第7話
事業部フロアを飛び出した智子は、そのまま廊下の奥の、自動販売機がある休憩ブースに向かう。奥まったところにあるために、落ち着いた休憩によく使われる社員の休憩所だが、職務が終わっている時間なのでもう誰もいない。
「あー、もう情けない」
智子はそう呟きながら長椅子に座り込んだ。
「感情的になってどうする、落ち着け」
独り言を言いながら涙を拭いた。
智子ほどの年齢になると、会社内ではベテランの域になり、ときにはあれこれと陰口を叩かれることもある。
仕事のことに始まり、時にはプライベートまでも。
いちいち相手にしていては精神状態が持たないので智子自身が気にするということはないのだが、今日はスイッチが入ってしまって感情的になってしまった。
過去の学生時代、「でか女」と言われたり、彼女にするには身長があるために可愛らしくないと揶揄されたこともある。中学高校と女子高だったので、逆に「姉貴」とか「姉御」と呼ばれていたせいもあり、そして女子高では何でも自分たちでやりのけることが身についてしまっているので、力仕事も大工仕事も平気でやりこなせた。だから大学時代のイベントでは自分でささっと何でもやってしまうので、男子学生からは「可愛げのない女」と映ったらしい。
普通に付き合うには良い相手だが、「彼女」にするには不向きで、口悪い男子学生には「次の彼女を見つけるまでのツナギなら良いけど」と言われたことすらあった。
だから、智子は学生時代も、社会人になってからも豊富な男性経験とは言い難い方だ。むしろ少ないかもしれない。社内恋愛は先日別れた男が初めてで、彼は仕事には持ち込まない主義だというので付き合い始めた。智子も同じように仕事と私生活は別だと考えるからだ。だからわざわざ公表はしなかったし、相手の名前を誰にも言わないことにしたのだ。
「あー、もー、ダメじゃん。切り替えなきゃダメじゃん」
自分で自分を叱咤激励して顔を上げると、ガコン、と自動販売機の音がした。
「大丈夫か?」
「チーフ」
「無理はしなくて良い。…本当はやけ酒にでも付き合うべきなんだろうが、生憎、今日は仕事が詰まっているからな。甘いもの飲んでゆっくり休め」
差し出されたのはホットコーヒー缶である。
「すみません」
「まぁ、感情的に揺らぐのは仕方ないさ。町田は付き合いが長いからてっきり結婚するんだと思っていたと言っていたから」
「そうですね、3年、ですか」
「ん?2年、って言っていた?ああそうか、町田が移ってきて2年だからか」
「それに最初の一年はお互いに忙しくて、ロクに時間取れなかったんで付き合っているというのはちょっとおかしい関係だったんですけど。でもその助走期間があったんで交際に踏み切れた部分があるんですけどね、だめでした」
智子は自嘲気味にそう言った。
「すみません、心配かけて。帰ります。マジで急いで帰らないとスーパーが閉まっちゃう。冷蔵庫の中身が心もとないので」
「何だ、こっちのスーパーに出てこないのか?」
「夜遅くまでやっているのはありがたいんですが、ちょっと値段的に厳しいので。それに火曜日は肉の特売日なんですよ」
高杉の降りる駅のスーパーは営業時間が少し長いが、値段的には近隣のスーパーよりは少し高いのだ。
「今からだとギリギリか?気を付けてな」
「本当に、すみません」
「大丈夫だよ、気を付けて」
「失礼します」
追いかけてきてくれた高杉に感謝しつつ、自分を立て直した智子は家路についた。
その翌日、イタリアンワインプロジェクトが大きく動いた。ローラー作戦が功を奏して、既存の取引先からの申し出や、過去イタリアンワインを取り扱ったことがある取引先からも声がかかり、営業は嬉しい悲鳴を上げた。
高杉は一日仕事に忙殺され、午後からは取引会社3社の訪問を終えると直帰することになった。
もちろん、彼らをサポートする事務チームも忙しさに忙殺される一日はあったが、お互いにコミュニケーションをとる程度の雑談は忘れない。一言二言の雑談だが、忙しい一日の息抜きであり、わずかな潤滑剤でもあったのだ。
高杉と智子は「スーパーに行けたの?」というやり取りだったが、実はスーパーには間に合わなかったという話だ。
今日は寄れると良いね、と励ましつつ、営業メンバーと打合せして残業して高杉は会社を出た。明日は直行直帰になることを見越して、仕事の段取りをつけたのだ。
翌木曜日、田辺と朝一番に連絡を取り合った時、月島が結局スーパーに行けなかったのだと知った。電車が遅延して足止めされたので何人かの営業の面々も帰宅が遅くなったらしい、そういう雑談をしたのだ。
