Mのマフラー
平 凡蔵。
第1話
渋谷のスクランブル交差点の前に立っていた。
信号は、青だ。
今日もまた、いつもと同じ1日が始まるのかと、少し憂鬱な気持ちで、交差点を行き交う人を見ている。
「まあ仕方がない。行きますか。」
と、歩き出そうとしたら、信号が赤に変わった。
「はは。今日もまた、ついてない1日になりそうだな。」
匠は、そう呟いて、大きなため息をついたら、白い息が、交差点の中に吸い込まれていった。
目の前には、忙しそうに歩く人で溢れている。
その顔は、自分なんかより、はるかに自信に満ち溢れているようで、いつもこの交差点を横切る時は、顔を伏せて誰も見ないようにして、小走りに歩く。
匠は、渋谷のCDショップで働いていた。
もう、大学を卒業して7年になる。
始めは、音楽が好きで、いつも音楽に囲まれていたいという気持ちで就職したが、実際の仕事は、上司に指示される雑用ばかりだ。
「コンサートの時期に合わせて、中島みゆきさんのCDを、全部揃えるのも面白いんじゃないでしょうか。」
そんな提案をしてみたいが、言いかけて、相手の顔を見て、冗談だと、その後に付け加えてしまう。
自分と言うものは、一体どこにあるんだ。
匠は、いつも自分の性格に芯というものがないということに悩んでいた。
相手の機嫌を窺うというか、相手の意見に合わせてしまうというか、そんなところがあった。
「そこが、あなたの良いところよ。」
そう言ってくれた、高校時代の彼女の言葉を、今も大事に心のポケットにしまいこんでいる。
あの頃に、スマホがあったら、彼女の言葉を録音しておくんだけどな。
そして、辛くなった時に、何度も聞き直す。
「女々しすぎるやろ。」
そう自分自身にツッコミをいれたが、彼女にしてみれば、もう自分の事なんて、覚えてもいないだろう。
覚えていないということは、もう存在しなくなったということとイコールだ。
存在しない僕。
自分というものは、何なんだろう。
脳みそなのか、或いは、こころとか、魂というとらえどころのないものなのか。
肉体だけは、自分だと言えるのだけれど、肉体だけが自分だとは思えない。
でも、今も生きているのは、間違いがないんだけれどな。
匠は、自分の頬っぺたを軽く手のひらで叩いてみた。
そんな匠が、少し早めに退社した帰り道のことだ。
普段なら、ひとりでも居酒屋に入る。
匠は、酒が好きだけれども、何より食べることが好きだ。
特定の店じゃなくて、その時の気分で入るのが匠流だ。
美味しいアテを見つけた時は、自分がこの世に存在していて良かったと思える、わずかな瞬間でもある。
だけど、その時の匠は、何を思ったか、若い女の子が入りそうな洒落たお店の前に立っていた。
ラケルというお店だった。
「オムライスか。」
匠は、急に口の中がケチャップの味になって、唾液が溢れてきそうだった。
中に入ると、シマッタと思った。
若い女の子ばかりだ。
恥ずかしいという気持ちが手のひらに汗を出す。
匠は、すぐに緊張するのだ。
と同時に、ちょっとばかり嬉しいという気持ちも沸き起こる。
「いやなに、オムライスが食べたくなってね。ここはオムライスのお店ですよね。」
と、ちょっと昔の小説の登場人物のような言葉遣いで、気取って店員に聞いてみる。
言った瞬間に顔が赤くなるのが分かった。
どうにも唐突で、滑稽な質問だ。
4人掛けのテーブルに座ると同時に、隣の4人掛けのテーブルに、ひとりの女の子が座る。
座る時に、匠を見て、軽い会釈をした。
オレンジ色のコートを脱いで、マフラーを、横に置いた。
ひと目で手編みと解るマフラーは、白い色が新鮮で、「M」の文字が、大きく端っこに、赤い糸で編み込まれている。
匠は、そのマフラーが気になって仕方がなかった。
どこかで見た気がしたのである。
隣の席の女の子は、店員に、フレンチトーストを注文した。
「こんな時間に、フレンチトーストかい。」
口に出さずにツッコミを入れる。
