第二章

12  夜の街は危険

 リズルドはカゴをくわえて、デュドレーの町をチャッチャと歩いていた。


 今日、カゴに入っているブランチは、パンケーキだ。ベーコン・チーズ・アボカド・ベビーリーフを添えた塩味系と、クリームや数種類のベリーが載ったデザート系を、二人で分けて食べる。

 それぞれ三段重ねなので結構ボリュームがあるが、この店のパンケーキは絶品で、レネーもリズルドもペロリと平らげるのが常だった。


「パンケーキはね、実は自分で作ってみたことがあるんだ。いやほら、ちょっとした気の迷いで、面倒くさくなさそうだと思って」

 レネーは言いながら、気まずそうに視線を逸らす。

「まあ……パンケーキに見えるものを作ることはできた、と言っておく。でも、あの店のパンケーキに出会ってから作らなくなったね。だって美味しいんだもん! ふわふわなのに卵白臭さがなくて、縁はカリッ、中はシュワッ。さすがはプロ。あー、思い出すだけで幸せ」


(早く帰ろう)

 リズルドはレネーの笑顔を思い浮かべながら、足を速める。


 煉瓦敷きの街路は、両脇にポプラの木が植わっている。合間合間にベンチが置かれていた。

 リズルドが歩いていくと、次々と現れるベンチに腰掛けた老人やカップルが、笑顔を見せたり声をかけたりしてくれる。

 リズルドは、デュドレーの町が好きになっていた。


 電話交換局の前にさしかかった。五階建ての大きな建物である。

 ガラス扉が開き、中から若い女性の二人連れが出てきた。紺の上着にスカート、つばのない小さな帽子という、電話交換手の制服姿だ。休憩時間のようで、溌剌とおしゃべりしている。

(交換手って、かかってきた電話を相手に繋ぐわけだから、一日中知らない人としゃべるわけだよな……俺には無理だ……すごっ)

 コミュ障の彼には、彼女たちがキラキラまぶしい。


 すれ違ったとき、会話が聞こえてきた。

「……新しいパン屋さんが……」


(ん?)

 リズルドは、ぴくっ、と反応した。彼は店の開拓に熱心である。

 さりげなくUターンし、少し距離を開けて、彼女たちの後ろを歩いた。


「え、深夜にやってるパン屋さん?」

「ていうか、深夜にしかやってないの。仕事帰りの人が夜食にしたり、翌朝の朝食にしたりできるようにって」

「なるほどねー。夜に焼きたてのパンが食べられるって、面白いわね」

「ケフシー通りの、診療所の隣だって」

「近いわね。夜勤の日に寄ってみる?」


(夜に焼きたて、か。レネー様、食べるかな)

 リズルドは再びさりげなく彼女たちから離れ、家路についた。



「食べる」

 真顔で即答のレネーである。

「今月、断りきれなくてシャンプーの追加注文受けたら間に合わなくて、今日明日は夜も作業なんだ。夜食、あると助かる」

「じゃあ俺、遅くに外出するんでよろしくっす。売り切れてたらすんません」

「うん、そん時はそん時」

 レネーはそう言ってうなずいたものの、「深夜のパン屋さんかー」と興味津々だ。もちろんリズルドも気になる。


 夕食はいつも通りに済ませ、レネーは二階から森へと仕事に出かけていった。リズルドは家事を済ませる。

 そして深夜、彼はひっそりと、テラスハウスを出た。


 ガス灯は大通りにのみ灯り、人通りはほとんどない。リズルドの影が前に後ろにと伸び、チャッチャッという爪の音が大きく響く。普段は耳に入らない、風が街路樹の葉を揺らす音までもが、かすかに聞こえていた。


(ケフシー通りだったな)

 リズルドは、暗い路地に入った。ここを抜けて裏手に出れば、ケフシー通りだ。


 路地の半ばまで歩いた時、ふとリズルドは足を止めた。

 ケフシー通りの方から、足音が聞こえてくる。少し距離があるようだが、リズルドのオオカミの耳はすぐに聞きつけた。

 ただ歩いているのではなく、どこか乱れた足音だ。深夜に似つかわしくない。

(何か、トラブルかな……?)


 再び慎重に歩き出したとたん、急に誰かが向こうから路地に駆け込んできた。

 その人物は、素早くゴミ箱の影に飛び込み、隠れる。

 くそっ、と悪態をつく声。男だ。

 路地は暗く、月明かりもほとんど届かない。相手の姿も、輪郭しかわからなかった。


 しかし、リズルドは鼻先を上げたまま固まった。

(この匂い、知ってる)


 垂れ目にメガネをかけた中年男の記憶が、頭をよぎる。

 暮らしていた施設、出された食事、教えられた知識と技術。

 かつて、ともに時間を過ごした人物の匂いだ。


 そして、リズルドが相手に気づくのと同時に、相手もリズルドに気づいた。

「……誰かいるのか?」

 乱れた呼吸混じりに、男のかすれた声が聞こえる。

「何だ? ……動物? まさか、施設にいた……いや、みんな死んだはず」


 リズルドはその場を動けなかった。向こうからは、こちらの姿がはっきりとは見えていないようだ。


 リズルドが動かないので、男はこちらを気にしつつも、建物の角からケフシー通りを覗いた。

「いないな……よし」

 男は走り出ていった。

 足音が遠ざかる。


 リズルドは、そっと建物の角に近づいた。男が出て行った方を覗こうとする。


「リズ?」

 いきなり、頭の上から声がした。


 ギョッとして頭を引っ込めながら見上げると、ホウキがぷかぷかと浮いている。

 乗っているのは、黒ローブ姿にツインテールの小さな女の子。

 ルフレアだった。肩にネズミのヒューイも乗っている。


「魔力の気配がすると思ったら。こんなところでどうしたの?」

 小声で言う彼女は、カゴに目を留める。

「夜遅いのに、買い物?」

 リズルドは、レネー以外が相手だとしどろもどろになる。

『あっ、ええと、パンを……深夜に、やってる店があるって……』

「へぇー。私は、このあたりに魔法使いの密偵が潜んでるって情報があったから見回りに来てみたのよ。今のところ、リズ以外に魔力の気配は感じられないけど……。まあ一応、買い物するなら気をつけてね」

 ルフレアは真上に上昇すると、夜の闇へと消えていった。


 リズルドは、戸惑って立ち尽くす。

(ルフレア様が探してるのは、魔法使いの密偵。さっきの人は魔法使いじゃないって、俺は知ってる。だから、ルフレア様が探してる人物とは違う。じゃあ、何でこそこそしてたんだ……?)


「あれ、お帰りリズ」

 水を飲みに階下に降りてきたレネーは、ちょうど玄関扉を開けて入ってきたリズルドに声をかけた。

「パン、買えた?」

「……あー」

 人間の姿になり、彼は肩をすくめる。

「売り切れっした」


「そりゃ残念。……なんかあった?」

 レネーは彼をじっと見つめる。

(何となく、雰囲気がいつもと違う)


 リズルドは、へへ、と笑ってため息をつく。

「いや、パン、食いたかったなって」

「人気の店なんだな、仕方ない。お腹すいてる? 果物なら、森で収穫しといたやつがあるよ」

「えーと、今日はもう寝るっす。おやすみなさい」

「あ、うん。おやすみ」

 リズルドは先に、階段を上がっていった。


 レネーはその後ろ姿を、黙って見送った。



 三階、レネーの寝室と反対側の一室で、リズルドはベッドにごろりと横になる。

 瞬きもせずに宙をじっと見つめていると、暗闇からにじみ出るように、見えてくるものがあった。

 過去だ。

 

 身体が、燃えるように熱かった。

 高熱に苦しんだその日を境にして、それより以前のことはほとんど覚えていない。

 意識が戻ると、誰かに看病されていた。

『よく耐えた、お前は合格だ。今後はスムーズに変身できるだろう』

 起き上がれるようになってから鏡を見てみると、大きなオオカミの姿。ぎょっとして悲鳴を上げると、オオカミはすぐに人間の姿に変わった。

 七、八歳くらいの男の子。まだ小さい頃の、自分。


 そこはただ、『施設』と呼ばれていた。他にも数人の子どもがいて、やはり動物に変身することができたため、彼もまたすぐに変身を疑問に思わなくなった。それどころか、子どもの柔軟さゆえか変身を面白がるようになり、オオカミの姿にも慣れた。

