第14話 9月5日(火)
「じゃあ、29日はよろしく頼むよ」
向かいに座っていた哲朗は、自分のパソコンを触りながら頷いた。彼の隣に座っている上坂さんは、自分のスケジュール帳にペンで何かを書き込んでいる。
「浪川さんは来れないんだよな?」
哲朗は「彼女は、衣笠キャンパスなんで」と応えた。キャンパスが離れているとはいえ、まだまだ後期の履修登録の時期だろうに。茨木キャンパス組の彼らだけピックアップして、明子さんの誕生日パーティに連れていくのはなんとなく引っかかる。
「じゃあ、これで上坂さんの一歩リードだ」
「でも、瑞希さん、明子さんに会ったことあるんでしょ?」
香織はコーヒーを自分のカップに注ぎながら、僕の後ろから声をかけた。僕は、少々驚いて、「え、そうなの? 初耳なんだけど」と言った。
「え、知らない? 随分前に本人から聞いた気がするけど」
香織は立ったまま一口飲んで、スッと自分の仕事に戻った。半ば事務員的に僕よりオフィスにいることが多い彼女は、僕よりはるかに社内の事情に通じているのかもしれない。
斜向かいの上坂さんの表情が僅かに曇った。
そんな話を微塵も出さなかった哲朗も哲朗だけど、水面下で情報共有もしてくれなかった明子さんも明子さんだ。信頼されているのか、いないのか、彼の後見人を今後も名乗るには自信がなくなってきた気もする。
哲朗は周りのことなど一切気にすることなく、自分のパソコンを見ていた。壁の時計を確かめて、「じゃあ、僕はもう出ますね」と腰を上げた。彼は自分の席に戻って、荷物を詰め始める。備え付けモニターの電源を落とす。
彼はカバンを肩にかけ、「今日はもう戻ってこないんで」とオフィスを出て行った。僕は一拍遅れて、その背中に「おぅ、了解」と言葉を投げた。
僕も自分の仕事に戻るべく、椅子から腰を上げる。上坂さんは同じ椅子に腰掛けたまま、スケジュール帳を脇に寄せてカバンの中を探っていた。
「次の打ち合わせまで、ここで作業しててもいいですか?」
言い方も声もいつもとなんら変わる様子もないのに、目つきや全身から正体不明の迫力が放たれているような気がする。僕はできるだけいつも通りに聞こえるよう、「ああ、どうぞ」と応えた。
「ありがとうございます」
表情はとても柔らかな笑顔なのに、背筋にゾクっと悪寒が走る。彼女は無駄のない動きで原稿用紙を取り出し、執筆用のペンを筆入れから出すと一つ一つマス目を埋め始めた。頭が前に落ちて、少々丸まった背中から黒いオーラが漏れ出ているような気もする。
森田さんとの打ち合わせは、この後15時から。まだ三十分少々、彼女はそこで書き続けるだろう。オフィスの端に設定した打ち合わせスペースから、目に見えない緊張感みたいなものが全体に拡がっていく。
僕は資料を自分のデスクに積み上げ、締め切っていた窓に手をかけた。
「クーラーついてるのに」
窓を大きく開けた僕に、香織は不満げな表情を向ける。僕は「換気だよ」と答えながら、最近の空調を信じて、窓をもう一つ開けてみた。
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