第8話 案ずるよりも産むがやすし
「あ、はい」俺はいきなりのことで戸惑った。
「すごいね、君、外見に似合わずヘミングウェイやガルシア・マルケスなんか読んでいるんだ。初めはやんちゃな兄ちゃんが出て来たなあって思ったけどね、いい意味で裏切られたよ」と主催のおじさんはケタケタ笑う。
「あ、俺、本を読むしか能がないんで」俺は素直な感想を述べる。
「それにしても近くで改めて見ると君、大きいねえ」
「まあ、はい」俺が返答に困っている間、主催者さんがポケットから一枚の紙を取り出す。
「これ、俺の名刺」俺は生まれて初めて、他人から名刺をもらった。轟(とどろき)彰(あき)浩(ひろ)、K書店S支店店長、ビブリオバトルS県委員会委員長。
「そこに俺のフェイスブックスのアカウントも載ってるから、気軽に連絡して。冬は中高生限定の全国大会もあるしさ。きっと僕も行くし、また会えたら良いね」
「全国大会」俺は主催者の言葉を繰り返す。
「あれ、お前ら、全国出ないの? てっきり出ると思ってた」
轟さんは伊月と俺を交互に指さす。
「全国」俺は振り返り、伊月の顔を見る。
「知ってただろ」思わず腕をどつく。
「うん。もうお前の分も応募してある」
「なんでだよ」
どつくだけじゃ足りないので、頭もはたいておいた。
「伊月君って、そういうとこあるよね」珍しく鈴木もあきれ顔だ。
「後から棄権は出来るけど、後から応募は出来ないだろ? それになんかここんとこ、お前の話しかけるなオーラがすごかったからさ」
伊月は笑いながら取り繕う。
「ま、いいわ。ありがと」
とりあえず感謝だ。無茶苦茶だが、伊月の言っていることは正しい。どうせ出たいと思っていても、今日の大会が終わるまでは伊月の話も頭に入ってこなかっただろう。
「あはは、君たち、仲良いねえ」
優しい目で轟さんが言う。俺はもう突っ込むのをやめた。轟さんのゆっくりした気の抜けるような声のせいだろうか、どんど気力がなくなっていく。
「とにかく、今日はお疲れさま。これ、表彰状入れ」
轟さんが、表彰状を筒に入れてくれた。轟さんはそれをぶっきらぼうに渡す。コンビニの会計で店員にパンを渡すようなノリで。
「じゃな」
そう言って轟さんは、他の参加者の所へ行ってしまった。嵐のようにいきなり現れていきなり消える。ちょっと前までの伊月みたいだ。
「あの、日向さん」
俺の声を誰かが読んだ。低い、女の声だった。見ると、綺麗な顔立ちの女が俺の後ろにいた。アイドルみたいな顔の子だ。名前は忘れたが確か太宰の本を紹介した子だ。
「日向さんは海外文学にお詳しいんですか?」
丸い二つの目が、俺を凝視していた。近くで見るとまつ毛が長い。
「えっと、どちら様でしたっけ?」
「海野です」
顔に似合わず、声は若干低めだ。
「桂陽高校の方でしたよね?」
伊月が口を挟む。さすがの記憶力。
「あ、そうです。桂陽高校二年です。私、日本の作家しか今まで読んでいなくって。日向さんの話を聞いて、海外の作品にも興味が出てきて」
それは俺にとって、すごく嬉しくなる言葉だった。今までにない感触だった。
「あー、こいつ、本の知識だけは凄まじいからな」
後ろから聞こえる伊月の言葉も、取りたてて腹が立たない。俺はその時初めて、自分の趣味を誰かと共有する喜びを知った。自分が好きなものに、俺がきっかけで誰かが興味を持ってくれる。それはすごく嬉しい事だった。俺はいつも、自分自身のためだけに本を読んできたし、伊月を除いて、自分の好きなことについて誰かと語りたいと思ったことは殆ど無かった。俺は初めての感覚に、なんか背中がかゆかった。
「俺、太宰も好きだけど、今、嵌りが米文だから……」
「何かおすすめはありますか?」
少し顔を赤くして海野さんが言う。俺はなんだかうれしいようなこそばいような不思議な気分になる。
俺は必死に頭を働かせ、読みやすそうな作品を彼女に教えた。海野さんは真剣に俺の話を聞いてくれ、忘れないように携帯に作品名をメモした。ふと伊月の方を見ると、奴は他の参加者たちに囲まれていた。
「結構、最近の作品とか知っているんですね」
社会人らしい眼鏡の男性が伊月に言う。
「文芸雑誌とか読み込んでるの?」
「人並みですかねえ」
俺は原作者の鈴木がここにいることがばれやしないか、冷や冷やしながら奴を見ていた。が、案外誰にも気づかれなかった。
あ、そう言えば忘れてたが、鈴木は……?
