山羊のバター(「山羊」「誕生日」「バター」)
今年の誕生日は何が欲しい、と彼女に聞くと、
「山羊のバターがほしい」
という。
「山羊の、バター?」
そう聞き返すと、同棲を始めて半年の彼女は、遠くの方を見ながら言う。
「そう、山羊。ちゃんと手作りのバターを、焼き立てのパンといっしょに食べるの。きっと素敵な時間になると思う」
朝食を早々に切り上げて、俺は彼女を残して食卓を離れる。早く準備して家を出なければ。
スーツに着替え、鏡の前で身だしなみを整えていると、向こうの部屋から彼女の声が届いた。
「ねえ、山羊のバターが食べたいの。今度の休みに、二人で高原の方に行って……」
俺はドア越しに声を上げる。
「最近忙しいんだ。悪いけど、別のものにしてくれないか」
少し間があって、返事がきた。
「わかった。お仕事、がんばってね」
そして彼女の誕生日が来て、俺は前の年と同じ店で買った、パールのイヤリングを贈った。彼女は喜んでくれていたと思う。今となってはあまり自信がない。
その後数カ月とたたずに、俺たちは別れた。
別れてすぐは、なぜこうなったのか分からなかった。どこかで間違えてしまった、それだけは分かった。毎日を生きるのに必死すぎて、大切な何かを見落としていたのだろう。
彼女がいない部屋で、今日も朝食を作る。味は、あまり感じない。
久々に実家に帰った。
高原の町は真夏でも涼しくて、空は高く、青かった。
実家は酪農をやっていて、近寄ると牧草の匂いがした。中に入ると、玄関の脇が小さな売店になっていて、自家製チーズやらバターやらが並んでいる。それを見て、彼女とのやりとりを思い出した。彼女は、山羊のバターがほしい、と言った。俺は何と返したんだったか。
母親が来て、おなかが空いたでしょう、何か食べる? と聞いてくる。俺は何とはなしに、余ったパンと山羊のバターを少しもらった。
家の裏手に出て、木の椅子に腰かける。パンにバターを塗ってほおばると、案外おいしかった。マーガリンなんかよりずいぶん甘い。でも、それだけではない気がする、このおいしさは。
そう考えて、はっとした。彼女の言葉の意味。きっと彼女は、山羊のバターが欲しいわけではなかった。俺と、この高原で風に吹かれながら、いっしょに食べるこの味。この時間こそが、彼女の本当に欲しかったものなんだ。
山羊のバターは、俺の実家でも作っている。彼女がああ言ったのは、考えすぎかもしれないが、俺の実家に挨拶に行きたいとか、そういう思いもあったのかもしれない。そんな時に俺は仕事にかまけて、惜しむべきでない時間を惜しんでいた。高級なプレゼントを買って、思いを伝えた気になっていた俺は、金では決して買えない大切なものを失ったのだ。
俺は夢中でパンとバターを食べ続ける。こんなにおいしいのに、それを伝えるべき人はもう隣にはいなかった。
高い柵の向こうで、山羊が草を食みながらこちらを見ている。俺を嗤うかのように、ひと声低く鳴くと、俺に背を向けて去っていった。
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