第34話 悪妻、暴走する
ラピドゥフル王都グレンツユーバー家タウンハウスでセラフィナとモデストの婚約式が執り行われるのと同刻。
宰相アンプルスアゲルの邸宅裏手にはうら寂しい林が広がっている。
そこに不釣り合いな一人の若い女の姿があった。
「御意。全て、手筈通りに」
女は魔道具を使っているのか、虚空に向け、深々と礼をする。
「まさか、お主がな。今でも信じられんよ」
その涼やかな声に女が振り向く。
そこにはいるはずのない男の姿を認めると目を見開いたまま、固まってしまう。
漆黒のローブに身を包んだ男はその顔に憂いと戸惑いの混じった複雑な表情を浮かべ、女を見つめた。
「まさかな。ナルが睨んだ通りとは。だが、それも今日で終わりだ」
そう言うとローブの男の隣に立つ長身の若者が右手に握る斧を女の方に向ける。
若者――マテオが女の身柄を確保すべく、歩を進めようとしたところを男に押し留められた。
「不肖の弟子の始末はこの私の役目だよ。マテオくん、君はもう行きなさい」
ローブの男――既に壮年の身でありながら、まだ二十代の若者にしか見えないニクス・アンプルスアゲルは不健康にも見えるやや青白さの目立つ顔に薄っすらと笑みを浮かべ、マテオにすぐ離れるようにと促した。
彼が言に従って、離れていくのを見届けたニクスは女の方へとゆっくりと歩みを進める。
「先生……いえ、ニクス。生きていたんですね。死んでなかったんですね」
「タマラ。君はあの子のことを気に入っていたのではないか?」
「御自分のことより、あの娘のことを気にかけるんですね。私がなぜ、こんなことをしたのか、知りたいですか?」
「素直に話してはくれんのだろう?」
「ええ、私に勝ったら、喜んで教えて差し上げましょう」
ショートソードを抜き、魔法の詠唱を始めるタマラを見つめるニクスの目にはただ、悲しみの色のみが浮かんでいた。
夢を見た。
最悪な夢だ。
悪夢なんて生易しいものじゃない。
痛い。
胸にはチクチクと針で刺されたよう。
痛い。
首には鋭い刃物を当てられているよう。
憎いわ。
あの男をこの世から、消し去らない限り、この痛みは取れないわ。
だから、殺す。
髪の毛一本残さず、消し去ってやるの。
チャンスが訪れるまでおとなしく、しておこう。
あの男が隣にいるだけで見境なく、全てを吹き飛ばしそうになるくらい、心が乱れてくる。
だけど、我慢しないといけない。
婚約指輪の交換は終わった。
手を取られると全身に鳥肌が立つくらいの恐怖を感じる。
それなのに目の前の男を八つ裂きにしたくなる憎しみがそれを上回るのだ。
あぁ、憎い! 憎い! 憎い!
「それでは書類にお二人のサインをお願……ひっ」
そう言った公証人の顔が恐怖に引きつっていた。
もう隠し切れなかったのね。
私の身体から、魔力が……風が溢れ出て、止まらないの。
いつもだったら、きれいな半透明の緑の風なのに今、私の全身を覆っている風はどす黒く濁っていた。
私の心がそのまま、現れたみたい。
「あはははははっ」
「セナ、君のその風!?」
「うるさいっ!」
その名で呼んでいいのは私が好きな人……愛してる人だけだ。
お前はっ……お前に呼ばれることだけは許さないっ。
「駄目よ、セナ! その声に耳を貸してはいけない」
風を纏い、周囲の物を切り刻みながら、一歩一歩と確実にモデストへと近付く私の前にナル姉が立ちはだかった。
その顔はいつも心配してくれて、助けてくれる優しくて、強い信頼するお姉さん。
私の憧れの人……。
だけど、許さない。
モデストを庇うのなら、ナル姉も敵だわ!
「くっ。セナ、諦めないで」
至る所を切られ、彼女の着ているドレスが鮮血で徐々に赤く、赤く染まっていく。
そんな男を庇うから……馬鹿みたい。
どうして、そんなことするの?
「セナ、泣いているのか。そうか、すまない。僕のせいか」
自分でも気付いていなかった。
私の頬を温かいものが流れているみたい。
いつの間にか、涙が流れていて止まらない。
どうして?
目の前にいるあの男を殺さないといけないのに出来ないなんて。
何でこんなに苦しいの。
あの時の痛みを、恨みを晴らせるのに。
「僕のせいで……すまない」
モデストの身体から、きれいな金色の光が薄っすらと溢れ出している。
とてもきれいで見ていると何もかも忘れてしまいそう。
その身を切られながらも私に向かって、じりじりと近付いてくる。
何でそんな顔をしてるの?
そんな目で私を見ないで。
今の私は醜い。
黒く染まって、大切な人を傷つけて……何より、人を殺したいなんて。
憎いと思ったことが恥ずかしい。
怖い……自分が怖い。
やめて、来ないで。
「すまない」
私の纏う黒い風に手を切られ、血が噴き出しているのにモデストは私の身体を抱き締める。
この男のせいで殺された。
私のことを見てくれない憎い男。
なのに何で? どうして?
分からない。
どうすればいいの?
私の心を満たしていた黒くて、全てを壊したくなるくらいの憎しみが金色の温かい光に包まれて、徐々に消えていく。
「セナ! お待た……あれ?」
「アリー。わたし達は一足遅かったようですわ」
私のことを心配する大事な友人の声が聞こえ、緊張の糸が切れてしまったんだろう。
私は不覚にもモデストに抱き締められたまま、気を失ってしまった。
まるで深い水底へと沈むように……。
でも、それは不安なものではない。
どこか安心が出来る心地の良いものだった。
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