すると、そんな匠のこころの声が聞こえたのか、隣の女の子が、「ここのフレンチトースト、美味しいんですよ。」と、匠に声を掛けた。
匠は、たぶん学生だろう彼女に、声を掛けられて、急に胸のあたりの血圧が上がったようだ。
「緊張している。」
そう思った。
「そうなんですね。僕は、オムライスが食べたくなって、初めてお店に入ったんですよ。」
「あ、オムライスも美味しいですよね。」
「よくこのお店には、来るの?」
「ええ、美術館に行った帰りには、何故か甘い物食べたくなるんです。今日も、ホキ美術館に行ってきたんですよ。」
「ホキ美術館?聞いたことないなあ。」
「写実絵画で有名なんですよ。あたし、大学の美術クラブで、写実絵画に興味があるんです。」
「写実絵画、、、。そういえば、以前、どこかで見たことがあったな。でも、写実って、見た目そのまま描くんでしょ。今はさ、カメラとかビデオとかある時代なのに、写実って、時代を逆行してない?」
そう匠が言うと、彼女は、手のひらをグーにして口に当てて、「ククッ。」と、目を細めて笑った。
可愛いと匠は、ドキリとした。
「まあ、そうですね。、、、そういうことにしておきますね。」
と、悪戯っぽく、また両目でウインクをして匠を見た。
「いやいやいや、その意味ありげな『そういう事にしておきますね。』って何なの。それに、その『ククッ。』ってのも気になるじゃない。」
「だから、時代を逆行でいいですよ。」
「いやいやいや、ダメだよ。教えてよ。」
匠は、どんどん彼女の魅力に惹かれていく。
「あの、写真って言うのは、ただ一瞬をフィルムに写すだけでしょ。それも、1つのレンズを通して、平面的にね。だから、写真を見ても、そこに時間も空間も感じないのね。いつか知らない過去の一瞬。そこにあったものを、切り取っただけの風景。人の写真でもさ、風景でもさ、そこに実物を感じないの。魂の抜かれた人っていうか、魂の抜かれた風景なんですよね。」
「ふうん。そうなのかな。じゃ、写実絵画は、違うってことを言いたいのね。えっと、、、あ、名前聞いても大丈夫なのかな。」
「ええ、いいですよ。あたしは、大島怜子って言います。」
「あ、僕は、中村匠って言います。この近くのCDショップで働いているんだよ。」
「CDショップって良いですよね。あ、中島みゆきさんのCDとDVD全部揃えて陳列してください。良いと思うんですよね。みゆきさんのCDが、ずらーっと並んでるのって、気分爽快ですよね。」
「あ、君もみゆきさんのファンなの?実は、僕もそれを提案したんだけれど、没になっちゃったんだ。」
本当は、上司の顔色を窺って、自分から提案をひっこめたんだけれど、彼女の前では、それは言わなかった。
彼女に気に入られたいと思っているんだなと、匠は自分で自分を見ていた。
「そうなんですね。感性の乏しい上司なんですね。これからは、みゆきさんの時代なのが解らないのかなあ。」
そう聞いて、匠は、吹き出しそうになった。
みゆきさんは、もう何十年も、一線で活躍しているんだけどなあ。
言ってみれば、ずっと、ずっと、みゆきさんの時代なんだよ。
まあ、若い彼女には、解らないんだろうな。
そんな彼女が、急に愛おしくなった。
「あ、そうだ。写実絵画だ。写実絵画は、魂が抜かれてないってことを言いたいの?」
「そうそう、そうなの。あたしも写実絵画を見る前は、写真みたいなものかなって思っていたのね。でも、違ったのよ。衝撃的だった。あのね、人間は、二つの目で見るでしょ。カメラみたいに1つのレンズじゃないの。だから立体的だし、作者が、描かれるものを実在していると認識してる訳。それを、一旦頭の中で処理するのね。それからキャンバスに描く訳。だから、そこに作者の頭の中の実在が投影されるのね。だからあ、、、そこに実在が描かれるのよ。実在が描かれたら、そこに実在がね、実在するのよ。どう?」
「どう?ってたって。そうなんだなって思ったよ。」
「ううん。納得してないと思う。」そう言って、怜子は笑った。
