井の中の蛙

メンタル弱男

井の中の蛙

 

          ○


 最近、伊藤はずっと引きこもっている。


これまで、いかにも“井の中の蛙”という人を何人も見てきたが、(私自身もそうかもしれないが)伊藤は井の中の蛙でありながら大海を知っている。知った上で、閉じこもっている。


 部屋のカーテンは閉めたまま、電気もつけずに真っ暗で、昼なのか夜なのかも分からない程だ。彼はその部屋から、あらゆる世界を想像する。そして、あらゆる世界に立っている自分自身を思い描く。それはつまり、彼の頭の中でしか存在しえない世界となり、その中で彼はいつもスーパースターとなる。あらゆる栄光と名声を手にして、全てが思い通りに進み、多少の困難は更なる高みへ飛躍するための、物語のアクセントとしてのみ登場する。


 伊藤はこのように頭の中で様々な人生を作る。それこそが彼の人生の醍醐味でもあった。

 

 でもそれは結局、何も形には残らない、空虚なものでしかなかった。彼自身、それはしっかりと分かっている。ただやはり現実から目を背けている。


 伊藤はゆっくりと部屋の真ん中で寝転んだ。少し疲れたのかもしれない、テレビのリモコンを足で引き寄せてスイッチを入れた。報道番組ではコメンテーターが冗談を交えて明るく語っている。カメラのカットが変わるたびに部屋の色も気怠そうに変化した。彼は色の変わっていく天井と壁をじっと見つめていたが、やがて分厚いカーテンに目をやった。

 まるで壁のようなカーテン。外の光を微塵も感じさせない。重く閉ざされた彼の心と同じである。


          ○


『おぉ、今日の夕陽は一段と綺麗だ。』

 細い川が流れる小さな谷を、跨ぐように架けられた大きな橋の上で、立派なカメラを首から下げた八十歳くらいの男が、赤く染まった顔で立ち止まっていた。

『せっかくだから写真を撮って帰ろう。さぁお前もこっち向いて、一緒に撮るから。』と、茶色の毛並みが可愛らしい柴犬の顔が、台無しになるような逆光の写真を撮っていた。


 夕焼けに染まった街は美術館に並ぶ美しい絵画を見る時に似て、自分という存在を忘れてしまう程のめり込んでしまう。そして街の音、自然の音が混ざり合って、即興の音楽が聴こえる。柴犬との散歩が日課のこの男は、何気ない日常に素晴らしさを見つけるのが得意だった。


『今日もいい日だな!』

 柴犬はじっと前を見つめたまま、男の声に対して知らん顔をして尻尾を振っている。だが、ゆっくりと歩き出した男の横にぴったりとついて行った。僅かな時間で色のバランスを変えてしまうほど脆い夕暮れの中、その二つのシルエットは強く、そして深い存在感を持っていた。


 歩きながら、残りの人生をどう生きていくか、男は常に考えて毎日を過ごす。



          ○


『眠たい、、、。』というのが伊藤の口癖で、何時間と寝ていたにも関わらず、起きた途端に呟いてしまう。だらしがないというよりは、何か一つ大事なものが欠けているような気さえしてしまう。それは彼自身にも分からず、また分かろうとさえしないのだから我々が知る由もない。

 そのような伊藤でも、夢中になる事はあった。あくまで過去形ではあるが、時間も忘れるくらいに熱中出来る事が一つだけ、彼にもあった。


 それは音楽だ。彼は二年前まで音楽を作る事に没頭していた。きっかけは単純で、家にあったCDをひたすら聴いて、さらにレンタルショップでたくさんのアーティストを知っていくうちに、自分でも何かを表現したいと思った、というものだ。

 彼はギターを弾いて曲作りを始め、次第に小難しそうな機材を繋げて、細かいアレンジまでするようになった。何時間やっていても飽きないし、考えれば考えるほど試したい事が増えていく。そして自分自身で曲作りをする為に、より一層たくさんの音楽を聴いて、研究した。

 ありきたりな言い方ではあるが、三度の飯よりも音楽が好きだった。

 

 その音楽が好きだという純粋な気持ちから、少しベクトルが違ってきたのは、ライブに参加したりネットで配信をするようになってからかもしれない。一般的には自作曲が第三者の目に触れる事で、自分だけでは気づく事ができなかった点を発見できたり、様々な意見を次作に取り入れる事ができるので、以前にも増して創作意欲に満ち溢れることが多いかと思う。もちろん捉え方は人それぞれではあると思うが、より良い作品を残そうと励むきっかけになり得る。(ただ、想像もつかないほどの才能の持ち主であれば、例外はあるかもしれない)

 ただ、伊藤は自分の無力さと、まわりの人達の楽曲の完成度が高い事に茫然とし、嫉妬してしまった。(プロではない人達が、手の届かないところにいるように感じてしまった事が、より一層彼の脆弱な自尊心に響いたのかもしれない)


 広い世界だからこそできる発見と新たな創作に目を背けて、彼は安全なところへと閉じこもってしまった。そこは一見すると何もかもが自由で思いのままのように思える。何をしても批判や文句は無い。

 ただ、圧倒的に刺激が無かった。そして抜きん出た才能もなく、成長するための手掛かりが見つからない程、彼の目の前は暗く霞んでしまった。


 今ではギターにも埃が目立っている。音楽は昔のものしか聴かなくなってしまった。それを傑作と位置付けて諦める事で、大して立派でもない矜持を保った。(それが崩れるのを恐れて、必死に最近の音楽を避けてきた)

