第11話 7月5日(水)

 午前8時前に送ったメッセージが、未読のままになっている。普段なら即レスがあってもおかしくない時間帯なのに、30分以上返事がないどころか、未読のままということは、やはりまだ寝ているのだろう。

 道中のパン屋で包んでもらった紙袋を片手に、出来るだけそっとドアの鍵を開ける。セキュリティにも変に反応されず、とりあえず胸を撫で下ろして自分の席に荷物を置いた。応接スペースを覗くと、椅子を連ねて横になっている哲朗がいた。寝息を立てている姿は可愛らしくも見える。

 彼の額には、綺麗な字で書かれた上坂さんからのメッセージが貼られていた。どうやら彼女は、始発で一度自宅に帰ったらしい。「今日も学校で」というところに、底知れぬ若さを感じる。

 しかし、二人で一夜を明かしながら、それにしては小綺麗な状態で入り口の鍵が降りていたということは、上坂さんが帰るまで彼は起きていたということだろうか? 交代で仮眠を取ったのであれば、この熟睡も仕方ない。

 せめて、旨いコーヒーでも入れてやろう。ポットに給水してスイッチを入れる。コポコポと静かに湧き上がるのを待ちながら、哲朗の寝顔に目を向ける。思春期になってからは、身体つきも顔つきも一朗さんの遺伝子が顔を覗かせてきたが、顔のベースは妹の美桜ちゃんより明子さんに似ている。顎のラインや目元なんかはそっくりだ。

 スマホのカメラを立ち上げて、出来るだけ息を潜めながら、画面を近づける。もう少しでいい感じの画角になりそうなところで、哲朗は目を開けた。反射的に体を動かしてバランスを崩し、椅子が好き勝手に散らばった。上に乗っていた哲郎の体は、背中から床に叩きつけられた。

 彼は「いたた」と背中をさすりながら、僕を怪訝な面持ちで見てくる。

「なんですか、いきなり」

「可愛い息子の寝顔を送ってやろうと思ってね」

 サッとシャッターを切ったのが功を奏したらしく、少し小さいが鮮明な画像が撮れた。彼はなおも何かを言いかけたが、目の前に手をやり、おでこに貼られたメモに視線を向けている。その間に、サッと明子さん宛に写真を送ってしまおう。

 「送信完了」になったのを確かめて、コーヒーの準備に戻る。彼の朝食用に買ったパンも応接スペースに持っていく。彼は椅子と服とを直し、改めて腰掛けた。

「目は覚めたかい?」

「ええ、まぁ。なんとか」

 彼はまだ目が開ききらない様子で、のんびりした動きでコーヒーカップを口元に運ぶ。「いただきます」と口に出してから、パンをもそもそかじり始めた。

「今日も講義あるんだって?」

「そうなんですよ。午前中に必修科目があるんで」

 彼はスマホを操作しながら、僕の問いかけに応答する。スマホを触る指を止め、僕に「冷蔵庫を見てもらってもいいですか?」と言った。言われるままに冷蔵庫を開けると、見覚えのない眠気覚ましドリンクが1本入っていた。

「随分、愛されてるじゃないか」

 僕はそれを差し出すが、彼は少々苦い笑みを浮かべて、「そうなんですかね」と困ったように言う。

「とりあえず一回帰って、登校します」

 受け取ったドリンクをグッと呷り、「朝食ご馳走様でした」と礼を述べると、荷物をまとめて慌ただしく帰り支度を整える。ほぼ徹夜だろうに、この後は風呂に入って、着替えて、学校か。

 オフィスを出ていく背中に、「気をつけてな」と声をかけるのが精一杯だった。

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