怜子は、そのあとも、匠に、実在と非実在について、楽しそうに一方的に喋っていた。
匠は、話の内容よりも、彼女の嬉しそうな表情を見ているだけで、何かこころ踊るものを感じていたのだった。
ひとしきり怜子が喋った後に、店に入った時から気になっていたマフラーについて聞いた。
あれから、思いだそうとしていたが、やっと気が付いたのだ。
いつも出勤する途中の川沿いのガードレールに結び付けられているマフラーに似ているのだ。
白地に「M」のマークの編み込み柄。
それが印象的だった。
道を歩いていると、時に手袋の片っぽとか、靴の片っぽとか、そんなものが落ちていることがある。
それを見ると、匠は、いつも、その持ち主を想像せずにはいられないのだ。
でも、その想像は、ちょっと変わっていて、片方を無くした持ち主は、ひょっとして、もうこの世にはいない人なのではないだろうかと、いつも漠然と考えてしまうのだ。
片方の手袋は、その持ち主の抜け殻のように、ポツリと道端に落ちている。
落ちている手袋は、間違いなくこの世に実在している。
でも、その持ち主は、今どこで何をしているのだろうか。
片方の手袋をした持ち主が、どこか違う空間に迷い込んでしまって、この世界に戻ってこれなくなっているイメージが浮かんでくる。
この世からは、見えない。
それを実在していないというのかもしれない。
非実在の人間。
しかし、非実在の世界があるとするなら、その世界には、実在してるのかもしれない。
また違う次元の世界があるとすればだけれど。
匠は、意味不明なことを考えていた。
そんな匠が、マフラーについて思いだした。
いつも通勤するガードレールに巻き付けられたマフラー。
思い出してみると、もう2週間ぐらい見続けているだろうか。
誰かが落としていったマフラーを、誰かがガードレールに巻き付けたのだろうか。
落とし主に解るように。
或いは、この場所で、交通事故に遭って亡くなった人の形見なのだろうか。
花束を供えるような気持ちで、生前気に入っていたマフラーを、遺族が供えたのかもしれない。
ガードレールの横を通るたびに、そんな想像をしていた記憶が蘇って来た。
確かに、隣に座っている怜子が巻き付けていたマフラーは、あのガードレールのマフラーだ。
「M」の文字が印象に残っている。
しかし、そのマフラーをしている怜子は、誰なのだろうか。
考えられるのは、匠は知らないけれど、有名ブランドの市販のマフラーということだろう。
女の子なら、誰だって知っているマフラー。
市販のものだったら、説明が付く。
匠は、勇気を出して、怜子に聞いた。
「あのさ、そのマフラー。有名なブランドなの?」
すると怜子は、マフラーを一瞬見て、得意げに言った。
「あ、これ?これあたしが編んだの。」
「そうなんだ。でも、「M」って何なの?」
「あれ、解んないの?みゆきさんの「M」よ。だって、ファンだから。」
「成るほど。そういうことね。」
「でも、不思議なこともあるもんだな。同じようなマフラーを、いつも通勤の時に、見かけるんだ。」
「ふうん。そのマフラー見て、どう思った?」
「いや、どうして、ガードレールに巻き付けてあるのかなと思ってたよ。というか、その前に、どこで見たのとか、誰が巻いているのとか聞かない?」
「あ、そうだよね。何となく、どこかに落ちてたのかなと思っちゃったから。不思議だよね。」
「すごい勘が良いんだね。そうそう、通勤途中のガードレールに巻き付けられてたんだ。もう2週間ぐらいそのままの状態でね。誰かの落とし物か、誰かがそこで事故に遭ったとか。そんな想像もしてたんだ。でも、そのマフラーに、そっくりなんだけどなあ。」
「ふうん。面白いね。それも手編みだったの。」
「ああ、手編みだったと思うよ。それよりも、白地に、赤で「M」の文字だよ。偶然にしても、不思議じゃないか。」
「ねえ、そのマフラーの持ち主、あたしだったら、どうする?」
怜子が、匠を試すように聞いた。
