すれ違い

はおらーん

すれ違い


聡子叔母さんは、小さい頃からとても私に優しかった。家に遊びに行けばおやつを出してくれ、クリスマスや誕生日には必ずプレゼントくれた。お正月にお年玉をもらうのも毎年の楽しみにしていた。そんな叔母さんの家に足が向かなくなってから何年になるだろう。年に数回は叔母さんが家にやってくることはあったが、私が行くことは滅多にない。小さい頃はよくお泊まりで行ったのに。


「詩穂、聡子おばさんには連絡しといたから、あんたからも行く前に連絡しとくんよ」


「うん、わかってる」


そうは言ったが、聡子おばさんに連絡するのはちょっと気持ちが向かない。しばらくやきもきしたが、踏ん切りをつけてスマホの連絡帳から叔母さんの番号をタップする。


「ハイ、乾です!」


電話の向こうからは関西弁訛りの元気な声が聞こえる。聡子叔母さんは関西へ嫁いでいる。詩穂にとっては生まれた時から関西にいたので、関西弁を聞くといつも聡子叔母さんのことを頭に浮かべていた。


「あ、お久しぶりで詩穂です」


「あら、詩穂ちゃん久しぶりやんか!泊まりのことでしょ、お母さんから聞いてるで」


関西人らしく会話の押しが強い。詩穂も小さい頃はおしゃべりが好きで、聡子叔母さんの家に行くと布団に入るまで、布団に入った後もおしゃべりを続けていた。


「ハイ、19日から21日までそちらでお世話になります」


「うんうん、大丈夫、しっかり準備しとくから。受験に勝つために晩ごはんトンカツ準備しとくから!」


本気か冗談かわからず詩穂は電話口で愛想笑いをする。とりあえず当日の到着時間だけ伝えて、その場は電話を切った。必要なことはお母さんから大体聞いているからとのことだった。


詩穂にとっては、一本の電話に気持ちの余裕をとられている場合ではない。気持ちを引き締めなおして再び勉強机に向かう。机の上には関西の難関私立大の赤本や参考書が重ねられている。私立入試の受験日まで2週間を切っていた。元々勉強が得意だった詩穂は、関西の有名私立大学を目標に勉強を続けている。おかげさまで模試の判定も良く、あとは当日しっかり力を出せば合格できるだろうと学校や予備校の先生からをお墨付きをもらっていた。そんな詩穂の心配の種は、机の横に置いてある大きなパッケージだった。


(持って行かないとダメだよなぁ。絶対にバレたくないし)


詩穂の志望校は、自宅から片道3時間以上かかる。合格すれば一人暮らしを始める約束になっているが、ひとまずは受験のことを考えなければいけない。最初はホテルをとることも考えたが、別日程の試験や滑り止めの大学も含めてしばらく滞在する必要がある。お母さんからの提案で、大学から近いところに住んでいる聡子叔母さんの家に前日の夜から泊まり、試験期間は叔母さんの家から受験会場に向かうことになった。




幼稚園の頃はお父さんの運転する車に乗って、よく聡子叔母さんの家に行った。叔母さん夫婦には子供がいなかったが、それも詩穂をよく可愛がってくれた理由かもしれない。詩穂が3年生になるころには、週末になると一人で電車を使って叔母さんの家に遊びに行った。しかし、ある時を境に叔母さんの家から足が遠のくことになる。



「しほちゃん、泣かんでもええよ。お母さんには黙っといてあげるから。とりあえず立ってパジャマ脱ごっか」


「うん…」


「あ、しほちゃんまだオシメなんやね。かわいいやんか」


パジャマのズボンを脱がせると、子供用の紙おむつが露わになる。ディズニーのプリンセス柄は詩穂のお気に入りらしいと詩穂のお母さんからはあらかじめ聞いていた。叔母さんも詩穂をからかうつもりで言ったわけではない。泣く詩穂を元気づけようと思って言った言葉だったが、3年生になってもおねしょが治らない詩穂にとって、「まだオシメ」と言われたのは心の傷になった。詩穂は生まれた時から一度も夜のおむつがとれていない。5年生の時に初めて病院に行ったが、混合型の夜尿症と診断された。小学生の間は投薬治療やアラーム療法を試したが、一向に治る気配はなく、結局中学生に上がるころに通院も辞めてしまった。詩穂が勉強や部活に打ち込むのは、そんなコンプレックスがあったからかもしれない。自然学校や修学旅行などの泊まりの行事は、養護の先生に協力してもらって別部屋でおむつ履いて就寝した。それでも克服することはできず、今でも友達の家へのお泊まりなどは誘われてもすべて断っている。


