十六、新井尚也
腕と足が、はち切れそうなほどに痛かった。体をあちこちにぶつけて、そこら中から血が出ている。顔は泥だらけになり、口の中まで、泥の味がする。
ただ、みんなのいる場所へ戻ることだけを考えて、僕は必死になって地面を這っていった。もう、一生戻れないんじゃないかと思うほど、それは気の遠くなる作業だった。
だからこそ、キャンプ場の近くまで行き着き、みんなの声が聞こえたときには、これ以上ないほどの安堵感を覚えた。ガクッと、全身から力が抜けてしまった。そこからはもう、動けなかった。
「れおさーん!」
僕は残った体力を振り絞って、全力で喉を震わせ叫んだ。
そうしたら、れおさんは僕の声に気づき、走って迎えに来てくれた。
「おかえり。尚也くん。ほんと、よく頑張った」
れおさんはそう言って、僕の頭を軽く撫でた。次に、僕の体を抱き上げ、背中に担いだ。
「会」のほかのメンバーの人たちも、横でその一部始終を眺めていた。彼らはどんな表情をしているだろう。余裕がなくて、見れなかった。
「尚也くん、みんなに、話はしておいたよ」と、れおさんが言った。
僕は、太郎くん、日菜さん、あかりさんの、それぞれの顔を見た。それぞれが、僕に温かい眼差しを向けていた。
「尚也さん、おかえりなさい」と、太郎くん。
「尚也くん、おかえり」と、あかりさん。
日菜さんは、僕のほうを真っ直ぐに向いたまま、涙を流していた。
「おかえりなさい」
手の指で涙を拭いながら、小さな声で彼女はそう言った。澄んだ天使のような声が、静まりかえった夜闇のなかに響いた。
れおさんにおんぶしてもらって、焚き火の前の椅子に座らせてもらった僕は、この「会」が始まったときと同じように、参加者たちと顔を合わせて会話を始めた。
「今日は、心配をかけてしまってすみませんでした」
まずは、彼らに対してお詫びした。
「れおさんから聞いてると思うけど、僕、ほんとは、生きた人間じゃなかったんです。
僕は、二十五歳のとき、このキャンプ場の裏手にある崖から、飛び降りて死にました。理由は、生きてるのが辛かったから。
何年か前に自殺未遂をしたことで後遺症を負って、脳の機能障害によって、色々なことに不自由することになったんです。
ずっと、車椅子の生活で。
だけど、死んだら、魂だけになりました。僕には、成仏する道もあったんだけど、取り残された弟の存在を思うと、成仏できなくて。
弟は、僕があの崖から海に身を投げて死んだ後、あの崖に、大事に一緒に育ててた観葉植物を植えに来ました。それが、今から七年前のこと。
弟が植えたその草が、今じゃ立派に成長して、大きくなりすぎちゃって、ちょっと、あの崖では異様な存在感を放ってます。でも、今さっき、僕はその草を食べました。
そしたら、僕は幽霊じゃなく、生身の人間になった。歳も、七年分増えました。
そんなことが起きたのは、全部、死んだ弟のおかげなんです。弟が、僕に、生きるという道を与えてくれました」
「わけがわからないと思うから、質問してもらって大丈夫です」
僕の左隣に座る、太郎くんが手を上げた。
「どうして、魂だけの存在が、幽霊になれたんですか?」
僕は、太郎くんの質問に答えた。
「この世に未練がある人は、一人につき一日だけ、幽霊であることを許される。幽霊といっても、ほとんど生きた人間のようにしていられる。でも、一日だけね」
次に、真向かいに座る、あかりさんが質問してきた。
「れおさんとは、どうやって知り合ったの?」
「はい。れおさんには、今日の朝、急遽連絡をしたんです。もともと、僕は通所者で、生前、れおさんとは面識があって。れおさんも随分驚いてたけど、最終的には、信じて、オッケーしてくれました」と、僕は答えた。
「逆に、あかりさんは、いつれおさんから僕のことを聞いたんですか?」と、僕から質問を投げかけた。
あかりさんが答える。
「私と、日菜ちゃんは、尚也くんがトイレに行くって言ったきり帰ってこなくなって、太郎くんがトイレまで探しに行った後。太郎くんは、トイレから帰ってきた後。
れおさんが、尚也くんはそのうち帰ってくるから大丈夫って言うから、戸惑ったし、話を聞いて驚いた。
私もそうだし、みんな、正直最初はその話を信じられなかった」
今度は、れおさんが、「日菜さんは、何か、あるかな」と日菜さんに訪ねた。そうしたところ、日菜さんから、質問が飛んできた。
「尚也さんの生きづらさは、それだけですか?」
「僕が生きづらい、と思ったのは、発達障害の特性と、LGBTかな。
小さい頃から、場違いな発言だったりとか、人の話をちゃんと聞けない、というのがすごく多くて。発達障害のなかでも、特に僕は、ASDっていうのと、ADHDっていうの、両方持ってたから。色んな所で、やっぱりしんどかった。
それと、LGBTも、すごくしんどかったよ。同性の子を好きになっちゃうのは、わざとじゃないんだよ。なんで、僕は異性の子を好きになれないんだろうって、かなりの疎外感を覚えてた。そんな自分を、殺してしまいたい、って思うほどに」
僕が一通り話し終えると、れおさんが僕にコメントしてきた。
「でも、尚也くんはこうやって、生き返ることを選んだんだもんね」
「そうです。僕は、それでも生を全うする道を選択しました。
実は、弟が死んだのも、僕と同じあの崖なんです。弟は、僕を失った後、両親のことも交通事故で失って、その衝撃で、自殺したんです。
僕の人生は、何もかもが間違いだった人生でした。後悔したって、死んでもやり直しはききません。
人生に失敗したおじさんの、陳腐な後悔の唄みたくなるけど、それが僕に降りかかる現実なんです。
魂だけになった僕は、ただプカプカ浮かんでいるだけ。
行き場のない心をいつまでも抱えているだけで、泣くことも、叫ぶことも、誰かに触れることさえもできなくなった。四六時中、金縛りの状態です。
もちろん、成仏する道も選べたけど、弟の用意してくれた道を進んで、生きていくほうを選んだんです」
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