第10話
がばりと、起きた気配がしたのは夜中すぎだった。
「あ…うそ」
高杉は書斎からリビングに向けて顔を出す。
「泊っていけ。まだ夜中だ」
「チーフ?」
智子が振り向くと、スウェットの上下に身を包んだ高杉がそこにいた。
かすかに聞こえるBGMは静かな波の音になっていた。
「気にするなよ」
「でも」
「眠れるなら、眠った方が良い。それとも口説いてほしいか?」
高杉がやってきて、ソファを倒してソファーベッドにしてしまう。
「わたし…」
「俺はいつでも口説き倒したい。声をかけようと思った時にはもう他の男に恋をしていて、まぁ、黙ってみていたんだがな。こんなふうに傷ついている月島を見たら。まぁ、弱みに付け込むことになるからためらいはあるが、チャンスだと言ってしまえばチャンスだからな。俺の中では口説き倒しても後悔しないだけの覚悟はあるよ。頑張っている月島を、時々うらやましいと思う時もあるし、一緒に頑張りたいとも思う。でも今は、一緒に寄り添いたいと思っている」
「そんなに、魅力がありますか?」
「あるよ。ストレートの髪を隠していることも、メガネを外した方が可愛い顔も、そういった外見のことから中身のことまで。仕事をしながら全員に目を配って営業メンバーが滞りなく仕事ができるように差配することや、仕事終わりにちょっとだけ給湯室で洗い物をして帰ることとか」
高杉は座っている智子の前に、膝まづくように座った。それから智子の手を取った。
「そのあとでハンドクリームを塗っている姿なんて、とても女らしい。俺にとっては、魅力ある女性だよ」
「気が付かなかったな」
「今度、きちんと口説きたい。それまで予約して良いか?」
「チーフ?」
「ん?」
高杉は智子の手のひらにキスを落とした。
「俺は向こうで寝るから、自由にして良い。バスルームも、冷蔵庫も自由に使って良い。帰るなんて言うなよ。こんな夜中に」
「でも」
「あんな男は忘れてしまえ。もっと良い男は沢山いる」
高杉はそういうと、智子の頭をひと撫でして書斎に入っていった。
智子は上掛け毛布を体に巻き付け、そっと横になる。
高杉の告白が、沁みてゆくように智子をゆさぶった。
智子は三谷と結婚したかった。
それは事実だった。けれど、三谷は他の女性と婚約した。
その事実は、智子自身をがりがりと削ったことに他ならない。
夜明け前、書斎で眠る高杉を置いて、逃げるように自分のマンションに戻ってきた智子はいつもよりも少しだけ眠れていたことに気が付いた。気のせいか肌の調子が良い。
そんなささやかな幸せを感じつつ、朝食を食べ、いつものように支度をしてマンションを出た。
いつもの調子には戻れそうにないが、それでも仕事は別だと智子は自分を奮い立たせて出勤した。本当は休めば良かったのだが、休めば、プロジェクトの仕事に穴が開く。ここのところいろいろあったので今日は休めない。代わりに、今日出勤すれば土日はゆっくり休めるのだと自分を奮い立たせていた。
出勤してきた智子が、ミーティングルームよりも奥にある営業部の自分の机に向かおうとすると、その雰囲気が騒然としていることに気が付く。
智子よりも先に出勤してきたらしい高杉の机を取り囲むように、総務部の久世課長と三谷、人事部の平戸部長と吉永課長、柊専務がそこにいた。
一方で小宮や鳥飼、町田が憮然とした表情で仕事をしていた。
「おはようございます?」
朝いちばんから何があったのかと智子の声がいぶかしむ調子になってしまう。そしてそこにいる全員の注目を浴びることになった。
「月島さん、別室に来て欲しいんですが…」
「行く必要はないぞ、月島」
吉永課長の言葉を、久世課長が遮った。
人事部課長と総務部課長の喧嘩なのか?と智子は首を傾げた。
「人事の部長と課長を巻き込んで三谷がお前に殴りこみをかけたんだ。で、俺は途中で止めに入ったんだけど…。高杉はこの通り怒り出す始末だし、高杉に用事のあった専務は話ができなくて足止め食らっている状態」
久世課長がそう説明してくれた。
けれど、その口調は久世課長が絶好調に怒っているときのもので、びりびりとした緊張感が漂っている。
高杉は無言を貫いている。明らかに怒りを抑えている表情だということは分かっている。ただし、その怒りが向けられているのは三谷らしく、手元には営業部の業務報告書がまとめられたバインダーが握られている。
「朝いちばんは、プロジェクトやら各方面の業務で凄く忙しいときなんですけど。後にしていただけませんか?三谷さん」
智子はビジネスライクにそう言った。そもそも、総務部総務課、備品や各種諸手続き管轄の三谷は智子を呼び出す材料はない。営業部の備品や各種手続き管理は鳥飼の管轄だからだ。
人事部の部長と課長、総務課長がここにいる以上、話の内容はわかるが、営業の仕事の話で来ている柊専務の足止めは良くない。しかも、そもそもオープンスペースで話すべき話ではないのだが。
「もう僕たちの間での話し合いは無理だと思ったんだ」
三谷はいきなり、そう切り出した。
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