 彼は自らの首を絞め続けている事に気付かないふりをする。


 電源を入れなくなってしまい、本来の役目を一切全うする事のなくなったシーリングライト。その真ん中を黒い影がそそくさと動く。


 蜘蛛かな?暗くてよく見えない。何も考えたくない。彼はただじっと虚ろな目をして毎日を過ごす。



          ○


 家に帰ると柴犬は玄関の入り口で立ち止まり、足の裏を拭いてもらうのを粛然と待っている。男がタオルを持ってくると嬉しそうに尻尾を振って、目をぱっちりと輝かせた。

『そんなに嬉しいか!かわいい肉球してるなあ。しっかり拭いてやるからな。』


 男もまた幸せそうだった。部屋に戻ると知らない間に日は沈み、薄暗くなっていたので照明のスイッチを入れ、カーテンを閉めた。あぁ痛ててて、と呻きながら炬燵に入って、ぽかぽかと体も心も温まる。気づけば横では柴犬が気持ちよさそうに寝転んでいる。そのさらさらとした体を撫でながら、テーブルの上に置かれた分厚いアルバムを開いた。


 思い出は燦然と輝いている。たくさんの写真とポストイットに書かれたメモは、男の心に様々な角度から優しく触れてくる。若い頃の塞ぎ込んだ自分や、目を輝かせて働いていた自分、家族に囲まれて幸せを噛み締めている自分。残りが数ページしかないアルバムにはぎっしりとした重みがあり、それを為す全てが今に繋がっている。

 これまでの人生を振り返ると、実に多くの失敗を重ねてきた。そしてその失敗はいつも後悔を生んだ。時間を取り戻すことが出来ないという当たり前の事を何度も痛感し、自分自身を責めた。だが、いつまでも蹲ってはいられない。また立ち上がっては、向かい風に吹き飛ばされる事も多かった。

 それでも諦めなかった。二十代の時に、何があっても前に進みつづける事を誓ったからだ。ゆっくりでもいいから着実に、新しい場所へと足を運ぶ。

 三歩進んで二歩下がるというのは、まことに人生を的確に表した言葉だと、この男は思った。この男にとって、励ましとなり、心の拠り所となり、だからこそ失敗を繰り返しても大丈夫だと信じてきた。


 そして今が一つの集大成なのだと、彼は天井を見上げる。つくづく圧迫感のある部屋だなと横を向いて語りかけるが、隣の相棒は静かな寝息を立ててよだれを垂らしている。

 

 静かな空間。数々の出会いを通して、たくさんの険しい道のりを歩んできた今では、この狭い部屋の中から色々な景色を手にとるように思い描く事ができる。そしてそれはどれもが足跡であり、ぼうっとした心を甘やかす事なく、地に足をつけてきた証拠でもある。


『いやいや、まだまだこれからだ。』

 アルバムをわざとらしく音を立てて閉じたので、柴犬は何事かと思って、びくっと飛び起きてしまった。


 笑いながら男の目は鋭く輝いている。



          ○


 天井から蜘蛛が降りてきた。やはりさっきまでシーリングライトにぴったりとくっついていたのは蜘蛛だったのだろう。降りてくる速度があまりにも遅くて、伊藤はどこか天啓めいた現象のように感じた。

 風の無い部屋の中を、まっすぐゆっくりと彼の顔をめがけて降りてくる。そして何の迷いもなく、ひっそりと鼻の先に着陸した。

 内心では嫌がっていたのかもしれないが、彼は一切声を上げる事はなく、大人しく蜘蛛が動くまでじっとしていた。

 ふと思い立ったように蜘蛛が彼の顔を調べるように散策し、少しすると納得したかのように、フローリングへと降りていった。


 伊藤は気になって蜘蛛の足取りを目で追った。休憩を挟んでふらふらしながらではあるが、着実に壁の方へ向かっている。これまでじっくりと虫の歩く姿を見た事はない。とてもきびきびとした複雑な足さばきで、難しいダンスを文句を言いながら踊っているように見えて、彼は興味深く思った。

 そして、壁際にある六段の本棚に差し掛かると、今度は重力に逆らってよじ登っていく。本の裏側に行ってしまうと見失ってしまうので大変だ、と彼は突然我に帰ったように起き上がり本棚に近寄って、また間近で蜘蛛の地団駄を踏むかのような足を見つめた。


 伊藤はふと蜘蛛の方も自分を見つめているのかもしれないと思った。

 そしてその時、蜘蛛がぴたっと止まった。


 それは彼が生まれた時に作られた一冊の分厚いアルバムだ。蜘蛛は一切動かない。彼ががそのアルバムを手に取ると、天と地がひっくり返ったような慌て方で、地面に降りていった。もう彼は、蜘蛛の行方を追う事なく、アルバムに夢中になっていた。


 自分自身だとは思えない程、もちもちでとろけそうな赤ちゃんの写真から始まり、成長の記録を親の丁寧な字が並んだポストイットが残してくれている。どの写真も、今に動きそうなくらいに躍動感が漲っている。そしてその軌跡を言葉で表すならば“幸せ”としか表現出来ないものだった。

 そしてまだまだ半分以上も白紙のページがある。伊藤は自分が道半ばどころか、スタート地点付近でくすぶっている事を恥じた。

 彼の心の中では、途切れた電線が繋がり、一瞬にして電流が流れたかのように、隅から隅まで奮い立った。


 たかがこんな事で前向きになれるのか、第三者からは分からないが、彼は目線が自然と上向くような湧き上がる力を感じていた。


 何も計画なんてない。ただ、これが正解だ不正解だという保証もない。非常に不安定な世界で生きている。だから生きている価値があるのかもしれない。

 これからがスタートなのだと、彼はわざとらしく音を立ててカーテンを開けた。


 まぶしい世界へと、彼は長い旅路を行く。

 

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井の中の蛙 メンタル弱男 @mizumarukun

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