「とりあえずパジャマ脱ごう?」


叔母さんは詩穂にバンザイをさせてパジャマを脱がせる。詩穂は汚れたおむつだけを履いた状態で布団の上に立っている。一人で泊まりに来るようになってから、3回目の悲劇だった。前の2回は、お母さんに言われた通りにトイレで汚れたおむつを脱いで、ビニール袋に入れてこっそりカバンに入れて持ち帰っていた。今回は寝相が悪かったのか、おむつから漏れ出して布団を汚したために叔母さんに見られることになった。あの日から、詩穂は一度も聡子叔母さんの家に泊まってはいない。




「詩穂ちゃんは何歳までおむつするの?」

「まだおねしょ治ってないんだ」

「汚れたお布団みんなに見えるように干すね」


叔母さんが怒ったような表情で畳みかける。汚れたおむつ姿で手を引かれて玄関の前まで連れていかれる。


「そうだ、みんなに詩穂ちゃんのおむつ姿見てもらおっか」


泣きじゃくる詩穂の手を叔母さんが無理やり引っ張り、玄関のドアを開ける。「やめて!」と何度も懇願しても許してはくれない。



詩穂はハッと目を覚ます。よかった、夢か…と思ったが、あまりにリアルで体は少し汗ばんでいる。叔母さんはあんなこと言わないし、実際におねしょした時も優しくしてくれた。それはよく理解しているが、それほど3年生の詩穂にとってあの経験は深く胸に残っているということらしかった。


「今日から叔母さんちか」


独り言のようにつぶやいて、詩穂はベッドから体を起こす。あれから結局おむつをせずに寝た日は一日もない。おねしょをしなかった日も一日もない。今日もモーニングルーティンのように部屋着のズボンを下ろしてパンツタイプの紙おむつのサイドを破った。量は多いが、なんとかおむつの中にとどまってくれている。サイドを破りきると、いつものイヤなにおいが部屋に充満する。自分ではあまり感じないが、お母さんは部屋に入ってくるたびに、においが…と言う。寒いとは思ったが窓の部屋を開けてベッド周りに消臭剤を振りかける。外したおむつは丸めてテープで留めて、ビニール袋に入れてきつく縛った。おむつごみは脱衣所の専用ゴミ箱に入れることになっている。


「詩穂、わかってると思うけど」


「わかってる。ちゃんと準備するから」


脱衣所でお母さんに声をかけられたが、お互いおむつという言葉を出さなくても伝わる。叔母さんの家に忘れずおむつを持って行っておくようにという意味だ。朝ごはんを食べて詩穂は部屋に戻って荷造りの準備を始める。日数分の着替えと勉強道具を詰めた。机の横の大きなパッケージから滞在日数分の紙おむつを抜き取り、このために準備しておいた中身の見えない大きめのポーチに入れてカバンの一番下に押し込んだ。




一人で叔母さんの家に行くのは7,8年ぶりだったが、案外迷わずに着いた。最寄駅から家までの道は少し心配だったが、幼いころの記憶を頼りにするだけで十分だった。お店や住宅街の様子は大きく変わったところもあったが、叔母さんと一緒に買い物に来たスーパーや、駅前のたこ焼き屋さんは健在だった。乾という表札を確認してインターホンを押す。


「はーい!」


電話の時と変わらず元気な声が迎え入れてくれた。


「こんにちは、詩穂です」


プツッとインターホンが切れるのと同時に、「や~、ホンマ久しぶりやんか!詩穂ちゃん、入って入って!」と肩をバンバン叩かれながら家に招き入れられる。詩穂にとってはおねしょをきっかけに遠のいた場所だったが、叔母さんはちょっと老けたくらいであの時と変わりがない。「しばらくお世話になります」と頭を下げたが、気にせずリビングまで通された。


