第5話


 週明けの月曜日、智子はいつものように出勤してきた。

「おはようございます」

「おはようございます」

 出勤している部内のメンバーと挨拶を交わしながら智子は席に着いた。

「おはよう、金曜日はありがとう」

 声をかけてきたのは町田だった。

「おはようございます、美奈ちゃん大丈夫でしたか?」

「大丈夫。熱が下がらなくてヒヤヒヤしたんだけど、昨日の夜にやっと下がって。今日はさすがに登校させなかったんだけど、旦那がお休みだから任せてきちゃった」

 町田がありがとう、ともう一度感謝を口にした。

「今日、町田さんは時短で帰れるくらいで仕事を回せるか?」

 高杉が金曜日の退勤後からの報告メールに目を通しながら本人に聞いた。

「大丈夫だと思います」

「イレギュラーの仕事は引き受けますよ。こっちに振ってください。私と月島さんで回せると思います」

 もう一人の営業事務の男性が声を上げた。彼は町田の担当分をバックアップする役目を負っている一人だ。

「その通りです」

 智子はパソコンを立ち上げながら応える。普段から情報の共有や仕事の共有をしているので誰が急にいなくなっても支障がないように、バックアップできるフォロー体制を作っている。

「高杉チーフ、金曜日に田辺さんから話があったと思うんですが」

「ああ、聞いた。新規導入狙って今の取引先と、昔の取引先にローラーかけたいって話だろ? 営業のメンバーで担当割り振るとか言っていたが」

「田辺さんからリストを預かっているので、チーフのチェックをお願いします」

 智子はあらかじめプリントアウトしたリストファイルを、鍵付きロッカーの中から取り出して渡した。ローラー作戦で売り上げが立てばこのプロジェクトはほぼほぼ、成功に値する。

 チームの士気は高く、営業部内でもいつもの月曜日が始まっていた。


 メガネを壊したはずなのに、印象が変わらないのは同じメガネを持っているからか、と高杉が気が付いたのは昼すぎのことだった。

「本当に、参っちゃうなぁ。月島さんて、本当に隙が無い。隙がありそうでないというか」

「仕事一直線なのかなって思うけど、それほどガツガツしていないし。不思議よね。さらっとこっちのミスをカバーしてくれるし、頭が上がりませんわ」

「本当に。あの見積もりミスをあのまま見落としていたらえらいことになってたよ」

「本当に。申し訳ない。チーフに見つかる前で…」

「俺に見つかる前で良かったって?」

「下書きの段階だったので」

 慌ててフォローしたのは事務担当の男性で尾田、営業担当は配属されて間もない豊橋だった。

 彼の場合は初めての見積もりなので通常、尾田が指導しながら書き方を教え、尾田とは別の事務担当がチェックをしてから豊橋の指導社員に提出し、初めて高杉のチェックを受けることになる。

「ケース数と価格の入力を間違えるなんて初歩的ミスですからね、私のミスです。申し訳ない」

 豊橋はそう言って頭を下げた。彼は大学卒業後に入社した人物だが、総務部人事課と総務課、経理課に合計7年、開発部に2年在籍した後、今度は2年間の期間限定で営業に出向配属されたエリートである。

 数々の部署を回って開発部に配属されるコースは、通常はバイヤーと呼ばれる職に就くことが多い。豊橋はそのエリートコースに乗っている一人でもある。

 最も、高杉のように入社以来営業部に所属して営業部の中で転々とする生え抜き組もやはりトップエリートだが。

「最初は、みんなどこかしらでミスをしますよ。そこから段々慣れていくのでミスは減るものです」

 さらりと智子はそう言い、豊橋に封筒を渡した。

「総務からです。明日までに確認、署名捺印して総務にバックして下さいって、伝言つきでした」

「ありがとうございます」

「私は16時に経理に行くので、それまでに預けていただけたら届けますよ。豊橋さん、今日は外回りでしょう?」

「あ、助かります」

 ビル内の3階に営業部はあるが、経理や総務があるのは4階なのだ。役員室や社長室は3階と4階に分散して配置されていて、会社自体はほぼほぼこの2フロアで業務完結している。

