それでも日は昇る

阿部 梅吉

第1話 大事なのは出会いではなくそこから一歩踏み出すかどうかだ

 記憶は曖昧だ。出会いは覚えていない。あの頃のことは結構覚えているが、出会いだけはあまり覚えていない。気づいた時には知り合っていて、気づいた時にはいつも一緒にいた。俺らがどこに行って、いつ何をしたのか、何を言ったか、何を思ったのか、それらは俺の記憶としてしっかりと胸に刻まれているが、あいつらと出会った日だけは思い出せない。伊月とは席が隣だったから自然と話すようになったんだと思う。光(ひかる)とはどうやって知り合ったんだろう?俺らは気づけばいつも三人でいた。


 入学早々、かったるい自己紹介を済ませ、クラスの中に友達を作らなければ、といった焦りにも似た空気が漂い始める中、俺は一人で本を読んでいた。

 その時に読んでいた本が何であるか、正確に思い出すことは出来ない。なぜなら俺は、殆ど全ての授業時間に、隠れて本を読んでいたからだ。当時の俺は真面目に勉強に励むことなど一切なく、試験前に慌てて問題集をやるくらいで、赤点さえ回避できればそれでいいと思っていた。そのおかげで、県内では一番の進学校に通ったにも関わらず、成績はあまり褒められたものではなかった。


 俺の本読みは、もはや病的と言っても良い程だった。一日一冊は何かしらの本を読んでいたし、俺はそれが文字でありさえすれば殆どどんな物でも読んだ。辞典から食材の裏の成分表示に至るまで、文字と言う文字を読んで生活していた。小さなころから本を読むことは好きだったし、小学生の頃は図書館にあるミステリーの本をまるまる読破したりもした。中学、高校に上がってもそれは変わらず、特に高校に入ってからはその勢いが加速した。


 中学の頃は熱心にバスケ部の練習に参加したし、授業も真面目に受けていたから、それほど読書に時間を割けはしなかったが、高校に上がり、部活をやめ、授業にもついていけなくなり始めてから、むさぼるように本だけを求めるようになった。俺は自分自身のそのような心の変化に気づいてはいたものの、それを止めることは出来なかった。

 とにかく俺は本を欲していた。

 元々勉強はしたい奴がすればよいという自由な校風もあってか、教師たちは俺を特に注意しなかった。そんなわけで俺の本狂いは益々加速していった。


 俺は自慢じゃないが、身長が百八十四センチあり、毎度席替えの度に、特別に後ろの席にしてもらっていた。そんな俺が目立たないわけが無いのだが、それでも、教師たちは俺の態度を見て特に注意をしなかった。教室はいつも騒がしかったし、多くの同級生たちが、気になる異性に少しでも近づく努力していた。俺だけは只一人、黙々と本を読み続けた。この世の中にある本の中から、「俺がまだ読んだことのない本」の数が減り、「俺が読んだことのある本」の数が増える。それだけだ。俺の席には誰も来なかったし、誰も俺に声をかけようとしなかった。只一人を除いては。


 俺は高校時代、いつ何の本を読んでいたかを正確に思い出すことは出来ない。ただ、「俺が読んだ本」の中の一つが、あいつの心を揺り動かした。


「面白い?」と彼は聞いた。

 こいつのことを俺は知っていた。確かクラスの代表になった奴だ。眼鏡をかけていて、黒髪短髪。すごく爽やかで、顔も整っている。話も上手い。俺と違って、男女ともに人気のある人間だった。


「面白い」と俺は言った。

「この作者の本は色々読んだけど、どれもすごく面白い」


「『…………』(同じ作者の本だったと思う)も読んだ?」と、奴は聞いた。


「勿論」俺は即答した。


「どうだった?」


「ずば抜けて良かった」


 俺は正直に答えた。多分、それがきっかけだったと思う。


 その日から、伊月は俺と本の話をするようになった。お互い、自分の好きな本についてなら俺らは延々と語ることが出来たし、自分が知っている世界を共有できる存在は、どちらにとっても俺たちしかいなかった。悲しい事に、俺らの周りには本を読む人間が圧倒的に不足していた。俺たちの意見こそ度々ぶつかったものの、自分が好きな作品を語れる貴重な相手として、心のどこかでお互いをリスペクトするようになった。



