殻の中にて(「貝」「灰色」「夜汽車」)
スーパーであさりを1パック買った。故郷の海から来たらしい。
あの寂れた港町。二度と帰ることもない、遠い海辺の町。
アパートに帰る。あさりの砂抜きをしている間、嫌でもあの町のことを思い出した。
私が生まれ育ち、18まで住んでいた町。あの海岸沿いのゆるくカーブを描いた道と、海辺のくせにやけにどんよりした空模様。今でもそれだけは鮮明に覚えている。
学校を休みがちだった私はよく散歩をした。浜辺にはたくさんの貝殻が落ちていて、それらすべてが貝の死骸だった。土産物店ではそんな貝の死骸がビン詰めになって、手描きの値札が貼られていた。港の近くには死んだ魚が点々とあったし、野良猫に食い荒らされたり虫にたかられたりしたのもある。そうしたものたちはみんな磯の香りをしていた。あの町では死がひどく臭った。
高校をやっとの思いで卒業したその夜、私は少ないお金と荷物を持って、都会へ向かう汽車に飛び乗った。がたんごとんと走る音がうるさい汽車の中、真っ暗な窓の外を眺めながら、それでも、町を出られた解放感と、都会暮らしへのかすかな期待を胸に抱いていた。
都会の街は、灰色だった。高いビルに阻まれ、青空もよく見えない。
それでも、あの町の灰色の空よりは、だいぶましなように思えた。都会では誰もが閉じた貝だった。めったに心を開かず、煩わしい外の世界から身を守っていた。それが私には心地よかった。私もまた閉じたままでいられた。
都会では死の匂いがしない。スーパーにはパック詰めの肉や魚が売られている。生ごみは週に一度回収車が来て、虫がわくことも少ない。とても清潔で、きれいだった。そのことが私を落ち着かせてくれた。
そうした暮らしも板について、私はあの町のことなどとっくに忘れていた。忘れていたと思っていた。
そろそろ砂抜きも終わっただろう。
調理台の前に立つと、目の前のボウルの中にある、口をぱくぱくと開いた貝たち。
まだ、生きている。
そのことに私は少しぎょっとして、そして目を背けるように、あさりをフライパンに放り込む。当たり前じゃないか、貝が生きていることくらい。長い都会暮らしのせいで、記憶から抜けていたようだった。
そのまま調理を進め、食卓にあさりのパスタが出来上がった。
私は窓の外を見ながら、パスタを黙々と口に運ぶ。今日も空は曇っていた。
あさりは死んだ。生きながら値札を貼られ、食われるために死んだ。
私は生きていた。無味無臭の生を生きていた。
多分、そのうちに死ぬのだろう。自分でも気づかないうちに。
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