福島上空
意識を取り戻したのは、飛行機が水平飛行とやらに入ってからのことだと思う。思うというのはそういう機内放送が入ったからである。私から言わせてもらえれば、これが水平とは断じて認められない。
水平というのは水のように平らかな状態を指す。ガクガクと揺れているこのザマをもってして「水平です」と言い張られたところで、飛行機に恐怖しか感じない私からしてみれば疑問と憎しみ、そしてインスタントな「もうダメ」という覚悟しか沸かない。
「新十歳空港の天気は晴れ、気温は3度」と到着予定地の情報を教えてくれるのはいいが、その前に一言欲しい。「昨晩はぐっすり眠りましたし飛行機も絶好調なので絶対に落ちません。無事着く方に3万円賭けます」と機長に言って欲しい。飾らぬ一言が欲しいのだ。
「おい、外を見ろ。あれはきっと磐梯山だ」
太蔵の声が脳裏で響く。けど外なんか見てられない。もし雲の上に不時着できるのなら見てもいいが、雲は固くない。固くなかったと思う、たぶん。というかまだ福島なのか。
まともな考えができなくなってきたので、一瞬だけ雲の上に立って下界を見下ろす自分を想像してしまった。
最大の難点は、この状況でハイジャックが行われることがほぼ確定している点である。立つこともままならない私が、何かお役に立てるのだろうか。まあ実際に事が起きた時対処するのは太蔵なのであるが。
この飛行機の中のどこで起きるかも問題だ。できれば立たなくてもいい範囲でことを済ませたい。飛行機の中で立ち上がるというのは己の身を高度10000メートルに投げ出すのと私にとっては同じ意味である。
念力で飛行機を浮かすイメージを保ちながら、周囲に注意を張り巡らせる。どこだ、どこで起きる。
隣の男が立ち上がった。トイレだったら通路側に座っている私の前を通ることになる。足を引っ込めたが男は移動しない。だがその代わりにというかなんというか、隠し持っていた包丁を振りかざしながら叫び始めたのである。
「騒ぐなぁ! 静かにしてそしてー! 全員おれに金を渡せぇ! それから女だ! 女を寄越せ! あと金を持ってこい! 女おんなオンナ!」
「え、横!?」
思わず抜けた声と顔を上げてしまう。今ひとつ要領を得ない主張を連呼しながら男が周囲を見渡した。キレイなまでに虚無的にぶっ飛んだ黒目をしておられる。そのぶっ飛んだのと目が合った。
「おいマジか」
思わず言葉がついて出た私を、男は見逃してくれなかった。
「よし、お前でいい。便所に先に行ってろ」
言われたとおり、先に行っても構わない。太蔵がなんとかしてくれるからだ。絶対的な優位性が私の心に平静を取り戻してくれた。
だが立てない。飛行機の中で立つということが怖くてできない。だからそのままの姿勢で言った。
「いやなので、誰か他の人にしてください」
「お前よぉ……」
呆れたような声が脳内で響く太蔵のものと、現実に目の前の男が発したものとでダブった。
(時間稼ぎだって。憑いてるんでしょ、『欲望の覇王が産みし邪気玉』が)
「憑いてる」
(なら今のうちに祓って)
「ついでに殺してやってもいいな」
「ダメに決まってるでしょ。この人もかわいそうな人なんだから」
「ふざけんな女。ここでひん剥かれてえか」
脳内の会話が途中から声に出ていたらしく、男が更に苛立ちを露わにした。太蔵は男を指差し、首を振りながら訳知り顔で言う。
「こういう奴はどのみち社会復帰が難しいんだから、殺してやったほうがいいぞ」
2年前のトッドクーゲルというふざけたドイツ語で呼ばれた悪霊は人を自殺に導くだけだったが、今の『欲望の覇王が産みし邪気玉』は違う。胸に秘めた欲望を暴走させ、たやすく一線を超えさせる。人生を社会的に終わらせてしまうのだ。
なお、名称に関してはドイツ語の悲劇を繰り返さないよう、職員一丸となって「せめて日本語で」という願いが聞き届けられた結果である。センスの是非には目をつぶってほしい。ついでにスーサイド対策室という名前が猛烈にダサいというクレームも上がり、モーテム対策室になった。どうやらラテン語で自殺を意味するらしいが、そこまで横文字にこだわられたら、もう好きにしてくれという感じ。
「だから、ガツガツすんなっての」
太蔵に対しての気持ちがまたも言葉となり、間違って男に届いてしまった。会話として成立してしまったのは悲劇としか言いようがない。
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