百鬼夜行
息をひそめたまま、その場に凍り付いたように闇を見つめていた冴歌だが、確かに聞こえたはずの鈴の音がそれ以降聞こえてこない。
不安に駆られた冴歌は昇り始めたスーパームーンに目を向ける。
いつも見る月よりも遥かに大きく美しい満月。その満月は音も無く時間と共にゆっくりと天に昇っていくのだろう。
一か月の間にやってくる二度目の満月……ブルームーン。そして皆既月食。月の端から少しずつ侵食していき、月が全て茶褐色に染まるのもそろそろだ。
今年の皆既月食は長い時間観測できるとも言っていた。
「伝承では、月が一番空高く昇った時に薄雲がかかったら……だったよね」
伝承のことを思い出しながら、誰に言うでもなくぽつりと呟いた。
今、空に浮かんでいるスーパームーンはほのかに青白く、周りには雲一つ見られない。
どうかこのまま、晴れ渡った状態で終わってくれますように……。
冴歌は無意識にそう願っていた。だがそれでも、胸に迫る不安が拭いきれないのは、何か予期せぬ事態が起きるためだろうか。
「鈴の音……。さっきの鈴の音が、何かの知らせなの?」
冴歌はぎゅっと弓を握り締める。
たった一手放っただけで、今日はもう集中力が切れてしまった。
とてもではないが、このまま続ける気にはなれない……。そう思った冴歌は、巻き藁から矢を引き抜いて急ぎ道場を後にする。
胸がドクドクと鳴り続けている。不安なのか、緊張なのか?
でもそれは一体何に対してなのかが分からなかった。
****
「あら、冴歌。今日の弓の練習はもういいの?」
夕食時、おひつからよそったご飯を手渡しながら彩菜が訊ねると、冴歌は困ったように笑いながら頷き返した。
「はい。何だか風邪を引いたみたいで……」
「確かにここのところ寒暖差が激しいからね。熱は……なさそうだね。冴歌のような若い子でさえ風邪を引くんだ。あたしのような年寄りも気をつけないと。今日は暖かくして早めにお休み」
「はい。そうします」
頼子の優しさに微笑み返す冴歌を見て、彩菜はちらりと信明に視線を送った。すると信明もまたそんな彩菜を見て、にっこりと微笑み返す。
「どうしたんだい? 僕が色男に見えたのかい?」
「何バカな事を言ってるんですか。私はただ、あなたは風邪をひかないなと思っただけです」
彩菜は少しばかり不機嫌そうに信明の前に白米を盛った茶碗をドンと置いた。
「何とかは風邪を引かないって言いますものね」
「おいおい、酷い言い草だな。僕だって風邪は引くんだよ」
ツンケンした夫婦のやりとりはもはやいつもの事。
冴歌は用意されたナスと葱の味噌汁に口をつけ、肉豆腐に箸を伸ばしながらテレビに目を向けた。
『ご覧下さい、この見事なスーパームーン! 仄かに青みがかっているように見えるのでブルームーンと言う名前もしっくりきますね。こんなに綺麗に観測できたのは今回が初めてかもしれません。あと数分で皆既月食も始まります。わざわざこの日のために、近隣住民の方だけでなく、前日から仕事を休んで地方からこの高原に足を運んだ方も、こんなにたくさんいらっしゃいますよ!』
昨日の気象予報士に続き、やや興奮気味に語るリポーターの女性が、高原に立っているカップルや家族に次々とリポートしていく姿が映し出されている。
そんな人々の様子をテレビ越しに見ていた頼子が、呆れた様につぶやく。
「まったく、わざわざ仕事を休んでまで見るようなもんかねぇ」
「いや、天体マニアかもしれないですよ。だってほら、高そうな天体望遠鏡持ってる人もいますし」
信明がまるで擁護するようにそう付け加えると、頼子は顔を顰めて「分からん」と一言呟き、ひじきの煮物を口に運んだ。
冴歌はテレビを見ながら食事を続けていたが、次第に箸が止まり始める。
きっと、普通の人には何でもない今日の現象は、珍しくて綺麗で神秘的なものとしか思っていないのだろう。先ほどから不安に鳴る胸の鼓動がどうしても止まらない代わりに、箸を動かす手が完全に止まってしまった。
「冴歌? どうしたの?」
「……」
心配そうに彩菜が声をかけると、冴歌は何も言わずに視線を下げた。
そんな冴歌の様子を見て、信明は心配そうに顔を覗き込んでくる。
「顔色が悪いな。具合が悪いなら、もう横になった方がいいぞ」
「……はい。すみません」
冴歌は信明の言葉に甘えて立ち上がると、食べていた食器を流しに置いて居間を後にする。