 グループ会社はこの上階、5階にあるが、ほとんどは連絡事務所のようなものだ。1階と2階はテナント店舗や事務所が入っている。ビジネス街とはちょっと離れてはいるが、商業地域に立つ立地は昔から賑やかな街だった。


 高杉は午後から外回りに出かけ、帰って来た時は終業後の18時を回った後だった。

 営業部の変な雰囲気に気が付いたのはすぐだった。商談ブースに智子と二人の女性社員がいる。彼らを遠巻きにするように別の社員がいて、豊橋がその輪の中にいた。

 高杉のプロジェクトにいるのは豊橋と智子の二人だが、他のメンバーは別プロジェクトの面々で全員営業部だった。

「だって私は月島さんみたいに仕事はできないし、さばさばしてないから無理です。そこまでできません!」

 そう言っているのは他のプロジェクトにいる新入社員の小宮杏だった。彼女は真面目で、責任感が強い。おっとりしている部分はあるが、仕事はきっちりこなす人だというのがリーダーの評価だ。ただ昨日と今日は有給休暇を取っているはずだった。

「すみません。本当にすみません」

「とにかく、私もフォローに入るから、一度頭を冷やして。月島さん、小川さんと豊橋さんに…」

「良いよ、言っておく。杏ちゃんは任せた」

「はい」

 智子はそう言って小宮杏と一緒にもう一人の女性社員を退社させた。

「あ、お帰りなさいチーフ」

「何があった?小宮は今日は有給だっただろう?当事者は誰だ?」

 高杉が智子に説明を求め、智子は会議室に行くように高杉を案内した。

 続くように入ったのは、智子に背を押された豊橋である。

 個室になっているその会議室に、三人が入った。

「すみません、小川君と小宮さんの言い争いを止めようとして私が間に入ったんですが、小川君の言い分に納得してしまったので小宮さんに強く言い過ぎました」

 豊橋がそう言った。

「原因は?小川はどうした?」

「田辺さんが休憩室に連れて行きました。小川も小宮もちょっと感情的になりすぎていたので、引き離しました」

 智子は端的にそう言った。そもそも、智子は後輩にあたる小宮はともかく、小川を呼び捨てにするようなことはまずない。それだけ、見るに見かねることがあった、ということか、と高杉はとらえた。

「豊橋さん、有給は労働者の権利ですから休暇取得の理由については誰も口出しはできません。まずそこは備えるべき知識です」

 智子が豊橋に意見した。

「だから、豊橋さんは純粋に二人の言い争いを止めるべきであって、小川の肩を持つような言い方は良くありません。あれではますます小川が増長してしまいます。特に、小宮は今のナーバスな状態ですし、小川の無理強いで小宮は休暇中なのに出社してきています。そこは小川を注意するべきでした」

「いや、営業に支障が出るような状態ならば休暇中でも引き継げるようにするのが配慮だろう?しかも、ある程度は予想できたことだったわけだし」

「来週末に必要な資料で、途中経過の報告は小川にデータ送信しています。事務方で共有しているので、有給中に要求する内容とは思えません。万一緊急で対応となると出勤している事務方で、今の場合は鳥飼さんか町田さんになりますけど、そちらで対応すると小川に伝えてあります。現に鳥飼さんは対応しています。町田さんも私もフォローに入りましたが、直接彼女と連絡を取って呼び出したのは小川の方ですよ。つまり、この意味が分かりますか?」

「ストップ。最初からこの件に関わっているのは、小川と小宮と?」

「鳥飼さんは小宮のフォローで昨日と今日、業務を引き継いでいて、当事者と言えます。私はサブのフォローとして入っているので、鳥飼さんと小宮のバックアップをしています。今日の業務も引き継いでいるので」

「じゃぁ、やり取りを知っていたのか」

「こちらでフォローするという話を断わって、小川は休暇中の小宮と直接連絡を取っています。不審に思った小宮から、何度も私のところに連絡が入ってきていました。小川がやっている行為は、小宮に対するモラハラです」

 その言葉に、豊橋がはっとした。

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