リビングに入ると、おいしそうなにおいがふわっと広がった。お昼は準備しておくと午前中に連絡があった。テーブルには揚げたてのトンカツが乗っている。あの時の電話の話は冗談ではなかったらしい。


「勉強せなアカンのは分かってるんやけど、とりあえずご飯たべよ!主人からは、勉強する詩穂ちゃん邪魔したらアカンって口酸っぱく言われとるから。とりあえずご飯の時にたくさんおしゃべりしようと思って!」


詩穂もおしゃべり自体は嫌いではないが、幼稚園や低学年の時ほど節操なくしゃべることはなくなっている。叔母さんの話に相槌をつきながら、たまに自分の近況を話しながらお昼ご飯を食べた。


「大したものはないけど、部屋はここを使ってね。もうお部屋に入ったら声かけないから安心して!おばちゃん寂しいけど…」


「いえ、十分です。ホントありがとうございます」


詩穂が通された客間には、昔叔父さんが使っていた机が置いてあり、これから追い込みをかける詩穂のために配慮されていた。すでに布団も敷いてある。


「一応晩ごはんは19時ごろでいいかな?」


「はい。大丈夫です」


「それとお布団のこと気にしなくてええよ」


「あ、はい」


話の流れではいと返事をしたが、布団のことが何を指しているのかなと後から疑問に思った。とりあえず荷物をほどいた後は参考書を取り出して机に向かった。叔母さんに晩ごはんに呼ばれるまでは集中して時間が過ぎるのに気づかなかった。晩ごはんの間はまた叔母さんのマシンガントークに付き合うことになったが、今度は叔父さんが適度に御してくれたので助かった。叔父さんもよく毎日このトークに耐えられるなと思ったが、なんだかんだ叔母さんの話を楽しそうに聞いている姿を見て仲がいいんだとわかった。


ご飯の後にそのままお風呂をいただき、もうひと勉強するかと部屋に戻った。いつもなら眠たくなるまで勉強して、寝る前におむつを履くようにしている。しかし今日は叔母さんの家だ。もしかしてがあってはいけないと思い、先に履いておくことにした。カバンの奥に入れておいたポーチを取り出し、中から一枚おむつを引き抜く。小学生のころはまだ量も少なく子供用のおむつが履けた。しかし中学、高校と体が大きくなるにつれておねしょの量も増えた。何度も使うおむつや履き方を工夫した結果、今の大容量のパンツタイプに落ち着いた。子供用とは違ってとても分厚くかさばる。下にダボッとしたズボンを履けばあまり目立たないが、おねしょを吸った後を見られてはさすがに言い訳はできないシルエットになる。明日の朝はバレないように着替える必要がある。


「今日はありがとうございました。おやすみなさい」


「詩穂ちゃん、おやすみ。明日頑張ってね」


一度リビングまで行って寝る前の挨拶をした。すでにおむつは履いていたが、少しだけならバレないだろうと思ってそのまま挨拶して部屋に戻った。そのあと英単語の確認を数十分して、明日の道順を確認してから布団に入った。




「おはようございます」


「おはよう、詩穂ちゃん早いね。昨日よく眠れた?」


「はい、ちょっと緊張しましたけどよく眠れました。あの、シャワー借りてもいいですか」


シャワーを借りるなんて言うと何か疑われるかもしれないと不安に思ったが、これも毎朝のルーティンなので仕方ない。濡れたおむつはさきほど部屋で脱いで置いてきた。すでにビニール袋に入れてカバンの奥にしまい込んである。おねしょのにおいがするのでは、とも思ったが、リビングはコーヒーのいい香りがしていたので、たぶん気づかれてはいないだろう。その後朝食についたが、さすがに試験当日の朝とあって聡子叔母さんもあまり話しかけてこない。詩穂自身の緊張感を叔母さんも感じ取ったのかもしれない。詩穂は1時間ほど余裕を持って家を出て試験会場に向かった。






「おかえり。早速聞くのもあれだけど、試験どうだった?」


お母さんは焦る気持ちを抑えきれず詩穂にテストの出来栄えを聞く。


「まぁまぁかな」


実際のところ詩穂はテストの出来栄えには自信があった。模試の判定や事前の過去問の感覚すれば、いつも通りの力が発揮できれば大丈夫だと自分でも思っていた。たったひとつ、叔母さんの家でおむつを履くことだけクリアできれば、勉強の方は心配ないと思っていた。