テレビの音だけが響き渡る居間に残された三人は、そんな冴歌を見送り、誰からとも無く視線を合わせた。
「夕方帰って来た時はあんな感じじゃなかったのにな」
「あんたが焼いた芋に当たったんじゃないのかい」
ポツリと呟いた信明の言葉に頼子が睨みつけるように見つめながらそう言うと、「いやぁ……さすがにそれはないでしょう」と苦笑いを浮かべる。
そんな二人を見つめていた彩菜は、深い溜息を吐きながら心配そうに冴歌のいた方へと視線を巡らせた。
「……もしかしたら、何か予感がしているのかもしれませんよ」
彩菜のその言葉は、一瞬にしてその場の空気にピリッとした雰囲気を与える。
まさか、とは思いつつもその後誰も口を開こうとはしなかった。
居間を出た冴歌が自室へ続く廊下を進んでいたが、ふと、道場へ続く廊下の手前で足を止めた。
確かめておかなければならないような気持ちと、止めたほうがいいと思う気持ちが冴歌の中で鬩ぎ合っている。ドクドクと早鐘のように鳴る鼓動を聞きながら、止めたほうがいいと思う気持ちとは裏腹に足は道場の方へと向かっていた。
月が頂上に昇るにはまだ時間がある。少し様子を見るだけだから、何も無い。大丈夫。そう言い聞かせて、冴歌は道場へと向かった。
月明かりだけが差し込む、静かな道場。昨日まではこの空気が好きで仕方が無かったのに、どうしてか今日はビリビリとした空気が立ち込めている。
空を見上げると、満月の傍に薄雲が掛かり始めているのを見て、冴歌は目を見開いた。
「嘘……だって、ほんの少し前まで雲なんか一つもなかったのに……」
驚愕していた冴歌の気持ちとは裏腹に、薄雲はどんどん風に流されて月を覆い隠していく。そして霞掛かった朧月夜に、たちまちの内になってしまった。
月食も始まり、徐々に月が侵食されていく……。
チリーン……。
ふいに先ほど聞いた鈴の音が微かに響いてくる。
月を見ていた冴歌は咄嗟に巻き藁が置かれていた方向へ顔を向け、竹林の向こうの暗闇を凝視する。
チリーン……チリーン……。
鈴の音は確実に冴歌の耳に届いた。そしてその音は徐々に近づき、暗がりの中でゾワリと何かが蠢く様を見る。同時に、青い人魂が三つ、四つとぼうっと浮かび上がり、ゆらりゆらりと左右に揺れながら近づいてくる。
獣が呻くような、地を這う声音。お経のようにも聞こえなくも無いが、さまざまな音が入り混じり何を言っているのかは分からない。ただ、息が詰まるほどに恐怖を覚え、冴歌の体はその場に固まり動けなかった。
「タカハシヤ、エカセニクリニ、タメルサケ、テエヒ、アシエヒ、ワレシコニケリ」
「!?」
突然、背後から肩に暖かな手が回されて抱きしめられる。
すぐ傍で聞こえてくる聞きなれた声に顔を上げると、そこにはいつになく真剣な表情の信明が数珠と護符を手に立っており、ひたすらに呪文のような言葉を繰り返し呟いていた。
竹林の向こうから湧き出てくる黒い影は、次第に月明かりの下にその姿を現していく。見れば、月は茶褐色と言うよりも赤みが強い不気味なものに変わっていた。
身の毛のよだつような人ならざる化け物たち。ぞろぞろとこちらに向かってくる……。だが、今目の前に現れた妖怪たちはまるでこちらが見えていないかのように通り過ぎていく。
冴歌は恐怖のあまり声も出ず、しっかりと肩を抱きしめる父にすがりついた。
一体どれほどの数の妖怪が溢れ出てくるのか。
よく聞き取れはしないものの、ガヤガヤと何かを語る妖怪たち。早くこの場から立ち去って欲しいとただひたすらに願うばかりだった。
冴歌達がまるで流れる川の中心にある岩のように、流れ出てくる妖怪達はさけて通りすぎる。
冴歌はギュウッと目を閉じて信明にしがみついたまま顔を伏せ、息をするのさえも忘れて怯えていた。
やがて、大勢の妖怪達が去った頃になって、冴歌はゆっくりと目を開き潜めていた息をゆっくり吐き出した。
「お父さ……」
「来た……!」
声をかけようとした瞬間、肩を抱き締めたままの父の手に、痛いほど強い力がこもった。
来た、と言う信明の視線は巻き藁の向こうの暗闇を見据えたまま。青ざめた固い表情を浮かべて、冷や汗を流している。冴歌もまた、父のその姿を見てまだ終わっていない事が分かると恐怖を覚え、ぎこちなく巻き藁の向こうへ視線を巡らせた。
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