「あたしだったらって、マフラーを、外出するときは、首に巻いて、家に帰る前に、ガードレールに巻く訳なの。そんなの変でしょ。」
「じゃ、マフラーが2つあるとかさ。1つは、あたしが巻いて、1つは、ガードレールに巻き付けてあるの。」
「何の意味があって、そんなことするの。それも変でしょ。」
すると、怜子は、両手を頭の上にクロスして乗っけて、「うーん。」と言いながら、唇を尖がらせる。
薄いピンク色のルージュが、怜子の唇の色と錯覚しそうなぐらい透明感があって、若い女の子でしか表現の出来ない色気を感じる。
匠は、その唇を、じっと見つめていた。
すると、怜子は、頭に乗っけた腕を、バタンと膝に落として、「なあんだ。詰まんない。」と、悪戯っぽく笑った。
「お兄さん、想像に面白味がないよ。このマフラーはね、手編みなの。それで「M」の編み込みがしてあるの。こんなマフラー、他に探してもないよ。だから、ガードレールのマフラーも、同じマフラーなの。それを、今あたしが巻いてるのっ。」
「じゃ、君は、どうして、そのマフラーをして、ここにいるのよ。それに、ガードレールに、どうして巻き付けるのよ。」
匠は、本当に不思議だった。
或いは、怜子に、からかわれているのか。
その反応を見て、怜子は、嬉しそうに続けた。
「あのさ、お兄さん、ガードレールのマフラーに触ったことあるでしょ。」
唐突に変な質問をした。
そういえば、1週間ぐらい前に、そのマフラーが妙に気になって、手に取って、Mの文字を見たことがある。
しかし、どうして、その事を、怜子は知っているのだろうか。
「あ、ビックリしたでしょ。だから、その時にね、あたしと繋がったのよ。マフラーに触った瞬間、マフラーの持ち主のあたしと繋がっちゃったの。解る?」
怜子は、前かがみになって、匠の前に顔を出して、覗き込むように下から見つめた。
「どうして、知ってるの。見てたの?」
「だから、あたしのマフラーだって言ってるの。」
「意味わからないよ。」
「やっぱり、想像力がないなあ。例えば、あたしが死んじゃってるとは思わない?実はね、告白しちゃうけど、あたしは、あのガードレールの横の川で自殺したの。その時に、あたしが、ガードレールにマフラーを巻いたのよ。だから、ガードレールのマフラーは、今あたしが巻いてるマフラーと同じなのよ。」
「面白いことを言うね。じゃ、今の君は、実在していないってことなのね。ここにいるけど、実在していないのね。」
匠は、やけくそ気味で聞いた。
「そうだよ。」
怜子は、静かな口調で答えたので、冗談なのか、どうなのか分からなくなる。
「じゃ、実在しているか、してないか、君に触ってもいい?」
「きゃー、お兄さん、エッチーっ。」怜子は、お店にいる他の客がビックリするほどの声で、ケラケラと笑った。
一斉に、周りの女の子の客が、僕に注目したじゃないか。
「頼むよ。恥ずかしいじゃないか。」そう小声で怜子に言った。
「でもね、あたし気が付いたの。あたしが生きてるとしたら、それって実在でしょ。それで、あたしが死んじゃったら、実在しないじゃない。これって、非実在でしょ。でも、あたしは、ここにいるんだよ。死んじゃってるのに。だらからさ、気が付いちゃったの。人間はね、実在してる人と、実在していない人と、そんでもって、実在もしていないけど、非実在でもない、そんな人がいるの。実在しているような、していないような、そんな状態っていうか、そんな人がね。それが、あたしなのよ。どう、偉いでしょ。エッヘン。」
怜子は、嬉しそうに、胸を張って見せる。
「それじゃ、詰まりは、幽霊ってことなんだね。ヒュードロドロドロってやつだ。」
「もう、全然、人の話聞いてなーい。」
今、隣にいるのが、幽霊だとしても、怖がりの匠でさえ、怖いと思わないのだから、ホントは、幽霊ではないのかもしれない。
しかし、隣には、確かに怜子がいる。
その怜子が、実は、死んでいるのであっても、僕の脳の中で、確かに怜子がいると認識しているのなら、それは、間違いなく実在であるはずだ。