辺りを見回す。あいつは小さいから分かり辛い。
「あ、日向君。さっき、主催者の方に名刺貰ったよ」
鈴木が無邪気に俺に言う。やっぱり気づく人は気づくらしい。光の正体を。
「私も貰いました」
海野さんがにっこりと笑った。俺はほっと一息ついた。
※※※
次の月曜日の朝、俺は伊月の姿を見つけると、すぐに飛んで行った。
「全国大会のブロック、二週間後じゃねえか!」
「あ、そうだけど」
相変わらず、こいつの態度は変わらない。
「何かあるの?」
クラスの茶髪女子が言う。伊月とは仲が良いが、俺とは話したことがない。確か吹奏楽部。
「ビブリオバトル。日向は一昨日、大会で優勝したんだ」
伊月が説明する。
「へえ、何それすごい。バトルって、カードゲームか何か?」
「ぜんぜん違う!」
俺が思わず突っ込む。鈴木以外の女子と自然に会話できたのは、すごく久しぶりのことだった。俺は大会の説明をする。
「へえ、日向って意外とすごいんだね、頭いいんだ」
「頭はよくないけど、本は好きだからな。っていうか、支部(ブロック)大会まで二週間しかねえのかよ」俺は伊月を睨む。
「二週間ありゃ十分だろ。っていうか、情報収集不足を人のせいにするな」
伊月が珍しく、ぴしゃりと言った。俺はその通り過ぎて、ぐうの音も出なかった。それ以来、俺は自分に情報収集を怠らないことを誓った。
「心配しすぎなんだよ、まったく」
伊月が珍しく、カリカリしていた。
放課後、そのことを鈴木に話した。
「日向君がこの前優勝したからね、伊月君がカリカリして当然でしょ。本人気づいてないみたいだけど」
鈴木は相変わらず淡々としていた。ただ、このところ鈴木の食欲がずっと右肩上がりだから、作品は大分佳境に入っていると窺える。俺は思わず彼女にチョコボールをあげる。俺は机の上に積み上げた本の山を見る。横には、途中まで印刷された鈴木の新作原稿があった。
最近、伊月は鈴木の作品に口出ししない。今日も生徒会の仕事でまだ部活に来てないし、忙しいせいもあるのだろう。その点に関して、鈴木は何も言わない。今まで通り、淡々と描き続けている。もしかしたら、今回の作品には伊月が口出しすることは何もなかったのかもしれない。今作は前回の物と比べ、テーマが複数ある訳では無くはっきりしていたし、分量も少し抑えめだった。登場人物も前の半分ほどしかいない。伊月が味付けしなくても十分面白い作品に仕上がっていた。前回はエンタメ要素が強かったが、今回は純文学寄りだ。
「なんでそんなに自信ないの?」
鈴木が手を止めずに聞く。目線はパソコンに向けたまま。
「俺が?」
「うん」鈴木が淡々と聞く。
「逆に聞くけど、なんで俺が自分自身に自信持てると思うわけ?」
「日向君はいろんなことを知ってる」鈴木が言う。手を止めずに。カタカタとパソコンの音が響く。
「何も知らないよ」
「日向君は気づいてないかもしれないけど、日向君の本の知識は大人顔負けだと思う。本を好きな気持ちなら誰にも負けてないと思う」
「ただ好きなだけだよ」
俺はため息をつく。
「好きなだけじゃ何もできない」
「この前の大会で日向君が優勝したのは当然の結果だったと思う」
鈴木は相変わらず淡々と言った。ニュースのキャスターが今日の天気を知らせるみたいに。