そのあと、昼前に人事の久世から高杉の個人携帯に連絡があった。
以前、智子の交際相手は誰なのか、調べてくれと話しておいたのだが、誰だか分かったらしい。
SNSで知らせてきた久世は、電話が欲しいと言い、高杉は大丈夫な時間帯を見計らって、昼間のうちに連絡した。
「すまなかったな」
「おう、厄介だったぞ。で、今良いか?」
「5分くらいは」
「別件でも耳に入れておいた方が良いネタがあってな」
久世はどこか街中にいるらしい。
「一つは、月島ちゃんに秘書室移動の話が出てるんだ」
「は?本人の希望か?」
「いや、重役の希望。まだ保留事項だが、そのうち本人に打診が出て、本人の希望があれば正式移動の話が出ると思う。それから、交際相手は総務の三谷だ」
「三谷?」
言われて思い出す。先週だか先々週あたりに婚約したという情報が出た男だ。取引先の重役に気に入られてその娘と半年前に見合いをして極秘交際を始め、婚約したとの情報が流れた男だった。その会社は親族経営の会社だし、重役もその親族の一人だったから将来的には向こうの会社に入るんじゃないかとさえ言われていた。本人は否定しているが、一人娘だというし、こちらの会社とも仲が良く、いずれ時を見て円満に三谷もそちらに行くだろうと噂されていた。
「いや、ちょっと」
「裏付けを取るのが大変だったんだ。とにかく、交際相手は三谷で間違いない。ただ、どれくらいの期間付き合っていたとかはわからないな。俺が押さえた情報では、交際の初めは2年か3年前だかが始まりで、月島の口から別れたとはきいていない、て言っていた。三谷は、付き合った女性がいたが半年前に別れたのでお見合いを受けた、と言っている。明らかにおかしい。お前の話が本当だとすると、つまり、月島ちゃんのリアクションからするとフタマタ疑惑もあるってことだ」
どう考えたって、おかしい。高杉が考えたのはそれだった。
智子は失恋したという話をしなかった。週末は嬉しそうに明日はデートだと言ったことが何度かあった。それはつい先月の話で記憶に新しい。
「わかった、ありがとう」
「フタマタかも、と教えてくれた人物が一人だけだったんで、フタマタかどうかは言い切れないが、そいつ、気になることを言っていた」
「何かあるのか?」
「すごく下世話な話なんだが、男同士の酒の席で、フタマタをばれないようにするにはどうしたら良いかっていう馬鹿話をしたことがあるんだと。そうしたら、三谷の答えは本命と彼女の住まいが同じ路線なら便利だし、気づかれにくいんじゃないかって。…気になって俺が調べたら、お前の最寄と重役の自宅の最寄が一緒だったってことだ。月島ちゃん、お前の最寄駅の隣の駅だろう?俺はびっくりしたね」
「え?」
「気にするな、重役の自宅はお前のマンションとは反対側、区も違うからな」
「まさか」
「だから、そいつはフタマタを疑ったそうだ。飲み会があったのは一か月前くらいの事だから、まぁ、疑うわな、普通は」
「そうなのか、ん、ありがとう」
「まぁ決まったわけじゃないんだが、もう少し調べるか?」
「いや、月島自身が落ち着いてきているし、別に問題はないだろう、だからもう良いよ、ありがとう」
「おう。今日は外回りか?」
「ああ、今日は直帰だ。そのあと学生時代の友人と会うことになっている。子供が産まれたんで、そのお祝いを渡しに行くんだ」
「意外だな」
「悪かったな。ありがとう、久世、助かったよ。じゃぁな」
「おう、気をつけてな」
電話を切って、逡巡した。重役秘書の話はこちらの戦力を見直さなければならず、手痛い話だ。ただ、重役秘書は簡単になれる部署ではないのである意味誇らしい。送り出すべきなのかもしれない。
普通の秘書業務で済む重役秘書なら数人、持ち回りで重役や役員を担当するチームができている。彼らの仕事は秘書としての接待やスケジュールの調整などを行うが、それだけだ。営業や営業事務出身者が秘書業務にあたることがあるのは、事業拡大や子会社やグループ会社などと連携が必要な事業計画があるときで、そんなチャンスはあまりない。過去、その秘書役に抜擢されたものが子会社やグループ会社に移ることもあり、ある意味人事の活性化には役に立っているし、そして優秀でなければそこには抜擢されないのだ。
月島なら、抜擢されて当然だが。
高杉にはそう納得できるだけのものが月島にあると思っている。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます