甘い陽炎
saga
1話
静かな湖がある。空は薄曇り湖畔には大きな柳の樹が幾重にも連なっていて辺りは濃い霧に包まれている。
気が付けば俺はそんな美しくも幻想的な場所に辿り着いていた。
人影はなく周りを見通す事も難しかったが遠くには鳥居のようなものと一人の老人が釣りをしているのが見える。俺は話しかけた。
「釣れますか?」
「ん~? わしは釣りなんかしとらんけど」
「何をなさってるんですか?」
「ただここに坐って釣り糸を垂れてるだけじゃ」と言って軽く笑う。
まるで太公望のような人だと思ったが何だか俺は怖くなり取り合えず前に進んだ。
湖を抜けるとやっとこさ町らしい風景に出会えたが人家や店も一応あるにはあるが数は少なく完全な田舎町である。
そんななか喫茶店を一軒見つけそこに入った。ドアを開けて店に入ると一人の女性がすれ違い様に出て行った。こんな田舎にも綺麗な人がいるもんだなと思った。
いざ店に入るとそこは今までの光景とは打って変わって大層賑わっている。
俺はアイスオーレを頼んだ。週刊誌を読もうと本を手にした時店の人が俺に言う。
「あら珍しい、何処からお出でで? 地元の人ではないでしょう?」
「一人旅をしていたんですが歩いているうちにここへ迷い込んだみたいなんです」
「それは大変だったね~、ここは蜃気楼の町と言われてるぐらいの閑散とした田舎町だから何もないけどゆっくり楽しんで行って下さいね」
確かにその通りだと思ったが一体何をして楽しめと言うのだ。外に出るのが怖い気持ちもあったので俺はこのまま店で長居する事にした。
「ここは何という町なんですか?」
「別に名前なんかないよ、蜃気楼の町ですよ」と笑いながら言う。
「幻想的な感じで綺麗な町ですね」
「ふふふ」
腕時計を見ると止まっていた。
「今何時ぐらいですかね?」
「時間なんて分かりませんけど、ま~あまり気にしないで旅を楽しんで下さいね、ただこれ以上先には行かない方がいいと思うけど」
俺は週刊誌を読み出す。何年も前の本だった。感覚では約1時間半ぐらいの時が経ったと思い店を出る事にした。
「おいくらですか?」
「お金なんていりませんよ」
「そんな訳には行きませんよ」
「いいから、いいから」
「じゃあお言葉に甘えて、有り難う御座います」
結局俺はただで店を出た。するとさっきすれ違った女性が向こうから歩いて来る。
手には買い物袋のようなものをを提げている。女性は「あ、さっきの人ね、結構長居してたのね」と言う。
初対面でまして言葉も交わしていない女性が声を掛けて来るなど都会では考えられない事なので俺は愕いた。
「ええ、そろそろ次に行こうかなと思って」
「何処に行くの?」
「まだ決めてないけど」
「ここからは出られないわよ」
「・・・」
「冗談よ」と笑う。
俺は思わず愛想笑いをした。
「せっかくだから私が案内してあげる、こんな町だけど一応観光スポットもあるのよ」
女性に誘(いざな)われるままに俺は歩いき出した。
ちょっと歩いた所に神社があった。
「ここがこの町で有名なお社よ」
「へ~、何ていう神社なの?」
「別に名前なんてないわ」
さっきの喫茶店の人と同じ事を言うんだなと思った。
取り合えず二人は手を合わせて拝んだ。
「どんな願い事をしたの」
「別に・・・」
「まさかここから出て行く事なんかじゃないでしょうね?」
「・・・」
「冗談だってば、あなた真面目なのね」と言って笑う。
「ここは人影もあまりないし、車も全く通らないんだね」
「それがいいのよ」
確かにいいとは思ったがそれが余りにも露骨な事に俺は躊躇いの表情を隠せずにいた。
「他にも色々あるけど今日はもう遅いし疲れたでしょ、うちで泊まって行ったら? 御馳走するわよ」
「そんな、悪いですよ」
「他にあてでもあるの?」
「ないけど」
「じゃあ決まりね」
結局その子の家へ行く事になった。
大きな豪邸である。古いみたいだけどしっかりとした和風の屋敷である。
「ただいま~」
「おう、おかえり」
その家にはお爺ちゃんとお婆ちゃんらしき二人がいた。
「お客さんかね」
「そうよ」
「それはそれは、こんな田舎町まで大変じゃったろ、ゆっくりして行って下さいましな」
「いきなりお邪魔してすいません、お世話になります」
「気は遣わないで結構じゃからよ」
女性は笑っている。
その晩は豪勢な鍋料理を馳走になって俺は大満足だった。
「ご馳走様でした。」
「おう、大したもんは作れんで悪かったの~」
「いいえそんな事ありません、美味しかったです、こんな美味しいものを食べたのは久しぶりです」
食べ終わってから女性は「部屋はこっちよ」と案内してくれた。
部屋には灰皿があったので一服させて貰い床に就こうとする。
すると女性が入って来る。
「そんなに早く寝てどうするのよ」と言いながら俺の身体に指を触れる。
「ちょっと待ってよ」
「何も言わないで」
こうなったら甘えるだけ甘えてやれと俺はその気になった。
女性は覚悟を決めたみたいねと言い服を脱ぎ始めた。
実に綺麗な身体(からだ)だ。俺は見取れた。可愛い顔に長い巻き髪、透き通るような素肌、しなやかな指先、張りのある見事な大きな乳房、妖艶な腰つき、きゅっと締った足首、俺は耐え切れずにその身体に顔を埋め貪り尽くした。凄く甘い芳醇な香りがする。
「あら、結構積極的じゃないの」
「こんな美しい身体を見たのは初めてだよ」
俺は思う存分堪能した。
そうして契りを交わした後、女性は「良かった?」と聞く。
「最高だったよ」
「嬉しい」と笑みを浮かべて言う。
「でもこの事は絶体誰にも言っちゃダメよ、私の事もよ、そしたら私あなたの女になってあげるから」
「分かったよ」
「絶体よ」と念を押す。
そして二人は眠りに就いた。
翌朝起きると女はいない。
下に降りたら老夫婦が台所でごそごそしている。
「おはようございます、昨日は大変御馳走になり有り難う御座いました」
「おう、朝飯でも食っていかんかね」と朝ご飯を出してくれた。
「本当にお世話になりました、ところで娘さんは何処かに行かれたのですか?」と聞くと。
「お、娘? そんなもんはここにはおらんが?」
そんな馬鹿な話はない、確かにあの女性は昨晩まで俺の前に居た。そして一緒に寝たんだ。この手にはまだはっきりとその感触が残っている。
次の一言を発しようとした刹那、俺は口がきけなくなった。
声が出ない! 何故だ!?
そうか、あの子が言っていたのはこういう事だったのかと後悔したが後の祭りだった。
その家を出たら目の前は真っ白になり俺は死んでしまうのかと思った。
陽炎のような人だった。また会いたい。
こんな怖くも甘い清々しい夢を見たのは久しぶりだった。
完
甘い陽炎 saga @hideki135
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