第14話
柊専務が智子の腕を取り、商談ルームに入る。ここは小さめの個室で、ブラインドで業務部とは遮断されるし、遮音性も高い。
「大丈夫か?」
「すみません、お騒がせしました」
智子は謝罪しながら涙をぬぐった。今になって涙がこぼれる。
「申し訳ありません。課長に何かお話があったようなのに…」
「いや、大丈夫だ。それよりもう一度聞く。三谷との交際は事実だったと?半年前の手術というのは、本当のことかね?」
「はい」
「わかった。まぁ、社内恋愛がご法度なわけでもないし、持ち込んだのは向こうの方だからしばらくゴタゴタするだろうがね」
「本当に申し訳ありません。プライベートなことを持ち込んでとんだ醜態を…」
「それはあの男の方だよ。君との交際があったとはな…。仲人引き受けたし、向こうさんとも面識あるし、やってくれたよなぁ、あのバカ。今から断われないかなぁ。向こうに説明しなきゃいけないしなぁ」
柊は困ったとぼやいた。ぼやいたが、ほぼ気持ちは固まっていた。このまま、三谷と重役の娘と結婚させるつもりはない。先方とはそれなりの付き合いがあるのだ。黙っておくわけにはいかない。
高杉がコーヒーを両手に持って会議室に入ってきた。ドアを開けたのは鳥飼で、智子と一瞬、目が合った。
鳥飼は大丈夫、というようにOKサインを作ってドアを閉め、業務に戻っていった。
「何か困ったことがあったらいつでも来なさい。平戸君はあれでなかなかの人物だ。こういうことで悪いようにはしない。それよりも、三谷君の方が問題だな。とりあえず、事実関係を調べるのが先か」
「そうですね。で、専務、何か用事があったんでしょう?」
「ああ、君の知恵を借りたくてな。まぁそれは後程。月島君、会社に君の居場所はある。心配しなくて良いから、とにかく、困ったことがあったら相談に来なさい」
専務はそう言って商談室を出て行った。
智子は言葉もなく、泣きながらその後姿に頭を下げた。
「少し落ち着いたら今日はもう良い。帰れ」
「チーフ…」
「本当は一緒にいてやりたいんだが、今日は接待があるし…」
智子は首を振った。
「なぁ、一緒に暮らさないか?」
いきなりの申し出に、智子の動きが固まった。
「口説く時間が欲しい。一人で泣かせたくない」
「予約一番で受け付けておきます。いまちょっと、余裕がないです」
「今日、どんなに遅くなってもお前のマンションに行く。ちゃんと話したいし、そばにいたい」
その言葉に、ぶわりと涙があふれた。
「私…」
「リセットする時間が必要だ。とにかく、いろよ?」
高杉はそう念を押した。
会社を出た後、智子は真っ直ぐマンションに戻って来た。
いつもとは違って、買い物もしたし、掃除も洗濯もした。日常の営みをすることで、三谷から精神的に距離を取りたかった。
会社はどうでも良い、と思っていた。
今まで、会社に対しての不満はなかった。正当な評価を下す上司に恵まれ、理不尽に扱う同僚もいなかったおかげで、厳しいながらも楽しい社会人生活だったことは確かだ。けれど、今すぐ三谷のいるあの場に戻るのはためらわれる。続けるにも退社するにも、もう少しだけ勇気が必要だった。
会社が、三谷と智子のことをどう評価するかは未知数だった。三谷の言い分が全面的に通れば智子には圧倒的に不利になる。逆に、智子の言い分が通れば、暴力をふるった方の利になりかねない。会社としては穏便に済ませたいと思うのが一般的で、下手をすれば二人とも解雇になるかもしれない。
突然の退社になったとしても、智子は生きてゆくだけの自信はあった。貯金もそれなりにあるし、就職活動をすればよいだけの話だ。そう思うとすこしだけ元気が出てきた。
気分転換に、いっそ、ここを離れてどこかに行きたいと思った。けれど、思いつくのは亡き祖母が暮らし、今は伯父夫妻がいる京都しかなかった。
智子の大学時代、両親は交通事故に遭った。母は即死、父は生死を彷徨った末、10日目に生還した。だが、母の死を知った父は、動けるようになると治療途中だというのに「すまない」というメモ一つを残して消えた。智子も祖母も伯父夫婦も方々を探し、あれこれ手を貸してくれた両親の友人知人のおかげで事故からほぼ2年後、智子の就職が決まった時、ようやく父の居所が知れた。
父の大学の先輩だという香川が見つけ出してくれた時、父は「自分だけが生き残った」贖罪のために仏門に入っていた。香川によると、居所を知られたくないと言い、香川にすら口止めをした。だから智子も具体的にどこにいるのかは知らない。京都にいるとだけしかわかっていないが、それで良い、と思っている。
就職して程なくして祖母が亡くなった時、連絡を受けて智子は東京から京都に向かった。
父は、智子が到着する前に枕経をあげて立ち去ったというから、伯父は何らかのコンタクト手段を持っているのだろうと推察している。
もう、父とは会えないかもしれない、とは思っていない。毎年、京都にある母の墓には父が参拝した痕跡が残っている。母の命日や誕生日ではなく、結婚記念日と智子の誕生日の年に二回、墓参りしているのだ。
それだけに、父は母を深く深く愛しているのだと思う。
それだけに、智子を愛してくれているのだと思う。
父は父なりに智子を愛していて、だからこそ、母の命が失われたことに、自分だけが生き残ったことに深く罪の意識を持ってしまうのだろうと思う。
大学在学中は、祖母と伯父夫婦の助けを借りて、奨学金や生命保険や両親名義の不動産でやりくりして乗り切った。両親と三人で暮らしていたマンションを人に貸し、そこから収入を得ることでなんとか自分の生活を立てることができたのである。
当然だったが、卒業後は伯父の会社で働くことを勧められた。
母の実家は京都でも指折りの染物職人を抱える老舗織物会社で、業績も順調で、智子一人が入社したところでびくともしない状態だった。が、そもそもの話、伯父夫婦のことは大好きなのだが、智子は母と一緒で織物には興味がなかったのだ。だから智子は東京で就職した。
一方、京都に住む話に乗ったのは、智子の高校時代からの大親友、真美である。彼女は染め物に魅入られていたこともあって、美術大学時代に結婚した相手と一緒に京都に移り住んだ。
祖母は、笑って真美とその夫を自分の家に下宿させた。真美の夫は美術品の修復士の卵で、京都にある工房で働いていたのだ。
祖母が亡くなった後も、祖母の家を維持するためにもずっと住み続けてくれている。
智子にとって、祖父母の思い出がある家で、京都に帰ると必ずその家に戻る。リフォームを重ねた家ではあるが、真美は一階にある祖母の部屋とかつての智子の母親の部屋に関しては、祖母の意向を受けてほとんど当時のままだった。
京都の家は大好きだ。
早朝に聞こえる鐘の音は特に。
綺麗で澄んでいて、凛とした気高さがあって、毎朝早起きして鐘の音を待ったほどだ。
鐘の音は、智子の心を穏やかにしてくれる。
昼下がり、近所のお寺の鐘が鳴った。
昨今の事情で、お寺の鐘は午後1時だけ、一日一回しか鳴らない。除夜の鐘も、昼間に鳴らすくらいだ。昨今の住宅事情からすると、随分理解のある地域だと智子は思っている。この鐘の音かあったからこのマンションに決めたと言っても過言ではない。それくらいこの寺の鐘の音は好きだった。
それが引き金だった。
智子は簡単に荷物をまとめると、足早に駅に向かっていた。
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