予兆

 学校が終わり、いつも乗るバスに乗って家路についた冴歌がふと視線を上げると、鳥居の先に煙が上がっているのを見つけた。


 よくよく耳を澄ませば、パチパチと木の爆ぜる音が聞こえ、燻された煙の臭いが漂ってくる。その途端、冴歌の脳裏には過去に父が起こした小火騒ぎの事を思い出され、瞬間的に青ざめた。


「……まさか、火事?」


 冴歌は大急ぎで鳥居をくぐり家までの道のりを走って行くと、神社の入り口では父親が昨日かき集めた落ち葉に火をつけて、焚き火をしている後姿が見えた。

 木々のない参道の脇の開けた場所で焚き火をしているのと、近くに水の入ったバケツを用意してあるのを見て、ホッと胸を撫で下ろす。


「お。冴歌。お帰り~」


 息を切らして立ち止まっていた冴歌に気付いて、振り返った信明の何とものんびりとした声がかかる。そんな父の姿に、冴歌は大袈裟なため息を吐いて傍に歩み寄った。


「もう、人騒がせなんですから!」

「ん~? 何がだ?」


 信明は冴歌から焚き火に視線を戻し、相変わらずのん気な声で燃えている落ち葉を長い鉄バサミで弄る。その様子を見ながら、冴歌はムッと顔を顰めた。


「また小火でも起こしたのかと思ったじゃないですか!」

「何だ。大丈夫だよ。いくらお父さんがのんびり屋でも、同じ事を何度もやらかすほど馬鹿じゃないさ。母さんにも色々言われたしね。だからちゃんと水も用意してるし。あ、ほらほら、丁度いい具合に出来たぞ~」


 こちらの心配など露知らず、にこにこと笑いながらアルミホイルに包まれた焼き芋を鉄バサミでひょいと持ち上げ冴歌の方へと差し出しだした。


 冴歌は手袋を嵌めた手でそれを受け取ると、身に染みるような寒さがそこからじんわりと溶けていくような感覚を覚える。それと共に立ち昇る甘いサツマイモの香りが鼻先をくすぐった。


「今日はいつになく冷えるよなぁ~。昨日までそんなに寒さは感じられなかったのに。やっぱり世界中どこもかしこも異常気象なんだろうな」

「……そうですね」


 手にした焼き芋の暖かさを感じながらそう答えると、ふいにゆるい風が吹く。するとそれまで上へと昇っていた煙が風に煽られて、冴歌の方へと流れてきた。


「わ、っぷ……」


 思いがけず煙に巻かれた冴歌を見て、信明は笑い出す。


「お。煙は美人の方へ流れていくと言うのは本当だなぁ」

「ケホッ、ケホッ……! ちょ、お父さん! 火、そろそろ消して下さい!」


 むせ返り、煙を手で追い払いながらそう言うと、信明は「そうだな。もう芋も焼けたし」と言いつつ、焚き火の中から入れておいた焼き芋をポイポイと外へ転がし、燻り始めた火の上に水をかけて鎮火した。


 冴歌は涙目になりながらむせ込み、焼き芋を小脇に抱えて片手で口元を覆い隠しながら、逆手でパタパタと煙を払い続ける。


「後片付け、ちゃんとして下さいね」

「ははは。分かってるよ。お前は本当、最近母さんに良く似てきたなぁ」


 焚き火の外へ転がした焼き芋を拾い上げながら笑う父の傍を離れると、冴歌は自宅へと戻ってきた。


 二階の自室へと上がり、焼き芋をテーブルの上に置くと制服や手袋などを脱いでハンガーにかけ、足袋を履いていつも通りに巫女装束に袖を通す。

 襷の端を口に咥えて慣れた様子で巫女装束の袂を縛ると、部屋の隅に立てかけていた弓と矢筒を手に神社裏の道場へと向かった。


 自宅から寺を抜けて道場へ向かう途中の廊下で、冴歌はふと空を見上げる。


 夕暮れが近い。早めに練習を済ませなければ、すぐに暗くなって的が見えなくなってしまいそうだ。

 冴歌は急ぎ足で道場へ向かうと、遠くの東の空にとても大きなスーパームーンが昇り始めている姿が見て取れた。


「……」


 月を見上げながら、冴歌は昨夜見た夢の事を再び思い出した。


 ただリアルな夢を見たと言うだけで、別に何かが本当にあるとは限らない。自分が伝承について思っている以上に気にしすぎている事もないとは言えなかった。


「うん、ただの夢だよ」


 自分を勇気づけるようにそう呟くと、気を取り直して道場を見つめた。

 ギシ……と音を立て、誰もいない道場へと足を踏み入れる。

 ここへ来ると、自然の音ばかりが響き渡りいつも神聖な気持ちになった。


 冴歌は弓を袋から取り出して弦を張り、胸当てなどの装具を取り付けて静かに道場の中央へ進みゆっくりとその場に座した。

 そのままの体制で自分の精神を統一させるために目を閉じ、数回深呼吸を繰り返す。耳に聞こえてくるのは、時折吹く風が煽る草木のこすれる音と虫のかすかな鳴き声だけ。

 ゆっくりと閉じていた目を開くと、もうそこは冴歌が集中する弓の世界へと一変した。


 目つきが変わり、集中力が高まる。


 座っていたその場から腰を持ち上げ、左足から姿勢を崩す事無く真っ直ぐに立ち上がる。そして射位まで歩み出ると、再びその場に座り小さく礼をする。

 的に沿って体を横にして座りなおし、弓を構え、矢を番えてゆっくりと立ち上がった。


 的を見据え、矢尻を握り、弓を持ち上げ、ゆっくりと弓を引いて的を狙う……。


 キリキリと弓を引き絞る音がかすかに聞こえる中で巻き藁の中央を捉えると、狙いを定めて一気に矢を放った。矢は真っ直ぐに飛び、的の中央から少し逸れた場所へ小気味の良い音を立てて深々と突き刺さる。


 冴歌は軽くふっと息を吐いて弓を下ろし、次の矢を番えようと準備した瞬間にふと手が止まった。


「……?」


 弓を見ていた目線を上げ、冴歌はふいに巻き藁の方へと視線を投げかける。


 今、何か音が聞こえたような気がした……。


 しばし巻き藁のある方向を見つめていたが、いつもの聞きなれた音だけが耳に入ってくる。


「気のせい……?」


 冴歌は首をひねり、気を取り直してもう一度弓を構え矢を番えようとした。


 チリーン……。


 どこからか鈴の音が、今度はハッキリと耳に届く。


 冴歌はハッとなって視線を上げると、再び巻き藁の方へ視線を巡らせた。


 何か良くない事が近づいているようで、「ここから離れなければ」と、自分の中の誰かが警鐘を鳴らしている。だが、体が金縛りにあったかのように動く事が出来なかった。


「……っ」


 声を発する事も出来ず冴歌はただじっと、道場に座り込み暗くなり始めた空の下で巻き藁のその先の暗がりを見つめていた。

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