 子どもたちは皆、それぞれ変身できる動物の名前で呼ばれていて、彼も『オオカミ』と呼ばれた。


 大人は十数人いて、そのうち魔法使いが四人。あとは普通の人間のようだった。

『お前たちは、国のために戦う選ばれた子たちだ』

 そう言われ、教育された。読み書きに加えて、動物の姿での戦い方も。

 垂れ目の中年男は読み書きを教える担当で、先生、と呼ばれていた。

『施設』から出ることは許されていなかったので、建物と中庭、そして数少ない大人たちが、子どもたちの生きる世界だった。


 ある日たまたま、『オオカミ』は施設の大人たちの話を立ち聞きした。

『休戦協定が結ばれるらしい』

(休戦? 戦争を、休む?)

 自分たちは戦うために訓練していたはずだが、それも休むのだろうか……と、彼は思う。


 しかし大人たちは、休戦することを怒っているようだった。

『今さらやめられるか』

『ぶっつぶしてやる』──


 ──やがて、彼らは『施設』を出て、別の場所に移った。

 連れてこられたのは、荒野の崩れかけた石造りの建物である。神殿のような不思議な場所で、子どもたちは数日の間、探検を楽しんだ。


 そしてある日、『オオカミ』に、初めての任務を与えられた。


『悪い奴を殺せ』


 とてもシンプルな命令だった。ターゲットは悪い奴である。だから、殺せ。


 写真で、ターゲットの顔を覚えた。

 左の上腕に、特殊な塗料で魔法陣を描かれた。彼の位置を確認するためのものだそうで、洗っても落ちない。

 オオカミの姿になり、夜の闇に紛れて任務に向かった。耳に、魔法使いが魔法で指示する声を届けてくる。

 美しい別荘のような建物に忍び込み、庭の茂みに潜んで、写真の男を待ちかまえた。


 男が、外廊下に出てきた。

 パッ、と茂みから飛び出して駆け寄ると、男が目を見張る。

 大きく跳躍して襲いかかり、体当たりして倒すと、男は頭を打って呻いた。


 首に噛みつこうとしたとき、『オオカミ』は気づく。

 外廊下に面したガラス窓の向こう、部屋の中から、誰かが見ていた。


 自分と同じ年頃の少年が、立ち尽くしていたのだ。


(ターゲットの、子ども?)

 ギョッとして、とっさに噛みつくのをやめた。

 魔法使いの怒鳴り声。


『何をしている、早く殺せ!』


 人が、と『オオカミ』が言うと、魔法使いは苛立つ。

『関係ない。警備が来る前にターゲットを殺せ!』


 ──子どもの前で、親を噛み殺すのか?


 彼は混乱した。


 聞こえてくる声が、複数になる。

『オオカミ! 急げ!』

『もういい。もう少し使おうと思っていたが仕方ない。ちょうどオオカミは標的の真上だ』

『オオカミを狙ってぶち込め、もろともだ!』


 彼を目印に、空から魔力の固まりが降ってきた。

 後は一面の、紅蓮の炎。

 再びの、熱さと、痛み──



 ──我に返って、リズルドは瞬きをした。

 扉の外で、階段を上がってくる足音が聞こえる。

 続いて、扉が開き、パタンと閉まる音。向かいの部屋に、レネーが入った音である。

 穏やかな暗闇。

 すぐそこに、レネーもいる。

 現在の、居心地のいい、彼の居場所。


(……さっき見かけた人は、確かに、『施設』にいた先生だった。デュドレーで何を……)


 もし、男がロガルの密偵として追われているなら、その彼とかつて一緒にいたリズルドも、密偵の仲間ということになる。 

(でも、ルフレア様が追っている密偵は魔法使いだから、先生ではない。だから、きっと違う。俺は密偵の仲間なんかじゃない)

 リズルドはギュッと目をつぶり、ベッドの中で身体を丸めた。

(レネー様の敵なんかじゃ、ない)


 自分がかつて殺そうとした相手が、ベルティーユ王国の人間なのか、隣国ロガルの人間なのか。そして自分はどちらの人間なのか。

 それすら、リズルドは教えられずに育ったので、わからない。

 左腕に巻かれた包帯に、無意識に触れる。かつて魔法陣が描かれていた場所だ。


(もう終わったことだ。俺は今、レネー様の使い魔……)

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