 俺らの関係が急速に深まったのは、桜の花が散ったあたりだったと思う。あの日、伊月は気持ち悪い程にこにこしながら俺に近づいてきた。


「なんだよ、にやにやして」


「俺さあ、新しい部活を作りたいと思うんだよねえ。どう思う?」


「いんじゃねえの、知らねえけど」


「文芸部作ろうと思うんだ、お前と」


「俺も入ってるのかよ」


「当たり前だろ、日向(ひなた)がいなくてどうする」


「そんなラノベみたいに簡単に言うな」


「まあまあ、俺ね、すごい人見つけちゃったんだ。後で紹介するから」


「大体お前、生徒会に入っているんじゃないのかよ」


気づいたら伊月はもうどこかに行っていて、俺の発言だけが虚しく響いた。

 

 俺は昼休み、伊月から二つ隣の教室まで呼び出された。伊月が俺の顔を見ると、一人の女の子を手招きし、俺に近づいてきた。一人の女子も近づいてきた。ショートカットで眼鏡をかけている。


「こんにちは」


 これといった特徴の無い女の子だった。身長は百五十センチくらい、体重はわからないけど四十五キロくらいだろうか。小柄な女の子、といった印象しか受けなかった。


「鈴木光(すずきひかる)さん。こいつは、日向(ひゅうが)昇(のぼる)」伊月が俺を紹介する。


「ども」慌てて頭を下げる。


「初めまして」


 気まずい。この女子も、どうやら俺と同じようにあまり社交的では無いらしい。俺らは特に話すことが無くなった。すかさず伊月にアイコンタクト。


「鈴木さん、実は小説を書いているそうなんだ。それも膨大にね。俺は一部見せてもらったんだけど、本当にすごいよ」伊月が満面の笑みで俺に語り掛ける。若干うざい。


「いえ、そんな」鈴木さんはマジで困っているみたいに謙遜した。


「とにかく、一度鈴木さんの作品を読んでみたら良いよ。本当にすごいから。あ、そうだ。今日の放課後、とりあえず五組集合で」

 伊月が嵐のように捲し立てる。俺と鈴木さんが口を挟む暇も無く、伊月は自分の言いたい事だけを伝えて消えた。あいつは自分のやりたいことを終えると、すぐに消えるらしい。


「あ、宜しくお願いします」

 鈴木さんは再度俺に礼をして、教室の奥に引っ込んでしまった。俺は何が起きているのかよくわからなかった。

 放課後、あいつの約束通り、俺は教室で待機していた。伊月は言い出しっぺのくせに、どこかに消えていた。突然、誰かの走ってくる音がした。


「入部希望届、もらってきた!」

 少年漫画の主人公張りに、伊月が教室に駆け込んでくる。鈴木さんもいた。


「これにさ、名前書いてくれよ。印鑑が無ければ拇印で大丈夫だ」


「俺が入るってことは、確定なの?」


「当たり前だろ、三人以上部員がいないと、部活にならない」


「あ、そう」俺は朱肉に親指をつける。


「最初からそういう計画だったわけか」


「まさか。単に言うのを忘れてただけだ」


 あまりにも堂々としている伊月の態度に、俺は何が真実かどうかはどうでも良くなっていた。伊月のその圧倒的な行動力と熱意、加えて俺の不遜な態度に鈴木さんは明らかに戸惑っていた。


「あ、光(ひかる)、安心しろ。こいつ、口は悪いが、小説の知識だけはずば抜けているから。安心して良い」

それ、フォローになってなくね? 俺が伊月を睨むと、


「? 本当のことだろ?」


 俺らが普段のように、鈴木さん抜きでわあわあ言い合っていると、彼女は真顔で

「二人って仲良いんですねえ」と呑気に言う。


「「よくねえよ」」

 俺らがハモると鈴木さんが笑った。俺は怒った。伊月はにやにやしていた。


 その日は三人とも、左手の親指だけがハンコで赤くなった。

 文芸部、これにて正式に発足。






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