あの人はバレンタインが嫌い

仮名

あの人はバレンタインが嫌い(一話)

 彼に恋をしたのは、約半年前。

 高校からの帰りに雨が降り出してしまい、びしょ濡れになってしまった夏の日。家までまだあと十分はかかりそうなのに、雨足は強くなる一方だった。

 そんな時、住宅街の中に偶然見つけた『喫茶オペラ』の看板を見て、とりあえず雨がしのげればいいと扉を開いた。

 木造の扉を少し開けるだけで、コーヒーの苦い匂いが桃子の鼻先をくすぐる。桃子はどちらかと言えば甘党で、コーヒーは飲めないのだが、なぜかふわりと香ったコーヒーの匂いはどこか落ち着くものだった。


「……いらっしゃい。好きな席へどうぞ、あとこれも」


 少ししわが刻まれて、蓄えられた髭は綺麗に整えられている。白いシャツに黒いサロンを腰に巻いているせいで細見な体が際立っている、それは見事に喫茶店員という風貌だった。

 そんな不愛想な店員に手渡されたのは、真っ白なタオルだった。


「あ、いや、悪いです! ハンカチもってるんで、これで、全然……」


「いいから。席が濡れても困るし」


 そう言って強引に手渡されたタオルは、やっぱりコーヒーの匂いが染みついていた。今更返すわけにもいかず、桃子はありがたくタオルを使わせてもらい、言われた通り好きな席に座った。

 別に飲みたいものなどはなかったが、まだ飲めそうかと思ったカフェオレを頼んだ。

 運ばれてきたカフェオレは温かく、そして甘みがあった。一口すすって彼をちらりと見やると、桃子と彼の目線がちょうどぶつかった。


「こんな夏だけど、雨に降られたんだったら冷えたでしょ。はちみつ入れといたんで」


 にこりとも笑わない彼に、桃子はすっかり目を奪われた。はちみつ入りのカフェオレがクーラーでぬるくなるまで、桃子はゆっくりゆっくり飲み干して、雨の上がった夕暮れ時にやっと腰を上げた。


「タオル、洗って返します」


「別にいい」


「いや、洗います! だから、また来てもいいですか?」


「……あぁ。ありがとうございます。なら、それで」


 一瞬。たった一瞬だけ彼が笑った。その笑顔に、桃子は一瞬で恋に落ちてしまった。

 

 通い続けること半年ほど。桃子とオーナーは一言二言を交わす程度の関係に留まり続けていた。そんな間に桃子は少しだけ彼とこのお店のことを知った。

 彼はこの喫茶店のオーナーで、一人で切り盛りしている。

 オペラは密かに人気があり、その秘密はオーナーがこだわってドリップしているコーヒーと、古びた喫茶店に似合わない可愛らしいケーキだった。

 そんなケーキやコーヒーを求めて、桃子のような女子高生もちらほらとやってくることがある。近所に住むであろう主婦の井戸端会議場になっていることもしばしば。

 オーナーはやっぱり愛想のいい方ではないが、それでもこの喫茶店は桃子が行くといつも数組がテーブルに着席して軽食を楽しんでいた。

 コーヒーを得意としない桃子には今まで無縁の場所だったため、こんな近所に喫茶店があることすら知らなかった。


 桃子は、全く内容の入ってこない恋愛小説をカバンに入れて、学校帰りにまっすぐ家には帰らずにオペラへ向かっていた。

 本を読むという体で行かなければ、恋心に気付かれてしまうかもしれない、と夏に買ったものだが、何度読み返しても内容は頭に残ってはいなかった。

 制服に身を包みながら、桃子はやっぱり本ではなく、オーナーを眺める。


(やっぱり格好いいなあ)


 そんな気持ちを押し殺せないまま、時世は既にバレンタイン一色となっていた。

 テレビで流されているのは有名なチョコレート店だったり、簡単レシピの紹介だったり。ネットニュースですら今年のバレンタインのトレンド、などと映し出している。

 そんなものとは無縁かと思いきや、桃子は本をテーブルに置いて、カフェオレを啜りながらスマホのロックを外す。

 そう。彼女は既にある計画を練っていた。このバレンタインでオーナーに告白をしよう、と。

 どんなものにしようか、とレシピのページをスクロールしながら、またカフェオレをすすった。


「ねえねえ、オーナーさん」


「なんですか」


「バレンタイン、作ろうとおもんだけどさ。あなたに」


 ぶっ。

 思わず吹き出してしまったカフェオレをおしぼりで拭きながら、桃子はちらりとカウンター席を見た。

 茶色に染められたロングの髪。横顔しか見えないが、目鼻立ちがくっきりとした女性がオーナーに話しかけていた。


「俺、バレンタイン苦手なんですよね。甘いものも苦手だし、チョコはもっと苦手です」


 その言葉は、桃子を落ち込ませるには絶大な攻撃力を秘めていた。なにせ開かれていたページは可愛らしいデコレーションが施されたチョコレートのレシピだったのだから。

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