を滅ぼすと言うだろう? 魔術師でもないのに魔法陣を作るなんて」
翁は分厚い上着の襟を引いて肩の上に落ち着かせた。
些か文意を捉えきれない花。
〈魔力が少なければ少ないほど、魔法陣は失敗しやすくなります。ごくまれに事故で死傷者が出ることも。魔法を試す人が増える祭りの時期は、国から注意喚起が毎年出ています〉
「事故……」
翁はカウンターテーブルの上で腕を組んだ。じっと木目を見つめる背中に、悲しみがのしかかっている。
「息子に似ていたよ、義理の娘にもな。魔法が大好きで、魔術師に夢を見て。店を訪れる魔術師たちに、あれこれと聞きまわっていた」
あの子が6つになったある日のことだった。珍しく老齢の魔術師が店を訪れた。
彼は貴重な魔法陣の刻まれたスクロールをいくつか売って、代金を受け取る代わりにあるものを受け取って欲しいという。
「願いを叶えるジャム瓶」
魔術師は彼のお宝をそう呼んだ。
「三つあった内の一つじゃ。肝要なのは背伸びをしないこと。ふさわしい時に、願いを叶えてくれるだろう」
翁は魔術師を疑った。直感で分かったのだ、この瓶の魔法には魔法陣が使われていない。人間の行う技で、魔法陣が使われていないことなどありえない。であれば出所は一つしか考えられなかった。
「霊峰の品ですか」
魔術師はしわだらけの顔をくしゃっとすぼめて笑った。
「そのとおり」
「ほしい!」
「どうぞ、きみに上げよう。早い者勝ちだから、これはきみのものだ」
間髪を入れずにあの子が答えた。
翁は脳裏に浮かび上がる嫌な光景を何とか振り払って、頷いた。大丈夫、これは魔法陣じゃないから。
「あとでお代をくれと言われても、うちじゃ払えませんよ」
「言わないとも。言えないと言った方が、正しいかな?」
魔術師はときどき奇妙なことをいう。
翁は疑問を晴らせず控えめに聞いてみた。
「それにしても、なぜうちに?」
魔術師は、分厚い眉毛に半分覆われた小さな目でウインクした。
「800年以上生きていると、声が聞こえてくることがあるんじゃよ」
「それでも——」
翁は彼に反論しようとしたが、もう、彼は居なかった。
花は不思議に思った。店を営む家族に訪れた小さな奇跡の話だ。なのに翁は、どうしてこんなに寂しそうなのだろう。
気温は暖かいというのに、翁は上着の襟を、いっそう自分の胸元に寄せて話を続けた。
「魔力の強い子だった。魔術師にならないのが不思議なくらい。魔法陣へのあこがれが、尽きることはなかった。あの子に言い聞かせ続けたんだ。危ないから、と」
8つの誕生日に、とうとうあの子は魔法陣を覚えた。翁に内緒で、魔法陣を学んでいたのだ。
魔術師、グリューネヴァルトは願いの叶うジャム瓶を手に、こう言った。
「2度に1度は成功する。大したものです。練習を続ければ、もっと精度が上がるでしょう。これだけの魔力があれば、事故の心配はありませんよ」
事故はまれだ、分かっている。魔力が強ければ強いほど、危険度は下がる。だが。
「魔法陣を描くのを辞めなさい」
その意志は揺るがなかった。
翁は細く長い息を吐いた。まるで忘れかけた思い出を、手繰り寄せるかのように。
花とシラーは、ただ静かにその様子を見守っていた。
「その日、ずっと秘密にしていたことを打ち明けたんだ。魔法陣があの子に不幸を呼ぶと、信じていたからね」
花は、床の上に立てた絨毯を少し、カウンターに近づけるように動かした。
「なんだか後悔してるみたいに聞こえるわ」
翁は口角を上げて、優しく孤独な笑みを浮かべた。
「私は魔法を使った商品まで扱うことを辞めた。あの子はね、出て行ってしまったよ。スクロールを売りたいからってね。もう十年以上話してないんだ」
「スクロールを?」
「昔はこの店がハウプト・スクロールだったんだよ。店の名前もかえたし、看板の魔法陣は壊れてしまったけどね」
そう言われて、花はふと足元を見た。
黒色のパンプス、使用人風の素朴なマキシスカート、それからモスグリーンのペルシャ風絨毯——。
「悪いね、お客さんに辛気臭い話をしてしまって。懲りずにまた来ておくれ、今度はおまけするから」
花は翁を安心させるようににっこり笑って頷いた。そして店を出る前に一つだけ、気になったことを聞く。
「新しいハウプト・スクロールには、行かないの?」
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