「なんかね、すごくその本が好きなんだなあって感じられたの」
感情をこめずに鈴木が言う。俺は奴の目を見る、鈴木は俺を見ない。
「その作家さんの本だけじゃなくってね、その作家さんが影響を受けた本も、同じ時代に書かれた小説も、たくさん知ってるでしょ? それは本当にすごい事だと思うけど、結局、その本がすごく好きだからのめり込んじゃったんでしょ?なんかね、本当に本を愛している人のプレゼンなんだなあって伝わって来たよ」
「本を読むしか才能が無いんだよ、俺」
「うん」
鈴木が笑う。ようやく目が合う。
「否定しねえのかよ」
俺も笑う。
「私もそうだもん」
「はあ?鈴木はすげえじゃんか。高校一年で、あんなすげえ作品作って、文学賞獲って。お前のせいで俺、自尊心ボロボロになったんだからな」
俺はほとんど自暴自棄だった。今更隠してもしょうがない。
「俺には本当に何もない」
「私は好きなことをしてるだけだよ」
「それがすげえんだよ、ホント。すげえ奴にはわからないよ。だって、俺には書けない」鈴木の手が止まる。彼女の目が開く。大して大きくも無い目だが、丸い。小動物のように純粋な目。
「書いてみたの? 小説」
声が大きい。俺は周りに人がいないことを確認し、鈴木を睨んだ。鈴木の目は開いたままだった。
「あーー……その、まだだけどさ、その」
「書いたんだ」
「ちょっとだけだけどな。でも、できるまではあんまり人に言いたくない」
「そうだよね、私もそうだし」
「伊月には絶対に言うなよ」
鈴木は一瞬がっかりしたような顔をしたが、やがて頷いた。その目は、いつもの小説を書いている鈴木の目だった。
「わかった。約束する」
鈴木が小指を差し出す。
「約束の仕方が古いな」
「古いよね」
鈴木がそう真剣な顔で言うから、俺には冗談なのか本気なのか判断がつかなかった。俺は小指を出す。こんなことをするのは久しぶりだったから、妙に恥ずかしかった。俺は周りに人がいないことをもう一度確認し、小指をクロスさせた。
「約束だから」
そう言って鈴木が力を入れる。俺は指に殆ど力を入れなかった。なぜか彼女の細い指に、自分からは触れてはいけない気がしたからだ。
四秒か五秒くらい、俺たちはじっとしていた。本当はもっと短かったのかもしれないが、俺はそのくらいの長さに感じた。完全な静寂が俺たちを包んだ。やがて彼女は力を入れるのをやめ、手を引っ込めた。俺はこの時生まれて初めて、女子の身体に触れた気がした。勿論そんなはずはないのだが。
「もう一つ約束してくれる?」
鈴木が俯きながら言った。夕暮れで、後ろの窓からは日が射していた。鈴木の顔が眩しい。
「場合によっては」
「できたらちゃんと私にできた作品を見せて欲しい。たとえどんな風になっても」
なんだ、そんなことか。
「わかった」
何かの音楽が鳴った。時計だ。ここの図書室の時計は少し変わっていて、毎時間、オルゴールで何かしらの童謡が流れる仕組みになっていた。確か流れた曲は、『君をのせて』。
「五時だね、もうすぐ伊月君来るんじゃない?」
鈴木はすごく穏やかな表情で言った。
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