たとえ、今、怜子が消え去って、肉体が消えても、隣に怜子がいると僕の脳が認識したら、それは実在だ。
詰まりは、死んでいる、生きている、肉体がある、肉体が無い、そんなことは、実在しているかの判断には、関係ないのかもしれない。
実在していると認識した瞬間、実在は、完結するのだ。
匠は、そんなことを考えていた。
「もう、あたしの話を聞いてくれないお兄さんは、あたしにとっては、実在してないと同じだよ。」
怜子は、今までにない笑顔になって、半分声を押し殺しながら、身をよじって笑った。
それからは、もう実在非実在の話はしなくなって、ずっと、中島みゆきさんの歌について喋り続けた。
「やっぱり、お店に、みゆきさんのCDは、全部置いて欲しいなあ。」
「わかった、じゃ、明日でも提案してみるよ。」
そう言って、2人で店を出て、そこで別れた。
それにしても、不思議な出会いである。
しかも、可愛い女の子だ。
匠は、別れてから、次に会う約束をするのを忘れていたことに気が付いた。
でも、何故か、また会えるような気になっていたのである。
その帰り道、ガードレールまで来て、少しばかり驚いた。
マフラーが無い。
誰かが、外して、ゴミとして処理したのだろうか。
或いは、やっぱり怜子がしていたマフラーは、ここにあったマフラーだったのだろうか。
不思議な気持ちで自宅に帰る。
そんなことがあった、翌日。
匠が通勤でガードレールまで来た時に、ハッとした。
マフラーが、巻き付けてある。
匠は、そのマフラーを、ゆっくり解いて、手に取ってみた。
排気ガスで少し汚れたマフラーに、くっきりと赤い「M」の文字がある。
やっぱり、怜子のマフラーだ。
匠は、そのマフラーを、自分の首に巻き付けて歩き出す。
このマフラーが、また怜子に会うための仕掛けのような気がしたからだ。
怜子の話が本当だとしたら、今この世界に怜子は実在しない。
その実在しない怜子に、匠は、どうしても会いたいと、焦るような気持ちで歩いていることに、匠自身気が付いていた。
怜子に恋しているのだろうかと自問していた。
でも、そんなことは、どうだっていい。
怜子に会いたい。
巻き付けたマフラーと、首の皮膚の間に、汗が滲んでくる。
匠は、ほとんど走っていた。
焦っても、そこに怜子がいるとは思えないのだが、焦っていたのである。
匠は、急に足を止めた。
渋谷のスクランブル交差点だ。
信号は、青だ。
青だけれど、立ちすくんでいた。
目の前を、入り乱れて横断する人間が、匠には、実在しているのか、実在していないのか分からなくなっていた。
この中の半分が、実在してなかったら、さぞかし歩きやすそうだな。
そんなことを漠然と考えていた。
いや、怜子の様に、実在しているようで、実在していないのかもしれないな。
昨日の話を思いだして、ひとり笑った。
でも、誰も気が付かない。
いや、目の前にいる人間は、すべて実在していないのかもしれない。
すべては、僕の脳が作り上げた幻想だ。
そう匠は、考えだした。
そう考えると、急に目の前の人間が消えて、誰もいない交差点が見えた。
ハッと我に返って、誰もいない交差点に飛び出した。
「キキーッ。」
急ブレーキの音が聞こえた気がした。
身体が、何か硬いものにぶつかる衝撃を感じた。
全身に走る痛み。
目を開けると、信号は赤に変わっていた。
それで、自分は、車に轢かれたのだと気が付いたのである。
温かい血が、腹から流れているのが解る。
もう、ダメなのかもしれない。
そう思って空を見上げたら、怜子が匠を覗き込んでいた。
そして笑いながら、匠に言った。
「実在しない世界も楽しいよ。」
「そうかもしれないな。」
なんとか、怜子に言葉を返す。
匠は、自分が死んでしまうのかもしれないと思う恐怖よりも、怜子に会えた嬉しさを感じていた。
Mのマフラー 平 凡蔵。 @tairabonzou
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