「まぁあんたのことだしテストは心配してなかったよ」


「ホントに~?」


受験を終えた詩穂は緊張感からも解放されて柔和な表情でお母さんと話す。


「ところで聡子叔母さんちで夜は大丈夫だった?」


「うん、おむつからも漏れてないし、おむつもこっそり持って帰ってこれたよ」


「なんで持って帰ってきたの?」


お母さんは怪訝な顔をして詩穂に聞き返す。


「なんでって、叔母さんの家で捨てれないでしょ」


「せっかく聡子におむつの処理もお願いしといたのに…」


「えっ?」


瞬間詩穂が真顔になる。お母さんが何を言っているのか理解するのに時間がかかった。


「おむつのお願いって、どういうこと?聡子おばさんにおむつのこと言ったの!?」


「そうだけど、ダメだった…?」


詩穂は呆然として聡子叔母さんの家にいた間のことをぼんやりと思い返していた。


(布団のことは気にしなくてええからね…)


あの時の言葉の違和感が今になって一本の線につながる。最初は3年生の時のことを言ってるのかなと思ったりもしたが、あれは事前にお母さんが聡子叔母さんに私のおねしょのこと伝えたからだ。おねしょしておむつから漏れても気にしなくていいという意味で言ったのだと、今になってやっと理解した。途端に恥ずかしさが全身をめぐり顔が火照る。


「なんで勝手に叔母さんに言うの!?」


「なんでって、心配でしょ。もし叔母さんの家のお布団汚したら自分で言い訳できた?」


「それはそうかもしれんけど、でもそのためにおむつまで持っていって対策したのに!」


詩穂も食い下がる。この場で恥ずかしさをぶつけるのはお母さんしかいない。


「だって、聡子から聞かれたから…」


「聞かれた?聡子叔母さんから?」


「そう。あなた3年生の時に聡子の家でおねしょして泣いたでしょ。あれ以来泊まりに来ないから聡子もずっと心配してたの。それで、今回泊まることになったでしょ。もしかしてって思って聡子から詩穂のおねしょのこと聞いてきたのよ」


「え、そんな」


「だからお母さんから話したわけじゃないんよ。聡子あんたのこと心配してたよ。あんだけペラペラしゃべる聡子が、おねしょもおむつの話題も出さなかったでしょ。受験直前にあんたに余計な心配させないように黙ってくれとったんよ」


お母さんにぶつけようとしていた恥ずかしさから来る怒りは、途端に聡子叔母さんに対する感謝と申し訳なさに変わった。


「聡子にお礼の連絡きちんとしとくんよ。お母さんからも一応伝えとくけど」



詩穂は、部屋に戻ってからラインの画面を開く。帰り際に「おばちゃんも最近ライン始めたんよ。詩穂ちゃん良かったら交換しない?」と言われて交換した。叔母さんに知られたことがわかった時はどうしようかと思ったが、改めて思い返すと感謝の気持ちが湧いてくる。お母さんの言う通り、叔母さんへ感謝の気持ちを伝えることにした。電話でおねしょの話をするのは恥ずかしいと思い、ラインで送ろうと文面を作り始めた。


【今回はいろいろとありがとうございました!叔母さんのトンカツのおかげできっと合格できたと思います笑。また結果が出たら報告に行きますね!それから、おねしょとおむつのこと、配慮してもらってたとお母さんから聞きました。ホントに感謝しかないです。私、3年生の時に叔母さんの家でおねしょしてから足が遠のいてました。でもこれからは堂々とおむつを履いてお泊まりするので、また遊びに行ってもいいですか】


送る瞬間は少し緊張したが、送ってしまうと少し晴れやか気持ちになった。小さいころから大好きだった叔母さん。今も変わらず大好きだ。


10分ほどすると、関西のおばちゃんがOKサインをしたスタンプが一つだけ返ってきた。聡子叔母さんはあまり機械に強くない。今度合格の報告に行ったときにゆっくり今までのこと、おむつのことも話してきたいと思う。

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