目に見えない恐怖

「行って来ます」


 あまり食べる気のしない朝食を簡単に済ませ、玄関先で靴を履きながら抑揚のない声でそう言うと、見送りに来ていた彩菜は心配そうに声をかけてきた。


「冴歌、顔色が悪いわ。大丈夫なの? ご飯もあんまり食べてないようだったし……」

「う、うん。大丈夫。寝不足のせいかな。昨日怖い夢見たから……」


 慌てて取り繕うように微笑みながらそう言うと、彩菜はいかにも心配げに見つめて来る。


「あんまり無理しちゃダメよ。行ってらっしゃい」


 朝6時。母に見送られ、冴歌は自宅を後にする。

 神社を出て自宅前の砂利道を通り、大きな鳥居を潜り抜けてしばらく山道を進むと国道に出る。その国道を反対側に渡れば、一時間に一本の割合で市街地まで行くバス停があった。

 いつもの事だが、この時間このバス停に立っているのは冴歌だけ。やってくるバスにも、人が一人二人乗っていれば良い方だ。


(あと5分か……)


 山の上のせいか、今日は吐く息が白くなるほど冷え込んでいる。

 バスが来るまでの時間を時刻表で確認して何気なく空を見上げると、今日は天気予報の通り雲ひとつない、抜けるようなスカイブルーが広がっていた。


「……さむ」


 それにしても今日は良く冷える。

 冴歌はポケットに入れていたウサギのカイロ用ケースを握り締め、まだ少し寝ぼけた頭でバスを待っていた。


 自宅である神社から、冴歌の通う学校まではバスでおよそ二時間ほど山を下った中心街にある。

 街中は都会ほどではないにしろ多くの人々が行き交っている。

 最近建った有名ブランドショップやコンビニ、観光客目当ての名産品を扱う土産店やデパートなどが立ち並び、中心街から少し外れれば、軒並み一軒家や小学校や福祉施設、娯楽もあるそこそこ開けた場所だった。


 その中心街にある高翔こうしょう高等学校と言う公立校が冴歌の学校だ。


 カイロを手の中でさすりながらバスを待っていると、二分ほど遅れてバスが到着した。

 今日乗っている人はいない。定期券を見せて後ろの出入り口に近い場所の椅子に座ると、ゆっくりと出発する。

 いつも通る風景を見つめながら、冴歌は昨日の夢の事と今日の月の事に思いを巡らせる。


 本当に今日、何もないのだろうか? 今までとは違うものを感じてしょうがない。

 今までも満月の日はあったし、スーパームーンもブルームーンも、ストロベリームーンだってあった。そんな夜だって何もなかったのに、今日の満月は何かが違う。


 まさか、現実になったりしないよね……?


 不安に駆られた冴歌は、膝の上に置いていたカバンをぎゅっと握り締めた。





「神宮寺パイセン、おはようッス!」


 バスを降りて通学路を歩いていると、ふいに背後から元気な声がかかった。

 冴歌がそちらを振り返ると、一つ下の男子生徒、松脇奏まつわきかなでがニコニコしながら隣に並んでくる。

 少し見上げるくらいの背の高さの奏を見上げ、冴歌はニッコリと微笑み返した。


「おはよう、松脇くん。今日はずいぶん元気ね」

「そうッスか? いつもと変わんねッスよ。そう言うパイセンは何か元気ないッスね」

「ね、寝不足よ、寝不足。昨日ちゃんと寝れなくって……」

「珍しいッスね。勉強でもしてたんスか?」

「う~ん……まぁ、そんなところ」


 怖い夢を見たから寝られなかった、などと言うのは恥ずかしくて冴歌は笑って誤魔化した。

 奏は「へぇ~、相変わらず真面目ッスね~」と呟きながら感心したように呟く。


「……ねぇ、今日の夜の、知ってる?」

「あ~、あれッスよね。スーパーブルーブラッドムーンってやつ。あんまりにも珍しいからって、テレビのニュースどこ回してもそればっかッスよね」

「松脇くんは、そう言うので何か感じたりすることってある?」

「感じるって? 霊的なやつとかッスか?」

「あ~、うん。まぁそうね。そう言うやつ」

「や~、俺霊感ゼロ人間なんで、そう言うの全っ然分かんねぇッス。もしかしてパイセンはあるんスか?」

 

 顔を覗き込んで聞いてくる奏に、冴歌は慌てて首を横に振った。


「私も特にないわ」

「神社の娘なのに~」

「神社の娘だからって霊感があるとは……限らないわよ……」

 

 話の途中であくびを僅かにかみ殺しながらそう答えると、そのあくびが移ったのか奏が人目もはばからず大きなあくびをしてのけた。

 僅かに涙目になりながらそれを見た冴歌が、奏の脇を肘で軽く小突く。


「ちょっと、やめてよ。移るでしょ」

「何言ってんスか! パイセンが先に移したんじゃないッスか! うわ~、ないわ~」


 じゃれるように笑いながら歩く二人の姿は、同じ学校の生徒達にしてみればお馴染みの事だった。

 艶やかな黒髪のポニーテールの冴歌に対し、金髪に染めた髪をワックスでツンツンにしている奏の組み合わせは、“世界一似合わない二人組み”として学校中に知られている。


 二人は特別恋人同士と言うこともなく、幼馴染という訳でもない。去年の体育祭でたまたま同じチームになり、たまたま近くに居たと言うだけで何気なく会話した事から、妙に意気投合して仲良くなったのだ。


「松脇くんは、今日もバイトなの?」

「そッス。いや~、留学って大変スよねぇ。資金繰りとかマジ、パネェッス」

「でも、えらいよね。留学の為にバイト掛け持ちして稼いでるんでしょ?」

「そ~なんスよ。今週12連勤ッスよ。マジバカですよねぇ俺」


 へらへらと笑いながら軽い乗りで話す奏の大変さと言うのが、イマイチ分かりにくい。だが、中学時代に短期留学で行った先が良かったのか、こうしてもう一度留学しようする彼の頑張りは、素晴らしいものだ。

 彼と話をするのは楽しくて、冴歌は昨晩の夢の事をこの時はすっかり忘れる事が出来ていた。

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